2017年05月10日

原田実『江戸しぐさの正体―教育をむしばむ偽りの伝統』星海社新書 八二〇円+税



 道徳が教科化されるっていうし、『心のノート』はそのための教科書の準備みたいなかたちで『私たちの道徳』というガッツリした本となって手元にあるはずだ。その文部科学省著作の『私たちの道徳 小学校五・六年』を開いてみよう。その58頁に「江戸しぐさに学ぼう」という教材が載っている。
〈江戸しぐさ〉
 聞いたことあるだろうか。当然、聞いたことのある人は知っているし、聞いたことのない人は知らないだろう。だけど着実にあちこちで企業の研修なんかでもてはやされているらしい。
 『私たちの道徳』ではまず、「三百年もの長い間、平和が続いた江戸時代に、江戸しぐさは生まれました。江戸しぐさには、人々がたがいに気持ちよく暮らしていくための知恵がこめられています。」と紹介されている。なんとなくひかれるではないか。そして「かた引き」、「こぶしうかせ」、「かさかしげ」、「おつとめしぐさ」という四つの〈江戸しぐさ〉が枠囲みで紹介されている。どういうことかというと、たとえば「かた引き」というのはせまい道で人とすれちがうときに互いに右の肩を後ろに引いて相手にぶつからないようにすることであり、「こぶしうかせ」というのは複数の人が一緒にすわるとき、一人でも多くすわれるようにみんなが少しずつ腰を上げて場所を作ること、なのだそうだ。
 大都市であった江戸でお互い仲良く暮らしていくためのちょっとした心遣いなのだそうだが、どこかで聞いたことのあるような表現だなと思ったのですな。
 そう言えばわが愛読書の池波正太郎の『鬼平犯科帳』(文春文庫 全二十四巻 時価)に似たようなのが出てくる。「お勤め」、「急ぎ働き」、「嘗め役」、「引き込み」、「盗人宿」といった用語だ。これらを『江戸時代語辞典』(角川学芸出版 二二、〇〇〇円+税)で引いても全く出てこない。主人公の鬼平こと火附盗賊改長谷川平蔵は実在の人物であるが、小説はもちろん池波正太郎の創作であり、ここに出てくるもっともらしい用語はすべて池波正太郎が小説にリアリティを持たせて作った造語であるからだ。
 ほら、なんとなくひびきが似ているだろう。「江戸しぐさ」もまた学術的著作のどこにも出てこない。ふつうこの段階で怪しいと気づいてもよさそうなものだが、この表現のもっともらしさが落とし穴なのだ。そういえば、この池波鬼平用語を実際に江戸時代に使われていた言葉だと信じ込んでいたのが友人にいる。笑ってしまうが、そこに池波正太郎の凄さを見てしまう。
 〈江戸しぐさ〉も似たような江戸っぽい表現なのだが、鬼平が小説として書かれ、時代劇として上映されていたのとは異なり、こちらは事実として語り、広められていることだ。それで、研修などという名目で一儲けしているのだろう。もとい江戸商人の行動哲学だという触れ込みだから、企業なんかじゃニーズがあるんだろう。
 ところで、だ。私たちはいろんなガセネタにだまされたことがある。霊感商法、血液型と性格、体型と民族の優秀性、野菜スープで癌が治るなど、どこかで聞いたことがあるだろう。まことしやかに人の心の隙間に入ってくるこうした嘘も罪のないものならば問題はない。有名な血液型と性格についても、それで楽しんでいるうちはいいが、ブラッドタイプハラスメントのようなものになってしまえば、問題だろう。例えば、「AB型の性格は嫌いなのでつきあわない」などというふうに使われれば、血液型と性格というガセネタは放っておけるものではなくなる。つまり、笑ってすませられる話と笑えない話とがあると言うことだ。
 で、この〈江戸しぐさ〉だが、江戸時代の史料や文献など、どこを探してもそういう言葉は出てこない。不思議だろう。で、著者の原田氏はそこを徹底的に調べ上げてこれが〈偽史〉だと断定する。〈偽史〉であるということは何らかの作為があって歴史が捏造されたということだ。それは池波正太郎が長谷川平蔵という実在の人物をおもしろおかしく脚色して小説にしたのとはわけがちがう。『鬼平犯科帳』を読んで、「これは嘘だ!」と怒る人はいない。池波正太郎も「これは史実だ」とは書いていないし、あくまでエンターテイメントとして書いた小説だ。しかし、〈江戸しぐさ〉は・・・・
 〈江戸しぐさ〉は芝三光という人物によってつくられた偽史であると本書は解明している。偽史であるということは霊感商法のように特定の価値観に人を騙して導く、それは知的犯罪だと言っていい。その特定の価値観とは、本書によれば芝氏の育った昭和戦前期の生活感に基づいたもののようだ。ということは教科化を迎えようとしている道徳はそのような価値観を子どもたちに刷り込もうと考えているように思われる。
 実際、〈江戸しぐさ〉は『私たちの道徳』だけではなく、何種類もの道徳の副読本に載り、なんと検定済みの『中学社会 新しいみんなの公民』(育鵬社)という教科書にまで載っているのだ。しかもこの教科書は採択をめぐって大騒ぎになったことで記憶に新しい。そして、子どもたちの道徳をむしばんでいくことになる。この背景には「自民党=安倍晋三ラインの支援を受ける形で教育現場に広まっている」という動きがあることも本書は指摘しているのは興味深い。
 偽史に対して正史という歴史がある。これは正しい歴史という意味ではない。正史とは「国家が編纂した正式の歴史書」(『広辞苑』)である。つまりは国家を正当化する歴史であって、戦前の正史というのはもちろん皇国史観に基づいた歴史観である。それがどういうものであったかおわかりであろう。そのためには〈江戸しぐさ〉が偽史であることを見破るわざを本書から学ぼうではないか。


