2011年09月22日

狸小路きみこ『オサクばあちゃんのひとりごと』法邑興業株式会社 九五二円+税

 今ここにあったものがない。昨晩何を食べたか、…んー、思い出せない。えーと、この人の名前はなんていったっけ。いつ頃からだったろうか、そういう自覚症状が出てきた。赤瀬川原平が『老人力』(ちくま文庫 七一四円)なんて言い方をして慰めてくれたのはいいとして、やはり歳を取りつつある人間にとってはこうした症 状が進んでいった先が不安でならない。二十年後、いや十年後に今の自分を保っていられるかというと自身はない。しかし、いわゆる認知症の状態になってしまった人の気持ちは何処まで理解できているのだろうか、と思うと、これまた心許ない。
 一方で、高齢者に対する話しかけ方も気になる。若い人がまるで子ども相手のように「おじいちゃん、何が食べたいの?」なんてお年寄りに向かって言ってるのをしばしば見ることがあるが、自分がそう言われるようになったときのことを想像するだけで恐ろしくもなる。
 既にわれわれは高齢社会に生きている。高齢者の存在は人権問題の中でも重要な位置を占めるようになってきた。なってきたが、高齢者のことについてどれだけの理解がなされているのだろうか。理解がされていないから未だに子ども扱いのような対応がなされているのだろうと思う。
 本書は二人の認知症の高齢者(夫の祖母と母)を介護した女性による手作りの絵本である。主人公は八十八歳になる認知症のオサクばあちゃん。狸の姿をしているキャラクターがかわいい。そのオサクばあちゃんがついついやってしまういろいろな行動や失敗なんかが本人のひとりごととして描かれている。まあ、認知症の人がし てしまうことが次々出てくるのだが、高齢者本人の側からのメッセージとして読む者に伝わってくる。その言葉は著者が二人のばあちゃんとつきあってきた中で学んできた体験から導き出されたものなのだろう。だから認知症になった(なりつつある)高齢者の心の動きや不安といった気持がよく描かれている。そして、認知症であ っても人間であることの尊厳は失っていないことを教えてくれる。
 高齢社会の中で高齢者になりつつあるあなた。そして高齢者とつきあうことになる高齢ではない人たちに是非とも読んで貰いたい一冊だ。もちろん絵本だから子どもたちにもいい教材となるだろう。


★★★★ 最後にね「順番じゃ!」って言葉で締め括られている。そう順番なんだよ。
 そうそう発行が法邑興業ってあるけど、ま、自費出版みたいなものなのだ。どうしたら手に入るかっていうと、著者が経営している茶廊法邑(さろうほうむら)(011・785・3607)http://houmura.com/に直接問い合わせるか、いわた書店(http://homepage3.nifty.com/iwata/ email:PXY07224@nifty.com)に聞いて みるといい。きっと何とかしてくれる。

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伊藤氏貴『奇跡の教室 エチ先生と「銀の匙」の子どもたち』小学館 一三〇〇円+税

