2011年10月21日

三山喬『ホームレス歌人のいた冬』東海大学出版会 一八〇〇円+税

 二〇〇八年の暮れの月曜日のことだった。朝日新聞の短歌投稿欄である朝日歌壇を愛読している僕はいつもの「えっ?」という声をあげた。朝日歌壇を見るときいつも敬愛している永田和宏氏の選から見ている。そこに選ばれた一首に僕の目は釘付けになった。

(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ

 この歌に詠まれた光景の異様さに僕は息を呑んだ。炊き出しのカレーならものに並ぶという世界はどこにあるというのだ。そして投稿者の名を見て再び驚いた。そこには「(ホームレス)公田耕一」とあったからだ。ふつう( )の中には居住する都道府県名が書かれている。なのにそこには「ホームレス」という朝日歌壇には見慣れない文字か書き込まれていたからだ。これはホームレスを自称する人物が炊き出しに並んだ体験を読んだものであろう。
 ホームレスが短歌を投稿してなにが悪い、と言えばそれまでだが、僕の頭の中にはなにがしかのホームレスに対する偏見があったのかもしれない。それが一気に崩れ落ちた。(柔らかい時計)は明らかにあのダリの名作を引っ張ってきている。シュールレアリスムの思想の一端を少なくともホームレス公田耕一氏は血肉化している。それだけで公田氏の教養の深さに驚きを禁じ得なかった。思わず、家人に声をかけたが、まだ寝室で眠りをむさぼっている彼女にその声は届かなかった。歌壇欄を見わたすと、他の選者もこの公田氏の作品を選んでいる。なのでこの作品の上には☆が付いているのだ。
 そしてこの冬、毎回のように朝日歌壇には(ホームレス)公田耕一の作品が採られていた。いささか短歌や俳句を嗜む僕は月曜の朝の新聞を開くのが楽しみになった。そしてその期待に違わず公田耕一氏は投稿を続け、知る人の中ではその存在はけっこう話題になっていた。選者の永田和宏氏もかなり注目していたし、朝日新聞でも公田耕一が何者かを探し始めていた。決して名乗りを上げるわけではなく、どこに住んでいるのかもわからない謎の歌人であった。しかし、いつだったけか、「しばらく見ていないな」と思っていたが、そのまま作品が掲載されなくなり、消えてしまったのである。そして僕もその存在を気にしなくなっていた。つまり、公田耕一は世間から忘れられつつあったのである。
「あの冬、そんな投稿があったよね」という記憶だけを残して。
 そうしたら、この謎の歌人を追いかけていた人がいた。そして公田耕一を捜し求めてあちこちを動き回ったのである。そうしてその調査結果をまとめたのが本書である。
 だから、謎のホームレス歌人公田耕一を見つけ出すサスペンスとしてもこの本はおもしろいし、取材の過程でいろいろな人と出会っていくところはホームレスにまつわる人間ドラマを見ているようでいくつもの驚きがある。三山は短歌を作る教養人を手がかりにしていく。そうした人物はけっこういるもので、ちょっとした人生のずれが運命を分かつものである。中にはいまをときめく(この原稿を書いている現在もだし、これが読者諸姉諸兄の眼に触れる頃にもたぶんときめいているだろう)菅直人(その頃、首相であるかどうかはわからないけど)氏のかつての親友であり、同じ夢を描いた同志という人物もホームレスとして著者三山と出会っている。
 読んでいくと、この国の社会矛盾というのがどんどん露わになってくるのである。そしてそうした社会の裏面で人間の尊厳のために闘っている人々も描かれていく。例えば横浜寿町で識字教室を続けていた大沢敏郎。公田耕一のデビューは大沢の死の直後らしい。
 また本書の中には、似たような人物のことが出てくる。同じ朝日歌壇の常連で、アメリカで終身刑として刑務所から短歌を投稿してくる郷隼人。彼の作品は『LONESOME隼人』(幻冬舎 一五〇〇円+税)としてまとめられている(調べてみたらこの歌集についてはすでにこのコーナーで書評されていた)。また、ホームレス俳人大石太。大石の句集『ホームレス天叫』(創造書房 一二三九円+税)の表紙には