☆☆☆☆ まあ、文科省や育鵬社が勇み足をしちゃったけれど、検定はそれを認めてしまったことは恐ろしいことだ。監視の目をゆるめないことだな。
 
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伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう-世界の「対立」を仕切る』朝日出版社一七〇〇円+税


 これを書いている今、集団的自衛権が憲法違反だけど、そんなこと関係ねぇ、などと豪語する政権にいる方々が話題になっているけれど、この『ウィンズ』が読者諸氏の目に触れる頃はどうなっているのだろう。もし戦争が始まっていたら(笑)、まさにタイムリーなんだけどね。よく言われるのは戦後生まれが首相になるようになったことは大きな変化だってこと。つまりは戦争の体感が戦後生まれの人間にはないということで、まだ、いくぶんか「戦後」の空気を嗅いだことのある人も老人になりつつあっておおかたの日本国民は戦争を体感したことのない人々ばかりになってしまった。だから、「戦争しようよ」と言われても,ピンと来ないのはしかたがない。そんないささか、きなくさい昨今であるが、本当の戦争が近づいている気がする時には本当の戦争について知る必要があると思うのだ。
 しかし、「防衛省は27日の衆院平和安全法制特別委員会で、特別措置法に基づきインド洋やイラクに派遣された自衛官のうち54人が自殺していたことを明らかにした。内訳はインド洋で海自25人、イラクでは陸自21人、空自8人の計29人。」*1と、本当の戦争を見てしまった人の心は相当のダメージを受けてしまうことは確かなようだ。そうした方々の話を聞きたいとは思うけれど、自衛官が本当の戦争の話をぺらぺら語るのは職務上無理があるだろうし、僕もそれほど野暮じゃない。ということで又別の立場で本当の戦争を見てきた人の話を聞いてみようではないか。
 本書の著者伊勢佐木賢治氏は東京外国語大学教授と肩書きがついているが、元は建築家を志していた人だ。それがインドでスラム住民の居住権獲得運動にかかわってしまったところから国際的な仕事に携わるようになり、国連PKOの仕事として東ティモール暫定政府の知事とか、シエラレオネやアフガニスタンで武装解除の指揮を執るというような場面で本当の戦争と向き合ってきた人なのだ。
 その伊勢崎氏が二〇一二年一月に五日間にわたって福島県立福島高等学校の二年生に語った「授業」がもとになっている。五日間の授業が1章から5章までの章立てになっているらしい。
 1章は「もしもビンラディンが新宿歌舞伎町で殺害されたとしたら」という刺激的なタイトルがついている。ご存じのようにビンラディンはパキスタンで米軍に殺害された。パキスタンはアメリカの戦場ではない。独立した一個の国家だ。だからパキスタンを歌舞伎町と置き換えても天神と置き換えても同じことなんだということをまずは知るべきだね。その上でアメリカに論理は「テロリスト」の人権は考慮しないということなんだと。そしてすごいのはこれを言い換えると〈人間を,その人権を考えずに殺すには「テロリスト」と呼べばいいのです。(92頁)〉ということなんだって。こういう乱暴な論理が本当の戦争なんだな。