 灘高等学校は知ってるね。そう、東大にバリバリ合格者がいる日本一の進学校だ。この学校がかつては公立の滑り止めだったって知ってたかな。この本の主人公エチセンセイこと橋本武氏が旧制灘中学校に赴任したときはまったく無名のボンボン学校だったんだな。それが戦後一気に進学校として急成長したのだ。
 進学校として実績を上げるようになったのにはいろんな事情があるだろう。生徒にバリバリ受験勉強を叩き込めば受験の成果があがるのかというと、必ずしもそうではない。ほら、そのあたりの高校は頑張ったところでそんなところだからだ。ちなみに、よく言われることだが、関西の私立高校が進学校として成長した背景には戦後の公立高校の学区制の問題があることは否定できない。通学区が制限されるので特定高校に成績のいい生徒が集まらないというので、その生徒が私立高校に流れたというのだ。しかし、そのことだけでは説明できない。その伸び方には学校差があるし、殊に灘高校が進学実績で成長したのはそれより少し遅れてなのだ。何でだろう。
 で、だ。本書の主人公であるエチ先生は新制中学・高校の教育に彼なりの期待をしたのだ。灘中学校は戦後の学制改革で新制の灘中学・高校の六年一貫校となる。そして一教科一教師で持ち上がるというスタイルで、授業の内容はすべて教師の自由というのが、灘中学・高校の特徴なのだった。そこでエチ先生は自分が新たに中学一年を担当するときからとんでもない授業に取り組むことにしたのだ。それは教科書を使わないことだ。そのかわり、中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)一冊を中学校の三年間かけて読むということだった。エチ先生が最初の中学一年生を受け持ったのが昭和二十五年だった。その六年後の昭和三十一年に最初の卒業生が出る。この年、灘高校の躍進が始まったのである。全国の東大合格者高校別ランキングで二十二位にランクインしたのだ。そして二代目『銀の匙』組が卒業した昭和三十七年には京大合格第一位となり、三代目が卒業した昭和四十三年にはついに東大合格第一位の座を手にする。その後の灘校は誰もが知るあの灘校である。
 どういう秘密があるのか。まず、すべての教科の基本は国語力だということだ。受験勉強だって詰め込みでは限界があって、「観察力、判断力、推理力、総合力などの結集がものをいいます。その土台になるのが、国語力だと思います。」(七十九頁)とエチ先生は言う。そして一冊の文庫本を三年間かけて読むという読み方にその答えがあるのだ。
 えっ!早く教えろって?だめだな、自分でちゃんと読まなくちゃ。国語なんだから。しかし、これはすごい方法であることは確かだ。ただ、まちがいないことは、エチ先生は受験指導はしないということ。そして灘校の教育は詰め込みではなくて「自由」な教育だということだ。
 ともかくこの方法で学んだ生徒たちは確かな「学力」を身につけ、東大やら何やらに入っていっただけではなく、その後の人生もバリバリやってんだそうな。そして卒業生たちは未だにその授業の中で生まれたものを持っているんだと。そして、また残念なことに灘校でエチ先生の授業を受けられたのは六年に一度の学年しかないということだ。だから、昭和五十九年に七十一歳で退職したエチ先生に『銀の匙』の授業を受けたのは灘校の中でも五世代、一〇〇〇人程度しかいないのだと言う。なんという無駄なことをしているのだと思うかもしれないのだが、それでいいのだというのが、この学校の方針なのだろう。受験校の代表格のように言われる灘校は詰め込みではないらしい。そのことだけでも驚きだ。
 「あえて捨てる、徹する、遠回りする」「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」「正解よりも自分の興味に忠実であれ」…それが橋本流スロウ・リーディングの根底に流れる思想だ。ちょっとわれわれは目先の成果に焦りすぎてはいないだろうか。

☆☆☆☆ エチ先生の授業、『銀の匙』は中学生が対象だ。さて、受験、受験と生徒の尻をたたいている諸君、こんな授業をやってみる勇気はあるかな。
 ところで、エチ先生こと橋本武先生は現在九十九歳でお元気だそうな。
 

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水野宗徳『さよなら、アルマ』サンクチュアリ出版 一二〇〇円+税