溺れるをなお突き落す天の川

 とある。パラパラとめくるとホームレス生活の中から詠まれた俳句が並んでいる。冒頭の三句。

配られし自決の毒に目が醒める
まぐろ怖じ金目のものは地に埋め
茜空飯場の嗚咽とひびきあう

 大石氏はこのような句集を何冊も出しているホームレス俳人だ。もう一冊手に取る。同じ大石太『ホームレス羽抜鳥』(創造書房 一二三九円+税)だ。こちらは写真がたくさん挿入されている。ベンチで横たわる男の写真の下に

元専務公園デビューの晴姿

 そうなのだ。元専務であろうが、元教師だろうが、ホームレスになる機会はいくらでもある。われわれだって例外ではない。俳人大石太は鹿児島県生まれの男性だということがわかっている。
 しかし、ホームレス歌人公田耕一の正体はわからない。そして三山は横浜のドヤ街をさまよいながら、さまざまな人と出会い、公田耕一を追い詰めていくのだ。
 


☆☆☆☆ いろんな読み方ができる本だ。そして問い詰めている問題は大きく、深い。で、公田耕一とは誰か?ネタバレになるので是非ともお買い求めの程を…。
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2011年09月22日

狸小路きみこ『オサクばあちゃんのひとりごと』法邑興業株式会社 九五二円+税

 今ここにあったものがない。昨晩何を食べたか、…んー、思い出せない。えーと、この人の名前はなんていったっけ。いつ頃からだったろうか、そういう自覚症状が出てきた。赤瀬川原平が『老人力』(ちくま文庫 七一四円)なんて言い方をして慰めてくれたのはいいとして、やはり歳を取りつつある人間にとってはこうした症 状が進んでいった先が不安でならない。二十年後、いや十年後に今の自分を保っていられるかというと自身はない。しかし、いわゆる認知症の状態になってしまった人の気持ちは何処まで理解できているのだろうか、と思うと、これまた心許ない。
 一方で、高齢者に対する話しかけ方も気になる。若い人がまるで子ども相手のように「おじいちゃん、何が食べたいの?」なんてお年寄りに向かって言ってるのをしばしば見ることがあるが、自分がそう言われるようになったときのことを想像するだけで恐ろしくもなる。
 既にわれわれは高齢社会に生きている。高齢者の存在は人権問題の中でも重要な位置を占めるようになってきた。なってきたが、高齢者のことについてどれだけの理解がなされているのだろうか。理解がされていないから未だに子ども扱いのような対応がなされているのだろうと思う。
 本書は二人の認知症の高齢者(夫の祖母と母)を介護した女性による手作りの絵本である。主人公は八十八歳になる認知症のオサクばあちゃん。狸の姿をしているキャラクターがかわいい。そのオサクばあちゃんがついついやってしまういろいろな行動や失敗なんかが本人のひとりごととして描かれている。まあ、認知症の人がし てしまうことが次々出てくるのだが、高齢者本人の側からのメッセージとして読む者に伝わってくる。その言葉は著者が二人のばあちゃんとつきあってきた中で学んできた体験から導き出されたものなのだろう。だから認知症になった(なりつつある)高齢者の心の動きや不安といった気持がよく描かれている。そして、認知症であ っても人間であることの尊厳は失っていないことを教えてくれる。
 高齢社会の中で高齢者になりつつあるあなた。そして高齢者とつきあうことになる高齢ではない人たちに是非とも読んで貰いたい一冊だ。もちろん絵本だから子どもたちにもいい教材となるだろう。


★★★★ 最後にね「順番じゃ!」って言葉で締め括られている。そう順番なんだよ。
 そうそう発行が法邑興業ってあるけど、ま、自費出版みたいなものなのだ。どうしたら手に入るかっていうと、著者が経営している茶廊法邑(さろうほうむら)(011・785・3607)http://houmura.com/に直接問い合わせるか、いわた書店(http://homepage3.nifty.com/iwata/ email:PXY07224@nifty.com)に聞いて みるといい。きっと何とかしてくれる。

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水野宗徳『さよなら、アルマ』サンクチュアリ出版 一二〇〇円+税

