2017年09月06日

高橋史朗監修 明生社編『物語で伝える教育勅語―親子で学ぶ12の大切なこと』明生社 1,200円+税



 森友学園問題で一躍浮上した教育勅語。いまだに
「教育勅語にはいいことが書いてある」
と言う人がけっこういる。一方で、教育勅語の教育現場での使用については「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」という閣議決定をしたそうな。これに対して「日本教育学会(会長=広田照幸・日本大教授)など17学会の会長や代表理事が16日、声明を発表した。政府に対し、「問題点を批判的に考えるための歴史的資料として用いる場合を除き、使用禁止を改めて確認する」ことを求めた。」(朝日新聞 二〇一七・六・一七)というような反発する動きを示している。
 「教育勅語にはいいことが書いてある」などと申したおえらいさんもいっぱいいる。たとえば、稲田防衛大臣は野党の質問に対して「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」と述べたのだそうだ。ところで稲田大臣の答弁にある「道議国家」なるものは教育勅語には一言も出てこない。
 おかしいな、思ったのでちょいと調べてみると稲田大臣は国民道徳協会とやらいう怪しげな団体の現代語訳を読んでいたふしがある。その団体が何者であるかはよくわからないのだが、教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」というくだりを「私は,私達の祖先が,遠い昔遠大な理想のもとに,道義国家の実をめざして,日本の国をおはじめになり,」と訳しているからだ。本文がいくら難解に見えたとしても「道義国家」なる言葉のかけらもそこにはない。また、「朕」というのは天皇しか使えない一人称であり、単に「私」とか「私達」と訳してはいけないのだ。それは天皇を崇拝している人たちからすればとんでもない不敬な表現になる。まして「私達」とは誰ですか。
「国民でぇす、国民は天皇と一緒にこの国を作りました」
なんて言ったらそれこそ天皇を冒涜するも甚だしいというところである。
 そこは「天皇である私が思うに私の祖先が・・・」としなくてはならない。それは神武天皇以来の天皇家の歴史のことになるだろうからである。井上哲次郎の『釋明 教育勅語衍義』の解釈に杉浦重剛の『倫理御進講草案』の説明を斟酌して読み解くならば、「神武天皇の即位をもって国の紀元とする。以後二千五百五十余年の長い間続いてきた。そして天皇家の威信はますますさかんになっている。こういうことは世界に類例がない。これは我が国が何と言おうと世界での中で秀でている理由だ。これも天皇家の御先祖が深く厚く人民に徳を植え付けてきたからだ」ということになる。このように正しく読むことで
〈日本だけがすばらしい国〉
という独善的な国家観が成り立つ。それを井上哲次郎は「我邦ノ超然萬国ノ間ニ秀ヅル所以」(日本だけが特別どの国よりも秀でているわけ)と解釈したのだ。それは「道義国家」なんちゅうものではない。「道義国家」と訳したのでは天皇の意思に反する不敬的な国家観になってしまうのだ。
