2017年05月10日

中村一成『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件 〈ヘイトクライム〉に抗して』岩波書店 一八〇〇円+税


 過去にどんな理由があれ、現在どういう理由があれ、人間がその場所に住んでいるということは誰からも非難されるべきことではない。われわれもまたこの国を離れ、異国で暮らすことがあるかもしれないし、われわれの子孫がそうなる可能性も多々あるだろう。実際、日系人と呼ばれる日本人の血を引く人たちは世界の各地に住み着き、そこでコミュニティを作って暮らしている場合もあるし、異国の社会の中に溶け込んで暮らしている人もある。そうした同胞がどのようにその社会で受け入れられているかどうかは気になるところである。外国に行ったことのある人ならば自分がそこではマイノリティ、つまりは少数派であることを実感したことがあるにちがいない。もし、日本人である、ないしは日本人の血を引いているからといって罵詈雑言を浴びせられたとしたらどのような思いをするであろうか。それはちょっとした想像力の問題である。
 日本において在日コリアンの存在は大きい。歴史的経緯はさておき、彼らはすでに日本社会の一部を構成していることはまちがいない。そしてこの国で在日コリアンに生まれるということも、もはや本人の意思を超えて一つの運命に過ぎないことなのである。私たちが何処でどういう条件のもとで生まれ、育つかは本人の責任ではまったくないのである。そうであるにもかかわらず在日であるからといって譏りを受けるのは理不尽以外のなにものでもないであろう。同時にそのことだけで在日の人たちを誹謗する人たちもなんとも哀れな人たちではないだろうか。
 それはさておき、突然子どもたちが通っている学校に居丈高な連中が街宣車で押し寄せ、理不尽な誹謗中傷、罵詈雑言の類いを投げつけ、暴力的な振る舞いを見せつけ、徒党を組んで威圧的な示威行為をしたとすれば、私たちはどうすればいいのだろうか。マジョリティ(多数派)の側にいれば、自分の問題ではないから同情以上のものを引き出すことはできないかもしれない。しかし、少し想像力を働かせれば、自分が異国で少数派として罵られることがどんなに楽しくないことかはわかるだろう。それがわからないのならば、本書を読むといい。
 二〇〇九年十二月四日午後、突如「在日特権を許さない市民の会(在特会)」と「主権回復を目指す会(主権会)」という人たちが京都朝鮮第一初級学校を襲撃した。本書はこの京都朝鮮学校襲撃事件を徹底的に取材したルポルタージュだ。
 この国のマイノリティとして、この国のマジョリティとたたかうことの難しさが描かれていく。マイノリティであるということは警察や行政が決して味方にはなってくれないことを意味する。彼らは中立公正という立場に逃げ込み、弱者を守るというスタンスには決して立たない。
 裁判の結果にかかわらず着実にヘイトクライムを遂行した連中の要求は具体的にかなっていくのである。ヘイトスピーチは表現の自由の名のもとに黙認され、それまで使用していた公園からは排除されるようになり、関係者は疲れ果て、ついに学校は閉鎖・移転という結末を迎えたのである。マイノリティにとっては法律も権利も言動も何一つとっても平等ではないことがわかってくるのである。
 その意味で、是非ともマイノリティの立場で問題を受け止めることの意味を本書から酌み取って欲しい。

☆☆☆☆ この国が人間らしい生活をすることができる国ならば、きっと子どもたちはこの国を好きになるだろう。しかし、人間が人間を侮蔑し、罵り、人間の尊厳はおろか存在すら否定するような暴言を公然と叩きつけるということが行われ、そのような行為が黙認されるとすれば、それはあまりに悲しいことであるし、そのようなことがまかり通る国を好きになることなどできないだろう。その意味ではこの事件を引き起こした人たちはこの国の恥だと言ってもいい。しかし、彼らはこの国の法律に守られて彼らは今日もヘイトスピーチを吐き続けているのである。

posted by ウィンズ at 15:05| 福岡 ☁| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする

2013年09月03日

辻太一朗『なぜ日本の大学生は、世界でいちばん勉強しないのか?』東洋経済新報社 一五〇〇円+税

 すごいタイトルの本だ。PISAの学力がどうだとか、全国学力調査がどうだとか言っている人たちのまぬけさがおかしい。
 昔から日本の大学生というのは勉強しないと言われてきた。レジャーランドだと笑われてきたこともあった。しかし、それは誰もが大学に行くわけではない時代に大学に行くことのできた連中に対するいささかやっかみをふくんだ批判であったのかもしれない。ところが現在では大学に入りたくもない若者まで、大学に入ってくる。そうすると、大学にはそれまでの大学の伝統的な理屈は通らなくなってくる。どっとあふれてくるのは初等中等教育の時代に培った物の考え方であり、学び方であり、生き方なのだ。そしてそういう暮らしの知恵が大学での勉強のしかたになって現れてくるというものでないかい、ってか。
 この本の問題意識は海外の大学生は優秀であり、日本の大学生は見劣りがするということであり、かつ日本の大学生は小学生よりも勉強していないということのようだ。
 なにゆえに日本の大学生は勉強しないのか。それは本書によれば負のスパイラルなるものに支配されているからだというのだ。その負のスパイラルというのは就職試験を受ける学生の態度となってあらわれている。つまり、左のようなものだ。

企業 学生は勉強してないからバイトやサークルの話を聞くしかない
学生 就活で勉強のことは訊かれないから、バイトやサークルの話をする。
大学 しっかり教育しようとすると学生は離れていく。だから適当にやる。
学生 教員にやる気がないから、バイトやサークルに精を出す。
企業 学生は勉強してないからバイトやサークルの話を聞くしかない。
学生 就活で・・・・

 こんな具合にどんどん学生は勉強しない方に、まわっていく。現在の大学の実状ではこのスパイラルから抜けられない、というのだ。著者はこの負のスパイラルから抜け出すにはこの負のスパイラルを正のスパイラルに変えることだと言い、正のスパイラルに転換する方法を提言しているんだ。つまりは「考える力」を育成する授業を大学教育でやるように、ということだ。
 だけどさ、そんなふうに大学が努力して授業改革をしたとしてもさ、学生の学びの価値観が変わらなければやっぱり負のスパイラルは変わらないんだと思うんだな。それってさ、試験の点数にしか価値の見出せないような教育を取り巻くしくみが問題なんだろうと思うよ。
 このスパイラルはやはり「学生は勉強してるから……」で始まるのがいい。正のスパイラルだな。ならば小学校、中学校のときから学ぶことの楽しさを伝えておくべきだし、高校が潰してはならない。受験産業の言い分に振り回されるのもおかしい。「子どもたちは勉強に興味があって…」という、そういう教育の基礎があって始めて成立することだ。大学ではもう遅いのかもしれない。なにしろ、大学に入るや、もう勉強しない方向に向かっているんだから。


☆☆☆ とか言ってもさ、教師の学習意欲がいちばん問題なんだけどね。この読者はだいじょうぶだとは思うけど。
posted by ウィンズ at 19:22| 福岡 ☔| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする

桑田真澄・平田竹男『野球を学問する』新潮社 一三〇〇円+税

 部活でがんばっているセンセイって多いよね。もしかしたらこれを読んでいる中にもいると思うのね。そして、部活を通して生徒たちを成長させるのだと意気込んでいる人もいるよね。中にはさ、〈部活命〉なんちゃって、二日酔いで年休とっても、部活の指導には出てくるっていう〈熱血!〉教師も見たことがあるなあ。それとさあ、部活でビシビシ鍛えれば根性っちゅうか、そういう精神的にもええことになるやろし、と信念を持って部活に取り組んでいるセンセイも多いんちゃなかろうか。
 確かに部活で鍛えれば忍耐力とか協調性とかいろんな力がつくような気がするし、それは教科教育では得られない力みたいに思うこともあるよね。チームプレイで得られる友情はなにものにも替えられない青春の証みたいなものだし、先輩と後輩の年齢を超えた交流なんかも学級活動では得られない大きな財産なのかもしれない。つらい練習に耐えて、みんなの努力をあわせて勝ち取った優勝の記憶はきっといつまでも心の支えになると思うのよね。
 その典型的なのが、甲子園だろうね。あそこには青春のドラマがぎっしり詰まっておるわ。
 だから、『学習指導要領』でも、部活動は「学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり…」とその必要性を盛り込むようになったのはそういう教育効果を考えてのことのようね。
 ところがさ、あたいの友だちで自分の子どもには絶対に部活はさせない、なんて息巻いているのがいてね。
「なんで好かんと?」
て、訊いたら、
「だって、あんなもん、青春の汚点よ。二度と思い出したくないトラウマなんじゃ」
て、ぬかしようとよ。
 それで、ちょいと追求したらさ、そいつね、運動神経があんまりいい方じゃなくてね、へたくそなものだから、いつも友だちにはバカにされるし、先輩はパシリに使うし、先生は「根性が足らん」ちゅうてへとへとになるまで練習させるもんだから、おかげで膝を痛めて、いまでも古傷が痛むんだと。ついでにその傷は心の傷だとも言ってたのね。
 そりゃ、部活でそこそこやれた人間にとってあれは楽しい想い出だったけど、いやな思いを溜め込んでたやつもいたんだね。あたいの学校はどっちかちゅうと仲良くやれればいいとかいって、一回戦で負けたけど先生がコーラを驕ってくれた。でも優勝候補の学校が準決勝まで進んだのに、そこで負けたゆうて先生にビンタくらわされていたのを見たときは、さすがにひいたわ。
 で、部活(文化系の部活もあるし)ていうか学校スポーツの役割とか意味について考えてみたくなったのね。もちろんその代表は甲子園だし、そのまた代表はプロ野球の成功者だよね。ということで、この本なのだ。
 桑田真澄という名前は知っていますよね。そう、読売ジャイアンツのエースだった人です。その桑田氏がなぜか早稲田大学の大学院に入って修士論文を書いたのだそうで、この本は桑田氏の修士論文をもとに指導教員の平田先生と語り合った本なのですよ。野球を学問しちゃえば、どうやって子どもたちを鍛えて県大会で優勝させられるかって思っちゃうもんね。まずは桑田氏は「野球道」を研究したいと考えたようなのね。
 なぜなら「野球道」といった美名のもとで桑田氏自身、体罰やいじめを受け、長時間の練習に耐えてきた少年時代があり、そこに疑問を持っていたということが問題意識の原点になるのね。そうそう、研究というのはそういう課題意識の立て方がだいじ、ってどっかの大学のセンセイが言ってたような。
 そうしたら飛(とび)田(た)穂(すい)洲(しゆう)という人物に出会ったのね。出会ったといっても研究上で出会ったのだ。飛田穂洲は明治一九(一八八六)年生まれで昭和四〇(一九六五)年に亡くなった人だから昭和四三(一九六八)年生まれの桑田氏とはすれちがってもいない。
 この飛田穂洲という人は早稲田の初代監督を務めた人で、彼がベースボールをあたかも武道のように「野球道」と呼んだそうなのです。そして学生野球は教育の一環である、という姿勢で、試合よりも練習を重視したんだそうな。ほほう、そういうことが書いてあるんですよ、この本には。つまり部活の指導者には必読の書というわけですね。
 それはなぜかというと、戦時中に野球は「敵性スポーツ」として軍部に弾圧された。それを飛田は野球を「野球道」として位置づけることでその精神は死の練習によって培われ、母校愛は国家愛であり、一致団結によって敵と戦い、そこには犠牲的精神があって、まさに国難に準ずる軍隊のようなスポーツだと主張することで軍部から野球を護ったんですと。まあ、つまり、野球というスポーツを戦争に協力するものしてゆがめたということなのね。それが今の部活の猛練習につながっているとすれば、そして部活で教育をしようと考えるのならば、それは戦争中と同じ発想だというわけよ。
 それで、桑田氏は新しい「野球道」を作ろうとするわけで、そのあたりは読んでみてのお楽しみ。

★★★★ スポーツ部活の指導者を自称する人には必読ね。それと 部活のリーダーになる中学生、高校生だったら読んだ方がいいわね。とっても読みやすい本だから。
posted by ウィンズ at 19:19| 福岡 ☔| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする

ジェームズ・クラベル著 青島幸男訳『23分間の奇跡』集英社文庫

 教師だったら、「自分の思いを子どもに伝えたい」とか、「子どもに正しい生き方を伝えたい」とか、「人権を大切にする子どもを育てたい」とか、「平和を愛する子どもを育てたい」とか、「立派な市民に育てたい」とか、思うよね。あたいも子どもを教育するってなんか自分の理想とする価値観に子どもを近づけることだと思ってたよね。ていうか、今でも思っているのかもしんない。
 なんせ、センセイのいうことを聞かない生徒なんて、どっちかというと苦手だし、まあ、本音を言えば嫌いかな。だけどセンセイのいうことを聞かない生徒は山ほどいるし、センセイのいうことを聞かずに転落した人生を送っている子や、苦労している子や、ネット右翼になっちまった子もいる。あ~あ、なんとかならないかなあ、と思う今日この頃なのよね。
 そしたら「こんな本があるよ」って、お友だちが教えてくれた。それがこれ。単行本で出たのが一九八三年、集英社文庫になったのが一九八八年だから、もう三〇年近く前に出た本なんだわ。しかも、青島幸男訳っていうのがいけてるでしょ。
 それでね、どんな話かっていうと、ジョニーという少年がいる教室に若くてきれいな先生がやってくるところから始まる。それまでの先生は教室から出され、この若い先生がジョニーたちの新しい先生になったのだ。この舞台となった学校がどこの国なのか、いつのことなのか、そんなことは何にも書いていない。ただ、新しい先生は戦争が終わって、「海の向こうの見知らぬ国からきた」人たちの一人だということだ。
 たぶん、ジョニーの国は戦争のあと外国の支配下に入ったのだろうということだけが推測できる。かつての朝鮮かもしれないし、フランスかもしれないし、戦後の日本かもしれない。だから新しい先生にジョニーたちはちょっとした不安と反発する気持ちを持っているわけだ。
 そして新しい先生の授業が始まるの。この授業がすごい。不安と反発に満ちている子どもたちの気持ちをほぐし、受けとめていく。自由を与え、権利を与えていく。そして最後まで反感を持っていたジョニーまでが、ついに
「これからは、先生のいうことをよくきいて、いっしょうけんめいべんきょうするぞ」
 と「けっしんした」のだ。
 そして新しい先生が子どもたちすべての気持ちをつかみ、「りっぱな市民として育っていくだろう」と確信するまでの時間が23分だったという、そういう23分間の間に占領された国の子どもたちが先生を信奉してしまうという奇跡のお話なのだ。
 すばらしい授業は生徒の心を掴み、子どもたちを変えていく。そのことはすばらしいことなのかもしれない。しかし、それは言い方を変えれば洗脳なのかもしれない。ともかくこの若い先生のワザには脱帽すると同時にちょっと怖くなってしまいましたとさ。


☆☆☆☆ いい授業をしたいと願っている人、子どもたちに自分の思いを伝えたくてたまらない人なんかにおすすめ。
 学級崩壊で疲れ果てている人、学校が荒れて絶望している人、生徒が言うことを聞かなくて困っている人なんかにもおすすめ。
 でも、なんてったって、平和教育や人権・同和教育で子どもを変えたいと思っている人には絶対におすすめ。そして子どもを自由に操りたい人には必読の書だね。 
posted by ウィンズ at 19:17| 福岡 ☔| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする

2012年04月07日

架神恭介+辰巳一世『よいこの君主論』ちくま文庫 七八〇円+税


困ったことなのですが、実は私のクラスがまとまっていなかったのです。受け持って二年目のクラスなんですが、最初から落ち着きのないクラスでした。子どもたちがバラバラで、いじめなんかもあるみたいなんです。人権・同和教育では学級集団づくりがたいせつだと言われるので、集団づくりとか仲間づくりとかで実績のある先輩たちの意見を聞いたり、時には指導してもらったりしてやってみたのですが、どうにも自分の思ったように子どもたちはいい集団になってくれないのです。
そんな私の息抜きが時々応援に行くプロ野球なのです。今年は無事クライマックスシリーズも制して、さあ日本シリーズ!というときに読売球団の代表があの渡邉恒雄氏を告発するという事態が起きて、大騒ぎになりましたね。あのとき職員室でその渡邉恒雄という人物についていろいろ話題になったのです。というより、自分のクラス一つまとめきれない私ですから、あの読売新聞とか読売ジャイアンツとかを支配している権力者っていうのが少々うらやましかったわけです。それで隣の2組のY先生に話しかけてみたのです。
「Y先生、この清武代表ですか、あのナベツネに刃向かったっていうのが凄いですね。私なんか校長の悪口なんて、これっぽっちも言いきらんですもん。」
 そしたらY先生は、
「まあ、蟷螂の斧、とかいうんじゃないの。勝てる喧嘩じゃないだろうに。ささやかな抵抗ということにおさまるんだろうね。」
 とクールなことを言った。それを聞いていた3組のS先生が口を挟んできた。
「世論が味方すれば勝てると思ったんじゃないのかなあ。実際僕なんかも快哉を叫んだとこもあるよ。」
「あたしもちょっと溜飲を下げたわ。だけど、結局喧嘩には負けちゃったんでしょ。下げた溜飲が逆流してきたわ。うっぷ。所詮権力者には勝てないのかしら。」
 と、私はうまく両方に話を合わせてみた。
「そんなにナベツネの権力って凄いのかなあ。」
 S先生の疑問にT先生がしたり顔で言う。
「なんかね、官房長官が毎月だったか、毎週だったかナベツネのところに政情の報告に行くことになっているらしいよ」
「そんなバカな。権力者とはいえ、ナベツネは読売内部の人間だろう。民間人じゃないか、官房長官は国家を担っているんだぜ。ホントだとしたらどんな権力なんだい?」
「いや、そうだって。」
「ホントかなあ。誰が言ったのさ。ガセネタじゃないのかい?もしそうだとしたらこの国はおしまいだぜ。民主主義もへったくれもないし、メディアの横暴じゃないか。」
「確かにそうよね。新聞も読売だけじゃないわけだし、朝日もNHKもあるでしょうに。」
 私もS先生と一緒にT先生に反発してみた。
「い、いや、まちがいない。確かテレビで言ってた。」
 テレビか。テレビが言うにしても、根拠はあるんだろうし、そんな噂話をばらまかれても困る。それはみんなの疑問だった。
「でもさ、ほんとだとしたらさ、何でそんなふうになれるんだと思う?」
「興味あるわね。」
「僕も知りたいな。将来権力者になってみたいし。」
 あら、T先生の野望がちょっと見えたところで、チャイムが鳴った。実は私もあの統制の取れていないわがクラスの子どもどもを〈女王様〉として支配してみたかったのね。
 まずは渡邉恒雄がどんなに権力者なのかを確かめたくって、魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社文庫 七六二円+税)をひもといてみた。おもしろい。これは十年以上前に書かれた本だけど、まさに今の彼のことがよくわかる。と言うより、この本が書かれてからの十数年間も、渡邉恒雄はさらに権力者としての地位を確かにものにしつづけているのですから。私だって、学級の女王から、学校の女王ぐらいにはなってみたいしね。
 渡邉恒雄は、学生時代は共産党で組織体験をしていたんですね。そして、共産党を離れてから、読売新聞社に入ってのし上がっていく過程が実に見事に史実に基づいて描かれています。これは渡邉恒雄という一人の人間の出世物語としてもおもしろいのですが、処世術の本として読むとまたちがう味わい方ができます。なんせ、名もない学生が新聞社もしくは日本社会という世界でのし上がって行き、人心を掌握し、大組織を経営している話ですから、『三国志』とか、戦国大名の話などがお好きなビジネスマンにとっても興味深いところで、あっ、T先生もそういう管理職にでもなろうという気持を持っているわけか。ふふ、私は女王様よ。