 2章は「戦争はすべてセキュリタリゼーションで起きる」という題だ。セキュリタリゼーションというのは「このままじゃたいへんなことになるぞ」という危機感を煽ります。その危機によって失われるかもしれない、だから護らなければならないと思われる者を「推定犠牲」と言い、それを宣伝する仕掛け人がいて、それに煽られた、つまりセキュリタイズされた聴衆が戦争をやっちゃうという理論だ。それに対して「まあまあ、」と冷静になって戦争をしなくても解決できる道を探るのが脱セキュリタリゼーションで、そのことによって戦争は回避できるし、そういう力をつけないかんのだという。まさに平和教育というのはかくあるべきだね。
 3章は「もしも自衛隊が海外で民間人を殺してしまったら」と,これまた危なっかしいタイトルだ。月村了衛『土漠の花』(幻冬舎 一六〇〇円+税)という小説を読んだだろうか。ソマリアあたりに加勢に行っている陸上自衛隊がちょっとした手違いで現地で戦闘に巻き込まれてしまうというストーリーの小説だ。まさに今の問題を描いていて面白いし、現在はそういうリアリティが満ちあふれている。まだ読んでない方にはお薦めだね。エンターテイメントとして面白いぜ。
 話はそれたが、それは絵空事ではなくて現実の問題になりつつある。そのことが・・・あれれ、内容を書いちゃったら、読んではくれないからこの辺で留め置くとして、本当の戦争はどっちが正義ということではない。戦争はしない方がいいに決まっているのだ。そして戦争に対するブレーキは「人権」という原則論なんだと伊勢崎氏は言う。そう、そしてこの「原則論」を言う勢力が弱すぎると伊勢崎氏は警鐘を鳴らしているのだ。
 机上の戦争の銀ではなく、そろそろ本当の戦争の話をする時代になってきた。そして戦争を回避する知恵を僕たちは持たなくちゃいけないんだ。

 

☆☆☆☆ もうすぐ戦争の準備が整いそうだ。本当の戦争についてきちんと知ること、そしてどうやって本当の戦争を避けることができるか。それがこれからの平和教育でなければならない。だけど実は政治家に読んでもらいたいね。
 そうそう、伊勢崎さんはかつて東ティモールの知事時代に小泉首相(当時)と離したことがあるそうだ。後方支援で自衛隊を送ろうか、という小泉さんに,彼は言ったそうだ。自衛隊の軍事的ニーズはない。でも来たら自衛隊に犠牲者は必ず出るので、遺体を大切につれて帰れるような配慮をしてくれって。これって第二次世界大戦でも反省しなくてはいけない問題だったよね。何しろ遺骨を置いて来ちゃったんだから。 
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中川聰監修・日経デザイン編『ユニバーサルデザインの教科書 増補改訂版』日経BP社 三〇〇〇円+税