 ならば、だ。
〈教育勅語にはいいことが書いてある。〉
と言う人がその〈いいこと〉を生き方として学ぶには具体的な例を示すのがわかりやすいだろうし、そういうテキストがあれば便利と思うだろう。それで探してみたら『物語で伝える教育勅語』というそのものズバリの本が見つかった。
 で、「本書は、教育勅語の十二の徳を現した人物や歴史を通して教育勅語に説かれた精神をより具体的に理解できるように編集されました」(まえがき)と編集の趣旨が書いてあるので、胸をわくわくさせて頁を繰ってみた。
まずは「父母に孝に」である。題材はあの有名な二宮金次郎の話だ。金治郎は貧しい家に生まれ育ったのだが、親戚に預けた弟を取り戻し、父母亡き後は叔父の家に世話になり、よく働き、よく学んだので、成功して家の資産を取り戻し、さらには村の立て直しに貢献したという話が描かれている。そして最後は
「両親に孝行を尽くす」とは、両親に恩返しするだけではなく、自分の身体を大切にし、自分自身を大好きになることでもあると金次郎は言っているのです。
と結んでいる。
 あれ?おかしい。
 井上哲次郎は「天皇と臣民の関係は父母と子や孫との関係と似ている。」そして「天皇陛下はすべての国民に対して〈汝臣民〉と呼びかけたのだから、臣民たるもの子や孫が父母に対する心をもって謹聴感佩(謹んで聞き、ありがたいと感じて感謝する)しなくてはならない」と解説している。「自分自身を大好きになること」ではない。「天皇を親のように慕うこと」が「父母に孝に」の意味なのである。
 なのにそのようなことは一言も出てこない。これでは教育勅語を理解したことにはならないのではないか。
 「兄弟に友に」も「夫婦相和し」も「一家ハ細胞ノ有機体ニ於ケルガ如ク、実ニ一国ノ本ニシテ、家々和睦スルトキハ、一国モ亦安寧ナルヲ得(一家は有機体の細胞のようなもので、国家の基本になる。それぞれの家がうまくいっているときに国家も安泰なのだ)」という井上哲次郎の解説に見られるように、これらは家庭や家族の内に閉じる問題ではなく、天皇との関係、国家とのつながりで説明しなくてはならないのだが、そうしたことは紹介される物語には出てこない。
 最後の徳目「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」だけは「もし一たび国家に一大事が起こったならば、正しい勇気をもって、お国のために真心をつくしましょう」と但書が着いているので、国家との関係に言及しているかと思えば、なんと元寇の話。しかも、「みんな心を一つにあわせ、国を守ろうとまとまったため、みごと敵軍を追い払うことができたのでした」と結んでいる。思わず、
「守れなかった戦争のことは書かんのかい!」
と叫んでしまった。
 せっかく期待して読んだのだが、天皇に対する敬愛も、国家に対する忠誠も育まれそうにないスカスカの物語集になっている。これでは教育勅語について何ら学ぶことはないだろう。あの国民道徳協会とやらの不謹慎な現代語訳と同様に教育勅語の趣旨をねじ曲げたものになっている。これではまっとうな臣民は育てられないだろう。