 平和教育がマンネリ化しているって誰かが言ってたけど、そうかもしれない。だってあの戦争が終わって六十五年。戦争を記憶している人ってみんな七十歳過ぎじゃないの。日露戦争が終わって六十五年後って一九七〇年よ。大学紛争も終わっていたわ。まあ、このことにドキッとする人じたい、もうだいぶお歳よね。
 だから、今の子どもたちにとって戦争ってほんとうに大昔のことなのよ。だけど、あの戦争はこの国にとってほんとうにたいへんなことだったんだし、その痛みはいろんな形で残していかなくてはならないのね。
 だからマンネリでもいいから、あの戦争のことは、いやあの戦争で悲しい思いをしたことは伝えていかなくてはならないと思うの。戦争の悲しみっていうのは愛するものとの別れだ。愛するもののために戦う、なんて言うのは嘘よ。戦争って戦うことで愛する者と別れざるを得ないことなのね。そのことを戦争好きの人たちはわかっていない。ていうか、想像力がないのかも。子どもたちの平和力(!)を育むのにたいせつなことはその想像力じゃないかしら。愛する者と幸福に暮らしたい。そのためには武器を持ってよその国にまで行って戦う必要性なんてまったくないのよ。その想像力は育てたいわよね。と言っても、教えるセンセイ自体戦争体験なんてないし、想像力だって枯渇しているんじゃないかな。
 この本はそれでもやっぱりあの戦争の時の話なのね。戦争をやってしまった事情やら、他の国や、他の民族に対してどんなにひどいことをしたかみたいなことはどんどん忘れていくことのようなのね。そして歪んだ愛国心やねじれた民族主義みたいなのがじわじわ復活している危機感はあるわ。でも、愛する者との別れは想像できる。愛する者と別れなければいけないことと敵を作って争うこととを比べれば、戦争がまずいことだというぐらいは伝わるんじゃないかな。
 この本は軍用犬の話なのね。そう戦争に行って戦った犬の話。この本の著者は戦争なんてまったく知らない世代の人なんだけど、図書館の雑誌で見つけた一枚の写真に突き動かされてこの本を書いたというの。その写真というのは「祝出征アルマ号」という幟の傍に行儀よく座っている犬の写真。賢そうなシェパードね。この犬がどこの誰の飼い犬だったかはとうとうわからずじまいだったんだけど、この一枚の写真から著者の水野さんはすてきな、そして哀しい物語を紡ぎ出したの。一匹の犬と子どもたちの、そして戦争に巻き込まれた人間たちとの愛の物語よ。
 あの頃は徴兵制度があったから、若い男の人は次々と兵隊にとられていった。それは無数の別れだったんだけど、戦争に行くことになった人たちはそれぞれ自分の意思を持たされて戦地に赴いた。でも、犬にはそんなふうに国家のことを考えたり、民族のことを考えて、別れを正当化することなんてしやしない。子どもたちだってそうだ。犬と子どもたちは純粋に愛でつながっている。子どもたちは戦争というつらい時代の中でアルマをかわいがっていたのね。だけど戦況は悪化してアルマにまで赤紙(召集令状)が来ちゃったのね。そしてアルマにその餌のために軍用犬の訓練をさせちゃった責任を感じた若者がアルマを追って満洲に行く。そしていろんな出会いと別れがあって…
 この物語の中で描かれているのは犬と人間との関係なのね。いや、ちがう。生き物と生き物の関係かな。軍人は命令で人を動かす。犬にもそうやって命令しようとする。でもね、犬は愛する者のために働くのよ。愛する人が喜ぶなら危険を顧みず任務を果たすのよ。そんな人間とアルマの関係を見ていたら、いつも命令文で話している自分が急に恥ずかしくなっちゃった。教師も軍人に似てるね。


☆☆☆☆ 犬と人間の命はどっちが重たいのか。こういう物語を読んでいるとわかんなくなるのよね。でも、犬のために人間が死ぬこともあるんだ。つまりさ、いのちっていうのは平等なのよ。あっ、誰のいのちもたいせつっていうのはこういうことなんだって気づかされた。まあ、読めばわかるって。
 それはさておき、この軍用犬と子どもたちの物語、小学生でも読める文体だから、クラスの子どもたちに買ってあげてね。もちろんセンセイのお小遣いで、よ。
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2011年01月01日