 バリアフリーという言葉は知っているだろう。障害の壁(バリア)をなくしていこうという考え方だ。ちょっと前だが、うちの爺さんが脳梗塞で左半身が麻痺してしまった。それまで元気にバリバリ働いていた人だったのでよほどショックだったのだろう。
「もう俺もおしまいだ。一人前には働けねぇ」とぼやいていた。それまでは障害のある人などにはけっこう無神経な発言なんかもしていた爺さんだったが、自分が障害者になってしまったもので、落ち込んでしまったんだな。
 ところが、それから数ヶ月して訪ねてみたらすっかり元気を回復していた。
「おう、これからはな、バリアフリーだぜ」
 どうやら家の大改修をしたというのだ。なるほど玄関先には手すりが設置されていた。タクシーを降りたところからそれにすがれば家にたどり着けるというわけだ。玄関前の階段もなくなってスロープになっていた。家に入るとその手すりは至る所に設置されている。部屋と部屋の境目にあった小さなでこぼこもなくなって家中の床が真っ平らになっていた。
「茶でも淹れよう」
「あ、僕がやるよ」
「けっ、茶くらい淹れられるよ」
 爺さんは卓上のポットから急須に湯を注いだ。
「こいつは便利だぜ」
 その急須は初めて見るもので把(は)(取っ手の部分)がやたらと大きい。
「こいつは持ちやすくてね、わしは右利きだから脳梗塞の後遺症で左がダメになってもなんとかできるんだが、それでも片方が動かないというのはバランスが悪いもんだ。その点こいつは安心して持てるというものよ」
 思わず関心して爺さんの手先を見ていた。注がれる先の湯飲みもドデンと重心が低いカップだった。そしてやはりハンドル(持つところ)が大きく指が四本は入りそうな形状である。
「隣の婆さんはなその右手を捻挫してだな、えらい難儀しておった。で、な。こいつを教えてやったら、それはそれは大喜びでよ、ほら、これがその礼にもろうた糠漬けじゃ。茶請けによかろう。」
「年寄りに便利な時代になったんかいね」
と適当に相づちを打ったら、ムッとした声が返ってきた。
「なんや、知らんのか。ユニバーサルデザインというてな、年寄りや障害者だけのものじゃないとよ。誰でも公平に使えるという原則がある」
「へぇぇ」
「世の中にはいろんな人がいるからな。たとえばおまえさんは外国に行ったことがあるだろう?」
「ああ、もちろん」
「外国でトイレを探すときはどうしてるね?」
「・・・・」
「字のわからない国の場合なんかどうね、タイとか、ラオスとか」
「ああ、あれは困るな。台湾で往生した」
「台湾は問題なかろう、漢字圏だし」
「いや、その漢字が読めなかったのさ、何やら難しい漢字でね」
「おお、舊字軆というやつだな。それで臺灣とでも書いてあったんだろう」
「そうだよ」
「あああ、情けねぇ。そんな程度の字も読めないのかいい年をしてよ、まあいい、そういうときにはどうすんだ?」
「こういうマークを探すよ」





「それさ、字が読めなくてもそれでわかる。そのマークがあれば非識字者ばかりでなく外国人や子どもにもわかりやすい。わしは足にマヒが来たもんだから階段がダメになってな、最近はエレベーターばっかり使うとる。だけど、疲れたときはおまえさんも使うだろう」
「ああ、そうだね」
「それにだ。階を示すボタンね。近頃は低いところにもボタンがついているだろう?」
「車椅子用のだね」
「いやちがう。荷物を両手に持っているときなんか手が挙がらないからあのボタンを使うんじゃないのか」
「そういえばそうだ」
「つまり、誰でも便利ということなのだよ。それがユニバーサルデザインというものなのだ」
「へぇぇ、そうなんだ」
「これからの世の中はよ、何でもユニバーサルデザインで作られることになるだろうよ。パソコンだってキーボードが苦手な人でもタッチパネルでいけるだろう。〈障害のある人が使えるために〉ではなく〈誰でも平等に使えるために〉という発想の転換をしなくちゃいかんのだな」
「そういえば僕の学校も障害を持った子をどうするかとか、外国人の子どもにどう対応するかという議論をしてたけど,発想の転換をする必要があるね」
「そうよ、それにはきちんとしたやり方がある。こいつをやるから基礎から勉強するんだな」
 爺さんは真四角でちょいと重たい本を本棚から出すと僕にほうった。
『ユニバーサルデザインの教科書 増補改訂版』というタイトルの本だった。ぱらぱらとめくると資料編、基礎編、実践編、応用編からなっていて、端に色がついているからすぐにそこを開ける。まずは冒頭の資料編を見る。一覧表が載っていた。PPP(Product Performance Program)とある。どうやらユニバーサルデザインのガイドラインらしい。これを見ると爺さん言いたかったことがよくわかる。
「ちょいと勉強させてもらうわ、ありがとう」
 そう言って僕はそそくさと席を立つことにした。学校をUD化しようという野望を抱えて。