☆☆
 なので、このような天皇不在の教育勅語物語は民主主義の倫理を伝えるにはいいかもしれないが、それならわざわざ教育勅語を持ち出す必要はない。読んでも大して毒はないが、あの防衛大臣やなんたら学園の理事長や名誉園長だのといった誤読した人たちによって天皇や国家をないがしろにした歪んだ教育勅語観が広められるのは許しがたい。本書もその片棒を担ぐようなものだな。ふふふ
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2009年11月24日

加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社 一七〇〇円+税

 歴史って暗記科目だ。そう思って生きてきた。そう思っている人ってけっこう多いんじゃないかな。大学生はまちがいなくそう思っているからね。この間バイトの学生に「日本史とか好き?」って聞いたら、「好きですよ」という答えが返ってきた。へぇぇぇ、と感心して、「どこがおもしろいの」と返すと、
「私、覚えるのって得意なんです。それで覚えただけ点が取れると楽しくって。努力の甲斐がすぐに出るでしょ。」
 笑い話みたいだけど、その学生、ごくまじめに答えてんの。ほんとうにマジな話なのね。そんな人が教師になってまた覚えるだけの歴史を教える。そうやってどんどん歴史は受験以外に役に立たない科目になっちゃうんだな。

 あれ?この逸話、可笑しくない? ……あ、そうか。この話、何が可笑しいのかもたぶんわかんない人がいるかもしれないわね。なんせそういうふうに教わってここまで来ちゃえばねぇ。そういう人のためにひとこと言うと、歴史って暗記科目じゃなくて考える科目なのね。そして受験じゃなくて日本の明日のために役に立つのよ。きっと。
 そういうことを実際にやってみたのがこの本。書いたのは東大の日本史のセンセイ。でもこの本はこのセンセイが書いたと言うより、このセンセイが中学生、高校生に講義した成果なのね。だから、中高生向きの教科書と考えればいいわ。
 加藤センセイは日本史の教育は大学では遅い、鉄は熱いうちに打て、とかねがね思っていたようなのね。それで彼女なりの「理想の教科書」を書きたかったらしいんだわ。それを知った朝日出版社が加藤センセイに中高生を対象に講義をさせるという企画をしたらしいの。その成果がこの本というわけ。
 というわけで、加藤センセイの日本史講義は二〇〇七年の年末から翌年にかけての五日間の集中講義で行われたのね。お相手は栄光学園中学一年生から高校二年生までの一七名。歴史研究部のメンバーが中心だというので歴史に対する関心は強い生徒たちだ。という前置きはさておき、五日間の集中講義なので、講義を聴くつもりで読むとついていきやすいわ。実際の講義をもとにしているから、ときどき生徒に問いかけたりしているのね。そのやりとりがけっこうレベルが高い。しかし、中学生や高校生でこの程度の反応はできておかしくはない。そういう素地があればね(小中学校の責任だよ)。
 で、題名がすごいでしょ…「戦争」を選んだ…だもね。講義のテーマは「日本の近現代と戦争」なんだ。日清戦争に始まり太平洋戦争に至る、その戦争をどうして日本は選択してきたのかを生徒たちにまさに当事者になったつもりで考えさせながら歴史を解読していくのだ。日清戦争-日露戦争-第一次世界大戦-満州事変と日中戦争-太平洋戦争と章立てはそうなっているけど、それらの戦争はずっと一貫して続いてきたんだってことがわかるし、それは日本とアジアだけに閉じた歴史じゃなくって、世界史的な構造の中での話だったことがわかってくる。学校の歴史教育が日本史と世界史に分かれていること自体がおかしいのかもしれない、と思っちゃうね。
 そうすっとね、単純に侵略したとかしなかったとかではなくて、その時代の中にいた日本人の歴史を選択してきた理由を推し量ることになるんだなあ。歴史ってこんなに意味のあるものだったんだってことがよくわかる。受験のためだけに暗記させていく歴史教育がいかに非効率的かってこともよくわかるね。だってこの本のほうが教科書よりもよく歴史がわかるんだもん。わかるだけじゃなくて、この本を手かがりにちょこちょこ調べていくと入試なんて屁のカッパだな。ちゃんと理屈の通った物語として頭に入っていく。試験対策に覚えなくても自然にいろんな物事が頭に入っていく。まさに「理想の教科書」なんではないかな。
 平和教育に戦争の悲惨さだけを実感なくつたえたり、侵略と被侵略の単純な構図なんかで歴史をいじりまわすこともちゃんちゃら可笑しくなっちゃう。そんなわけで、この本で授業改革できそう。
 自分で授業を作るためには参考になりそうな文献やらなんやらは加藤センセイがいっぱい紹介してくれているから、自分なりの授業プランが作れそうだし、高校だったら日本史と世界史をドッキングさせて授業作りもできそう。但し、教師の力量が問われることもまちがいないけどね。
 もちろん、フツーに歴史書として読んでも痛快。あたしも松岡洋右を見直しちゃったし(国際連盟脱退の時に席を蹴って退場するイメージとは別の、ほんとうは戦争なんかしたくなかった彼を知ってしまったの)、何枚も眼から剥がれる鱗があると思うよ。
 とは言え、この栄光学園って、東大に何十人も入る進学校なんだ。そう言うと「だから、こういう講義をやっても成り立つんで普通の高校じゃねぇ、ちょっと無理じゃない」などという自己防衛の声が聞こえそう。でもね、この学校、例えば高一ゼミというのがあって、「沖縄」とか、「原子論の歴史と原子論的な歴史の見方・考え方」とか、「映画で学ぶ世界の歴史」みたいなテーマの成績のつかない少人数教育をやっている。そう、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考える」下地ができているんだね。単なる受験校ではないのだろう。
http://ekh.jp/ga/k1z.html
 とは言え、やはり、当然ながらというかレベルのチョー高い学校であることにかわりはない。しかも歴史好きの歴史研究部のメンバーだからね。でも、いやだからこそ見習うべきことは見習った方がいいと思う。