百田尚樹『永遠の0』講談社文庫 八七六円+税

 戦争とはむごいものである。そんなことは百も承知なのだが、そのむごさを僕たちは忘れてしまったのかもしれない。殊に日本がやってしまったあの戦争は無謀な戦いでもあったが、それに対する異論を一切許さなず、異様な精神状態を煽られるようにして破綻に向かっていった。そのことはあちこちで書かれているから今さら繰り返して言う必要は無いだろう。
 この戦争で闘った兵士たちはどういう気持ちで闘っていたのだろうか。単純に熱狂的な愛国者であったとか、みんな軍国主義者へと洗脳されていったのだ、とか非難がましいことを言うのは簡単である。特攻隊として死んでいった人間がほんとうに自ら死を望んで志願していったのか。実際、志願していったのであるから、そうなのだろうと言ってしまっては極限状況の中での人間について理解することはできないだろう。
 戦後、平和教育は戦争の悲惨さを語り、その過ちを追求し、平和のありがたさを子どもたちに伝えようとしてきた。しかし、戦後六十五年という歳月が過ぎた。その戦争を体験した人も高齢となり、日本の戦争体験そのものが風化しているのかもしれない。だからこそ現在のわれわれと血の繋がる実感の中で戦争体験は残しておくべきなのではなかろうか。
 本書は平和教育のテキストじゃあない。一篇の小説である。んで、ちょっと厚い(文庫本で二・五センチ)。
 『永遠の0』の0とは太平洋戦争で活躍した海軍の戦闘機零戦(ゼロせん)のことだ。今の若者がどれだけ零戦について知っているかはわからないし、まして子どもたちは知らないんじゃないかな。だけどある年齢以上の人なら誰でも知っている名機なのだ。ゼロという名前はアメリカの兵士にとっては不気味なイメージを与えていたようだ。何しろ何にもない0を名乗っているのだから。だけど、そういう不気味さを漂わせるために付けた名前ではない。零戦の0とは昭和十五年に作られたことに由来する。その年は皇紀二六〇〇年という記念すべき年として日本全国が盛り上がった年だ。皇紀というのは西暦に対抗して日本独自の紀元を作ったもので、神武天皇が即位した年を元年として定めたものだ。まあ、歴史的な信憑性は全くないのだけれどね。この皇紀二六〇〇年の0をとって零(れい)式艦上戦闘機と命名したもので、通称ゼロ戦と読むのはその後の成り行きだったみたいだ。
 という寄り道はともかく、本書は一人の零戦搭乗員をめぐる物語である。物語はフリーライターの姉と司法試験に挫折している弟の二人がひょんことから自分たちの祖父について調べ始めようとしたことから始まる。この姉弟の祖父は健在なのだが、実は血のつながりがない。祖母は再婚であり、夫は娘、つまり彼女たちの母親を残して特攻隊員として亡くなったのだという。彼女たちは若くして亡くなった祖父の人物像を明らかにしていくために戦時中の祖父を知る人を訪ね、祖父の人間性を訊きだしていくのである。まず最初に聞かされたのは祖父が臆病者であったということ、なんと戦闘機乗りたちがみんながこぞって死を覚悟していた時に「死にたくない」と公言していたというのだ。孫である二人を前に祖父への嫌悪感を剥き出しにする人、祖父が戦闘機乗りとしては卓越した技をもっていたこと、部下に対しても敬語を使うような人物であったことなど、少しずつに祖父なる人物の実像が明らかになっていくのだ。新しい証言者に会うたびに祖父の人間像は固まっていく。舞台はラバウルであり、ガダルカナルであり、大村であり、所を変えてはいくが、いずれにせよそこは戦場であり、祖父も、また姉弟に当時を語る老人たちもみな毎日誰かが死んでいくという極限状況の中にいたのである。その異常な世界の中で死にさらされた人々の人間の思想、死生観は言葉の裏の裏もしくはその裏で屈折して吐露される。
 そうやって彼女たちの未知の祖父の実像が解き明かされていく過程は息もつかせず、ぐいぐいと読む者を引き込んでいくのだ。そして日本という国が、日本軍が、いかに愚かな戦いをしていたのかも明らかになってくる。そして日本軍の指導者たちの人命に対する感覚、彼ら自身の保身、思慮のなさ、そんなものも白日のもとに曝されていく。
 その中で人間の真実というものに読者は出会う。平和教育をしっかりと行うつもりならば、このような人間の本質に迫るものでなければならないだろう。本書中に登場してくる姉の恋人は特攻隊を「テロリストと変わらない」と言い、彼らは洗脳された熱烈な愛国者だと非難する。この程度の平和イデオロギーはわれわれの周縁にはいやと言うほど蔓延している。だけどそのリアリティのなさをわれわれは気づくべきではないのか。本書はこういう薄っぺらい人間観、平和主義を俎上にあげて本書は特攻隊員たちの真情に迫っていくのだ。彼らは単純に国家や天皇に殉じて死んでいった妄信的な愛国者なのではない。それを読み取る力が平和教育には必要だし、ある教職員団体が「教え子を再び戦場に送るな」と言っていた原点はここにあるのだろう。この標語を標語として風化させないためにも、また人間の命の尊さを再確認するためにもこの小説は読んでおきたい。
 本書は実在の撃墜王と呼ばれた人物を登場させ、特攻に象徴される日本軍の人命に対する感覚、作戦のまちがい、指導者の無能などを史実をもとに的確に叙述し、あの戦争のあり方がいかにまちがっていたのかを見事に描ききっている。この小説は平和教育に実を与えるものをたっぷりと盛り込んでいる。ミステリーと言ってもよい小説なので、中学生なら読めるし、是非とも読んで貰いたい。まして平和教育にかかわる教師ならなおのことである。