 平和教育がマンネリ化しているって誰かが言ってたけど、そうかもしれない。だってあの戦争が終わって六十五年。戦争を記憶している人ってみんな七十歳過ぎじゃないの。日露戦争が終わって六十五年後って一九七〇年よ。大学紛争も終わっていたわ。まあ、このことにドキッとする人じたい、もうだいぶお歳よね。
 だから、今の子どもたちにとって戦争ってほんとうに大昔のことなのよ。だけど、あの戦争はこの国にとってほんとうにたいへんなことだったんだし、その痛みはいろんな形で残していかなくてはならないのね。
 だからマンネリでもいいから、あの戦争のことは、いやあの戦争で悲しい思いをしたことは伝えていかなくてはならないと思うの。戦争の悲しみっていうのは愛するものとの別れだ。愛するもののために戦う、なんて言うのは嘘よ。戦争って戦うことで愛する者と別れざるを得ないことなのね。そのことを戦争好きの人たちはわかっていない。ていうか、想像力がないのかも。子どもたちの平和力(!)を育むのにたいせつなことはその想像力じゃないかしら。愛する者と幸福に暮らしたい。そのためには武器を持ってよその国にまで行って戦う必要性なんてまったくないのよ。その想像力は育てたいわよね。と言っても、教えるセンセイ自体戦争体験なんてないし、想像力だって枯渇しているんじゃないかな。
 この本はそれでもやっぱりあの戦争の時の話なのね。戦争をやってしまった事情やら、他の国や、他の民族に対してどんなにひどいことをしたかみたいなことはどんどん忘れていくことのようなのね。そして歪んだ愛国心やねじれた民族主義みたいなのがじわじわ復活している危機感はあるわ。でも、愛する者との別れは想像できる。愛する者と別れなければいけないことと敵を作って争うこととを比べれば、戦争がまずいことだというぐらいは伝わるんじゃないかな。
 この本は軍用犬の話なのね。そう戦争に行って戦った犬の話。この本の著者は戦争なんてまったく知らない世代の人なんだけど、図書館の雑誌で見つけた一枚の写真に突き動かされてこの本を書いたというの。その写真というのは「祝出征アルマ号」という幟の傍に行儀よく座っている犬の写真。賢そうなシェパードね。この犬がどこの誰の飼い犬だったかはとうとうわからずじまいだったんだけど、この一枚の写真から著者の水野さんはすてきな、そして哀しい物語を紡ぎ出したの。一匹の犬と子どもたちの、そして戦争に巻き込まれた人間たちとの愛の物語よ。
 あの頃は徴兵制度があったから、若い男の人は次々と兵隊にとられていった。それは無数の別れだったんだけど、戦争に行くことになった人たちはそれぞれ自分の意思を持たされて戦地に赴いた。でも、犬にはそんなふうに国家のことを考えたり、民族のことを考えて、別れを正当化することなんてしやしない。子どもたちだってそうだ。犬と子どもたちは純粋に愛でつながっている。子どもたちは戦争というつらい時代の中でアルマをかわいがっていたのね。だけど戦況は悪化してアルマにまで赤紙(召集令状)が来ちゃったのね。そしてアルマにその餌のために軍用犬の訓練をさせちゃった責任を感じた若者がアルマを追って満洲に行く。そしていろんな出会いと別れがあって…
 この物語の中で描かれているのは犬と人間との関係なのね。いや、ちがう。生き物と生き物の関係かな。軍人は命令で人を動かす。犬にもそうやって命令しようとする。でもね、犬は愛する者のために働くのよ。愛する人が喜ぶなら危険を顧みず任務を果たすのよ。そんな人間とアルマの関係を見ていたら、いつも命令文で話している自分が急に恥ずかしくなっちゃった。教師も軍人に似てるね。


☆☆☆☆ 犬と人間の命はどっちが重たいのか。こういう物語を読んでいるとわかんなくなるのよね。でも、犬のために人間が死ぬこともあるんだ。つまりさ、いのちっていうのは平等なのよ。あっ、誰のいのちもたいせつっていうのはこういうことなんだって気づかされた。まあ、読めばわかるって。
 それはさておき、この軍用犬と子どもたちの物語、小学生でも読める文体だから、クラスの子どもたちに買ってあげてね。もちろんセンセイのお小遣いで、よ。
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2009年10月01日