☆☆☆☆ そして、二度と戦争を選択しないためにわれわれはどうしたらいいのか。それを考えるのにも本書は必読だ。

戦争をしたがるやつが増えたなと保守で通した老父が怯ゆ   休呆

そういうやつらに読ませたい。
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2009年09月30日

藤岡信勝著『汚辱の近現代史』徳間書店 一九九六年

 東京大学教授・藤岡信勝氏がこれまで近現代史教育を自虐史観であるとして批判し、自由主義史観なるものを提起した著作である。いまさら紹介する必要もない本ではあるけれど、読まずぎらいはよくない。一度は目を通してきちんと批判はしておかなくてはならない本だと思う。世の中には気に食わないものは見たくないと言って遠ざける人もけっこういるみたいだ。くだらないから、と無視するのは簡単だけどそれは教師としての責任を放棄したことにもなるのかもしれない。
 藤岡氏の目指すところは「元気の出る歴史」であり、「誇りの持てる歴史」教育である。しかし、歴史というのはまずは事実が何なのかが問題なのである。それをどう解釈するかは史観と言うよりその人間の人間観、人生観の問題であろう。たとえば慰安所について文部省の建物の中の民間業者が経営する食堂の例に戦地慰安所と軍の関係をなぞらえて、この食堂は文部省の経営ではない(=慰安所は軍の経営ではない)と論じている。そういうのを我々はふつう文部省の食堂と言うし、軍の施設だと言うのだけれど、それを経営の責任がないことの言い逃れに使おうとすればするほどそこで辛酸をなめた人の神経を逆なでしていることに気づいていない。その無神経さに語る人の人間観が顕れてくる。そのことが藤岡氏が言う「戦略論で近現代史を見る」に際しても「戦略」そのものを誤る原因でもある。くだらないからと無視してはいけない。きちんと読んで、しっかりと呆れるべきであろう。

 ★★★★ こういう本はちゃんと読んでおくべきだ。



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家永三郎監修 教科書検定訴訟を支援する全国連合会編集・発行『教科書から消せない戦争の真実―歴史を歪める藤岡信勝氏らへの批判』

 藤岡信勝氏ら自由主義史観を標榜する人たちの発言が喧しいので、業をにやした家永三郎、吉見義明、藤原彰、安井三吉、大日方純夫などの論客が寄稿したブックレットである。とりあえず藤岡氏らに反発を感じる人ならすぐに共感できる内容かもしれない。しかし、この批判は自由主義史観を標榜する人たちには通じない気がする。なぜならばこのブックレットの書かれ方を藤岡氏たちは「自虐史観」と呼んでいるのだろうから、である。
 もとより藤岡氏たちはこのブックレットに書かれている歴史叙述のたぐいに反発しているのだから、たぶんまじめに批判としては受け止めていないのではないかと思う。とくに大日方純夫氏による「藤岡氏らの近現代史認識を問う」という一文は藤岡氏らとの近現代史認識のちがいは鮮明にしたけれど、それまでであってまったくの平行線であることを示すにとどまっていると思える。そう思うとよけいに腹立たしいが、議論となっている史実についてきっちり学べる好著ではある。

 ★★ 手軽に学べるという意味ではいいけれど、史観をめぐる論争には向かないな。


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宇佐美寛・池田久美子著『「近現代史の授業改革」批判』黎明書房 一九九七年

 もちろん「近現代史の授業改革」というのは藤岡信勝氏が提唱する自由主義史観の歴史教育をめぐる動きのことである。藤岡氏らがディベートからはじまってこうした授業改革の提唱にいたったことはよく知られている。本書は「〈虚偽〉を研究することによって、正しい思考のあり方がわかる」という観点から論理的思考を鍛えるために書かれたものであり、「藤岡氏の著書・論文は様ざまな種類の虚偽が含まれている宝庫である」と宇佐美氏は見ている。宇佐美氏は藤岡氏が議論において番(turn)を守っていないこと、事実のつまみ食いという論争の基本において藤岡氏の論法の〈虚偽〉を指摘している。本書の大部分は池田久美子氏が書いているが、池田氏は藤岡氏の論理の矛盾を徹底的に析出していく。「極限事例の虚偽」、「過剰限定の虚偽」、「先決問題要求の虚偽」、「二重基準」、論点変更の虚偽」、「無知に乗ずる虚偽」、「事例による操作」、「すじちがいな比較」、「不当前提の虚偽」、「語の意味の歪曲」、「目的による操作」、「主体不問の虚偽」といった藤岡氏の〈虚偽の技法〉をあばき出していく過程は実に痛快だ。自由主義史観に対する批判としてだけではなく、論理的思考を鍛えるために日々の授業において活用したい。

 ★★★★ 自由主義史観の手口が満載。悪用しないでください。自らの論理的思考を鍛えるためにもチョーおすすめ。


posted by ウィンズ at 11:37| Comment(0) | 歴史教育 | 更新情報をチェックする