☆☆☆☆ あくまでこれはミステリーなのだ。謎解きが仕組まれている。想定外の結末が待っているのだが、その結末を知ったとき私は止めどなくあふれてくる涙を抑えることができなかった。そして涙を拭いたとき、この小説が何より美しい人間の心情を描いた崇高な恋愛小説であることを知った。
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2009年11月24日

加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 一七〇〇円+税

 歴史って暗記科目だ。そう思って生きてきた。そう思っている人ってけっこう多いんじゃないかな。大学生はまちがいなくそう思っているからね。この間バイトの学生に「日本史とか好き?」って聞いたら、「好きですよ」という答えが返ってきた。へぇぇぇ、と感心して、「どこがおもしろいの」と返すと、
「私、覚えるのって得意なんです。それで覚えただけ点が取れると楽しくって。努力の甲斐がすぐに出るでしょ。」
 笑い話みたいだけど、その学生、ごくまじめに答えてんの。ほんとうにマジな話なのね。そんな人が教師になってまた覚えるだけの歴史を教える。そうやってどんどん歴史は受験以外に役に立たない科目になっちゃうんだな。

 あれ?この逸話、可笑しくない? ……あ、そうか。この話、何が可笑しいのかもたぶんわかんない人がいるかもしれないわね。なんせそういうふうに教わってここまで来ちゃえばねぇ。そういう人のためにひとこと言うと、歴史って暗記科目じゃなくて考える科目なのね。そして受験じゃなくて日本の明日のために役に立つのよ。きっと。
 そういうことを実際にやってみたのがこの本。書いたのは東大の日本史のセンセイ。でもこの本はこのセンセイが書いたと言うより、このセンセイが中学生、高校生に講義した成果なのね。だから、中高生向きの教科書と考えればいいわ。
 加藤センセイは日本史の教育は大学では遅い、鉄は熱いうちに打て、とかねがね思っていたようなのね。それで彼女なりの「理想の教科書」を書きたかったらしいんだわ。それを知った朝日出版社が加藤センセイに中高生を対象に講義をさせるという企画をしたらしいの。その成果がこの本というわけ。
 というわけで、加藤センセイの日本史講義は二〇〇七年の年末から翌年にかけての五日間の集中講義で行われたのね。お相手は栄光学園中学一年生から高校二年生までの一七名。歴史研究部のメンバーが中心だというので歴史に対する関心は強い生徒たちだ。という前置きはさておき、五日間の集中講義なので、講義を聴くつもりで読むとついていきやすいわ。実際の講義をもとにしているから、ときどき生徒に問いかけたりしているのね。そのやりとりがけっこうレベルが高い。しかし、中学生や高校生でこの程度の反応はできておかしくはない。そういう素地があればね(小中学校の責任だよ)。