☆☆☆☆ 何しろ教科書と銘打ってあるだけにユニバーサルデザインの技法が丁寧に描かれている。これからはUDだ。
 
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眞嶋亜有『「肌色」の憂鬱 近代日本の人種体験』中央公論新社 二三〇〇円+税



 ヘイトスピーチが特定の民族に対する憎悪に基づくものならば、その根底にはレイシズムというものが存在している。そして、そのレイシズムはもとより白人社会においては有色人種とされるわれわれに向かっているものなのであった。しかし、現在ではアンチ・レイシズムを標榜する団体に言わせれば肌の色や民族、家系など「あらゆる出生による属性を対象とした差別」(People's Front of Anti Racismのホームページ)を指すものらしい。その意味ではいわゆる人種差別のみならず、在日コリアンに対するヘイト・スピーチも、部落差別もレイシズムという括りに入るものだと考えていいようだ。
 しかし、われわれ日本人の心性にとって微妙なのは西洋人に対する身体的コンプレックスという問題だ。日本が明治維新を経てアジアの大国たらんとした時に出会ったのは肌の色であったのではないか。
 内村鑑三という人を知っているだろう。『余は如何にして基督信徒となりし乎』、『代表的日本人』(いずれも岩波文庫にあり)などの著作がある近代日本の思想家である。本書ではまず内村が引き合いに出される。読者諸氏も手元のパソコンで「内村鑑三」を検索してみるといい。そこでヒットする彼の肖像はみな日本人離れした風貌であることを確認するにちがいない。
 それは内村にとってはかなり自覚的な行為だったというのだ。日本の近代はそのような意識によって始まったのかもしれない。肌の色、背の高さといったいわば人種的な特徴を織り込んだ複雑な心性が歴史の中で醸成され、日本人の世界認識を形成していったとも考えられる。
 例えば夏目漱石。彼は内村のように背は高くなかった。彼はロンドンに留学した体験を持つが、彼にとってその留学生活は相当に不愉快で惨めな体験をした日々であったと言われる。それは世界の一等国に成り上がったはずの日本の不安そのものであったという。さらには日本が日独伊の三国同盟を結んだことも、人種という大きな矛盾を抱え込んでいたのである。なにしろナチという史上最悪のレイシストと彼らが侮蔑してやまない「黄色人種」の日本人が同盟を結んだのであるから。尤も、現代でもナチにあこがれ、ヒトラーに共感する日本人がいるらしいが、その人たちは自分が白人社会で差別される存在であることを知っているのだろうか。
 一方で、欧米社会では如何に同じ黄色人種である中国人とちがうかを強調しなければならず、そのような屈折した経験を日本のから留学したエリートたちは西洋と接触するたびに体験していたのである。
 そして最終的にその差を見せつけたのが戦後直後の天皇とマッカーサーとの会見写真であろう。この有名な写真は日本国民に敗戦という現実を物理的に示してくれたものであったと言ってもよいだろう。
 本書はハーバード大学ライシャワー日本研究所に籍を置く若い研究者によって書かれた著作である。アジアでいち早く近代化を推し進め、西洋の強国、大国と肩を並べようして無理をした日本人の、そしてその返す刀でアジアの人々を差別してきた日本人の倒錯したレイシズムの構造が垣間見えてくるのである。
 われわれは単に「差別はいけない」という以前に差別の背後にある「肌の色」とその歴史を読み解く必要があるだろう。まさしく近代日本人にとって、西洋化を目指すには「肌色」は憂鬱以外のなにものでもなかっただろう。それは今でも続いているのではないだろうか。その裏返しの心性が日本におけるレイシズムとして朝鮮学校の襲撃やら、ヘイトスピーチやらに反映しているとすれば、この本は絶対に読んでおかなければならないだろう。民族差別、人種差別(肌の色差別)の愚かさを一口に言うのは簡単だが、それはかなり屈折した歴史に依って作られてきたのだということが、何ともおもしろい。われわれがレイシストであることじたいが滑稽なのだと理解したいものだ。