『茶色の朝』フランク パヴロフ・物語/ヴィンセント ギャロ・絵/高橋哲哉・メッセージ/藤本一勇・訳

 ファシズムって何かってことは難解な政治学の議論をしなくたっていい。誰だって体感でわかることだ。そして誰もが気づかずに染まっていくことだ。本書は心理学者で人権運動家の著者による短い政治的寓話である。茶色でないというだけで猫や犬が処分されていく、そんなお話でファシズムの怖さがみごとに描かれているのだ。ふんだんに入れられたギャロの挿し絵もいい。高橋哲哉のメッセージがよけいで鬱陶しいけど、それはこの手の出版社の企画のせいかも。



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刀根美奈子『エスフォルソ』青磁社 二五〇〇円+税

 だいたいこの書評欄は悪口増減ばかりで品位に欠ける、と思っているのは私だけだろうか。時には歌集なんぞを繙(ひもと)いてみようではないか。タイトルの「エスフォルソ」というのはポルトガル語で「いっしょうけんめい」という意味なのだそうだ。何に「いっしょうけんめい」なのかというとこの作者は三重県で公立小学校の国際化対応講師という仕事をしているのである。どんな仕事をしているのかといえば「外国籍児童への日本語指導、家庭への電話連絡、通信文書の翻訳、家庭訪問やその他の場面での通訳」さらに「保護者からの私的な相談や依頼」という非公式の仕事までをこなしているらしい(「TO BE CONTENUED(あとがきにかえて)より」。
 今や日本社会は国際化が進展している。きれいごとの国際交流ではなく現実にさまざまな事情で外国からやってくる人がいて、その子どもたちは日本の学校に通い、異文化の壁にぶちあたってもがき苦しむ。それがこの日本における国際化の実態なのである。それは福岡でもすごく深刻な問題になっていることは知っている人は知っているだろうし、体験している人もこの中にはいるんじゃないかな。
 作者の刀根美奈子さんはそういう現場で働いているおり、その中で詠んだ短歌をまとめたのがこの歌集なのだ。
 いくつか紹介しよう。

 「先生はなにじん?」日本語・ブラジル語・中国語でも聞かれてるわたし

 さまざまの文化の中で育った子どもたちが日本では一緒くたにされて外国人になってしまう。このことって大変なことなんだよね。そして異文化の中で生きるということは親と子の間にも異文化が生じるということ。悲しい現実だよね。

 異文化の中で子供離れていく親からどんどん離れていくよ

 「日本語が変だと笑われるから」教室では一言も言いたくないの

 どうして日本の文化って排外的なんだろうね。とはいえ、生活苦は外国人の子弟にものしかかってくる。かつての「同和」教育で出会った課題と同質のものがあるだろう。

 早口のポルトガル語でわれに言う「給食費すこし待ってほしいの」

 最近教育基本法の改正云々が言われるけれど日本の教育って「国民の育成」(第一条)のためにあるんだよね。だから義務教育やら教育を受ける権利やらっていうのは日本国民だけのものであって、外国人の子どもにはそんな権利もないんだって知ってた?

 教育が義務じゃないから休んでも心配されないことさえあった

 こういう日本の教育だから愛国心通知表とかが平気で出回るんだろうよ。作者の刀根さんは外国籍の子どもたちとぶつかりながら教育の中で疎外された子どもたちの孤独に身を寄せていく。

 いつまでも信頼されない少女いて信じるわれを裏切り爪噛む
 自信なくわが目の隅を盗み見る少年たちを叱る秋の日

 そうそう、私たちはこういう屈折した子どもたちの気持ちをどれだけつかんでるのだろうかね。子どものことは信用しないで、結局あれこれ口と手を出して子どもを潰してしまってはいないだろうか。

 忙しい言い訳をして何一つさせないできない子どもが増える

 ねっ。ずしっとくるでしょ。でも教育ってなにがしかの夢がある。それを忘れちゃやってられないよね。

 せつなさのむこうに春が待っている君が希望の種蒔く春が

★★★★ 日々難題とぶちあたり、心と身体をすり減らしている(身体は肥えているか)教師諸君!心の叫びを文学にしてみないか。私の好きな歌にこういうのがある。

 学校といふ旧き檻あり囚はれの子らは十二年の刑期に耐へて  休呆



posted by ウィンズ at 15:29| 福岡 ☁| Comment(0) | 文学・文芸・コミック | 更新情報をチェックする