 で、題名がすごいでしょ…「戦争」を選んだ…だもね。講義のテーマは「日本の近現代と戦争」なんだ。日清戦争に始まり太平洋戦争に至る、その戦争をどうして日本は選択してきたのかを生徒たちにまさに当事者になったつもりで考えさせながら歴史を解読していくのだ。日清戦争-日露戦争-第一次世界大戦-満州事変と日中戦争-太平洋戦争と章立てはそうなっているけど、それらの戦争はずっと一貫して続いてきたんだってことがわかるし、それは日本とアジアだけに閉じた歴史じゃなくって、世界史的な構造の中での話だったことがわかってくる。学校の歴史教育が日本史と世界史に分かれていること自体がおかしいのかもしれない、と思っちゃうね。
 そうすっとね、単純に侵略したとかしなかったとかではなくて、その時代の中にいた日本人の歴史を選択してきた理由を推し量ることになるんだなあ。歴史ってこんなに意味のあるものだったんだってことがよくわかる。受験のためだけに暗記させていく歴史教育がいかに非効率的かってこともよくわかるね。だってこの本のほうが教科書よりもよく歴史がわかるんだもん。わかるだけじゃなくて、この本を手かがりにちょこちょこ調べていくと入試なんて屁のカッパだな。ちゃんと理屈の通った物語として頭に入っていく。試験対策に覚えなくても自然にいろんな物事が頭に入っていく。まさに「理想の教科書」なんではないかな。
 平和教育に戦争の悲惨さだけを実感なくつたえたり、侵略と被侵略の単純な構図なんかで歴史をいじりまわすこともちゃんちゃら可笑しくなっちゃう。そんなわけで、この本で授業改革できそう。
 自分で授業を作るためには参考になりそうな文献やらなんやらは加藤センセイがいっぱい紹介してくれているから、自分なりの授業プランが作れそうだし、高校だったら日本史と世界史をドッキングさせて授業作りもできそう。但し、教師の力量が問われることもまちがいないけどね。
 もちろん、フツーに歴史書として読んでも痛快。あたしも松岡洋右を見直しちゃったし(国際連盟脱退の時に席を蹴って退場するイメージとは別の、ほんとうは戦争なんかしたくなかった彼を知ってしまったの)、何枚も眼から剥がれる鱗があると思うよ。
 とは言え、この栄光学園って、東大に何十人も入る進学校なんだ。そう言うと「だから、こういう講義をやっても成り立つんで普通の高校じゃねぇ、ちょっと無理じゃない」などという自己防衛の声が聞こえそう。でもね、この学校、例えば高一ゼミというのがあって、「沖縄」とか、「原子論の歴史と原子論的な歴史の見方・考え方」とか、「映画で学ぶ世界の歴史」みたいなテーマの成績のつかない少人数教育をやっている。そう、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考える」下地ができているんだね。単なる受験校ではないのだろう。
http://ekh.jp/ga/k1z.html
 とは言え、やはり、当然ながらというかレベルのチョー高い学校であることにかわりはない。しかも歴史好きの歴史研究部のメンバーだからね。でも、いやだからこそ見習うべきことは見習った方がいいと思う。


☆☆☆☆ そして、二度と戦争を選択しないためにわれわれはどうしたらいいのか。それを考えるのにも本書は必読だ。

戦争をしたがるやつが増えたなと保守で通した老父が怯ゆ   休呆

そういうやつらに読ませたい。
posted by ウィンズ at 16:39| 福岡 ☁| Comment(0) | 歴史教育 | 更新情報をチェックする