☆☆☆☆ ラドヤード・キプリング、エルヴィン・ベルツ、ジョルジュ・ヴィゴー、ラフカディオ・ハーンといった近代史における親日家をご存知だろうか。彼らは日本人並みの身長であったらしく、それが彼らにとってそれなりに意味があったということも書いてあった。いやはや人間はフクザツなものだ。
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中村一成『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件 〈ヘイトクライム〉に抗して』岩波書店 一八〇〇円+税


 過去にどんな理由があれ、現在どういう理由があれ、人間がその場所に住んでいるということは誰からも非難されるべきことではない。われわれもまたこの国を離れ、異国で暮らすことがあるかもしれないし、われわれの子孫がそうなる可能性も多々あるだろう。実際、日系人と呼ばれる日本人の血を引く人たちは世界の各地に住み着き、そこでコミュニティを作って暮らしている場合もあるし、異国の社会の中に溶け込んで暮らしている人もある。そうした同胞がどのようにその社会で受け入れられているかどうかは気になるところである。外国に行ったことのある人ならば自分がそこではマイノリティ、つまりは少数派であることを実感したことがあるにちがいない。もし、日本人である、ないしは日本人の血を引いているからといって罵詈雑言を浴びせられたとしたらどのような思いをするであろうか。それはちょっとした想像力の問題である。
 日本において在日コリアンの存在は大きい。歴史的経緯はさておき、彼らはすでに日本社会の一部を構成していることはまちがいない。そしてこの国で在日コリアンに生まれるということも、もはや本人の意思を超えて一つの運命に過ぎないことなのである。私たちが何処でどういう条件のもとで生まれ、育つかは本人の責任ではまったくないのである。そうであるにもかかわらず在日であるからといって譏りを受けるのは理不尽以外のなにものでもないであろう。同時にそのことだけで在日の人たちを誹謗する人たちもなんとも哀れな人たちではないだろうか。
 それはさておき、突然子どもたちが通っている学校に居丈高な連中が街宣車で押し寄せ、理不尽な誹謗中傷、罵詈雑言の類いを投げつけ、暴力的な振る舞いを見せつけ、徒党を組んで威圧的な示威行為をしたとすれば、私たちはどうすればいいのだろうか。マジョリティ(多数派)の側にいれば、自分の問題ではないから同情以上のものを引き出すことはできないかもしれない。しかし、少し想像力を働かせれば、自分が異国で少数派として罵られることがどんなに楽しくないことかはわかるだろう。それがわからないのならば、本書を読むといい。
 二〇〇九年十二月四日午後、突如「在日特権を許さない市民の会(在特会)」と「主権回復を目指す会(主権会)」という人たちが京都朝鮮第一初級学校を襲撃した。本書はこの京都朝鮮学校襲撃事件を徹底的に取材したルポルタージュだ。
 この国のマイノリティとして、この国のマジョリティとたたかうことの難しさが描かれていく。マイノリティであるということは警察や行政が決して味方にはなってくれないことを意味する。彼らは中立公正という立場に逃げ込み、弱者を守るというスタンスには決して立たない。
 裁判の結果にかかわらず着実にヘイトクライムを遂行した連中の要求は具体的にかなっていくのである。ヘイトスピーチは表現の自由の名のもとに黙認され、それまで使用していた公園からは排除されるようになり、関係者は疲れ果て、ついに学校は閉鎖・移転という結末を迎えたのである。マイノリティにとっては法律も権利も言動も何一つとっても平等ではないことがわかってくるのである。
 その意味で、是非ともマイノリティの立場で問題を受け止めることの意味を本書から酌み取って欲しい。

☆☆☆☆ この国が人間らしい生活をすることができる国ならば、きっと子どもたちはこの国を好きになるだろう。しかし、人間が人間を侮蔑し、罵り、人間の尊厳はおろか存在すら否定するような暴言を公然と叩きつけるということが行われ、そのような行為が黙認されるとすれば、それはあまりに悲しいことであるし、そのようなことがまかり通る国を好きになることなどできないだろう。その意味ではこの事件を引き起こした人たちはこの国の恥だと言ってもいい。しかし、彼らはこの国の法律に守られて彼らは今日もヘイトスピーチを吐き続けているのである。

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