 で、まあ、『メディアと権力』のなかで書いてあるのが、渡邉恒雄は哲学科の卒業で、そのことが彼にとって自信の源だったらしく、特にマキャベリの『君主論』が愛読書だと書いてあった。マキャベリズムってよく聞くのだけれど、実はあまり意味がわからないのね。なにしろ、哲学とは遠いところにいたから、ですね。それで『大辞林』をひいたら「①どんな手段でも,また,たとえ非道徳的行為であっても,結果として国家の利益を増進させるなら許されるとする考え方。イタリアの政治思想家マキャベリの思想から。 ②目的のためには手段を選ばないやり方。権謀術数主義。」とある。うーん、しかし、それはどんな哲学なんだろう?それに学級経営に使えるかなあ?少なくともあの子どもどもを支配するのには役に立つのかもしれない。
 ということで、ちょっとだけ知的好奇心がわいてきた私は本屋さんに行ってみました。『君主論』はいくつも翻訳があって、私は池田康訳『新訳 君主論』(中公文庫 七八一円+税)を選びました。新訳だから訳もわかりやすいんじゃないか、と思ったのです。そしたら、『よいこの君主論』(ちくま文庫)が目に入りました。なんと表紙に漫画っぽいのが描いてあります。パラパラ開くとゲーム本の解説みたいな漫画での人物紹介が出ているんですね。「ひろしくん(10さい)」とかあって、「勉強 C+、運動 B-、用兵 S……」とかなってて、人物評が載っている。思わず、これも買い求めてしまいました。文庫本だから安いものです。で、帰りにコンビニに立ち寄ったら、許成準『超訳 君主論』(彩図社 一二〇〇円+税)というのがあったので、これもゲット。何だか、もう君主になったみたい。
 そして、まずは正統派『新訳 君主論』から目を通してみました。そしたら、意外と読みやすいではありませんか。たとえば「一 君主国にはどんな種類があり、その国々はどのような手段で征服されたのか」「二 世襲の君主国」「三 混成型の君主国」「四 アレクサンドロス大王が征服したダレイオス王国は、大王の死後も、後継者への謀反が起きなかった。その理由はどこにあるのか」……という具体的な項目が二十六続くんですね。でも、そのアレサンクロドス、いやアレクサンドロスか。そんな舌を噛みそうな名前の王様なんて知らないし、どうしようかと巻末の解説をめくったら、マキャベリが『君主論』を書いた頃のイタリアは「北にミラノ公国とヴェネツィア共和国、中部にフィレンツェ共和国、南にローマ教皇領とナポリ王国という五大強国が並び立っていた」そうで、「それぞれの国はいずれも近隣の小国へ領土的野心をもち、外国の絶対王制の国々も虎視眈々とイタリア半島をねらっていた」とあるから、司馬遼太郎じゃないけど国盗り物語の真っ最中だったようなんですね。そして、マキャベリはそうした国々の興亡を分析して「国の分類」「軍事」「君主の資質」なんかについて解説しているのです。しかし、イタリアの歴史を知らないとよくわからないところがあるわけでひいちゃうところがあったのです。ところが、いわゆる「マキャベリ語録として知られる名言が随所に散りばめられ」ているそうで、なるほどそれなら現代の支配者希望の人たちの役に立ちそうな感じがしますね。
 それならと『超訳 君主論』を開くと、こちらはその名言らしきものを小見出しに持ってきて解説を加えている。副題に「マキャベリに学ぶ帝王学」とあり、「最強のリーダー論」と銘打たれているから、ぐっと現代に引き寄せてあるんですね。
 そして教師として気になるのは、やはり『よいこの君主論』ですねぇ。これはマキャベリの『君主論』を子どもたちが学べるように書いたものとなっています。前書きがすごいんです。「よいこのみんなへ」として「この本(ほん)ではクラスを制圧(せいあつ)するために役立つ(やくだつ)知識(ちしき)や、下々(しもじも)の者(もの)どもの心理(しんり)などをわかりやすく解説(かいせつ)しているよ。」と書き始められているのです。その次には「保護者の方へ」があって、「確かにマキャベリをビジネスに応用すれば、社長業の参考にはなるでしょう。ですが、社長になってから君主論を学ぶのでは遅すぎるのです」と、教育ママを刺激する言葉が書かれているではありませんか。教師としてはそそられるものを感じるではありませんか。そうだ『超訳』も『新訳』もとりあえず置いといて、まずは『よいこの君主論』から読もうと思ったのです。
 この本はマキャベリの『君主論』を下敷きにとある5年3組を舞台にして主人公「ひろしくん」がクラスを制圧していく過程を描いています。つまり、『君主論』で分析されているイタリアが5年3組で、ひろしくんやりょうこちゃんといったリーダーっぽい子どもは強国の君主。「うぞうむぞう」のクラスメイトたちは近隣の小国にあてはめて、子どもたちの権力闘争のポイントが『君主論』に則って描かれていると言ったらいいのでしょうか。そしてわかりました。私のまとまりのつかないクラスを最高の学級集団にする秘訣が、ですよ。ここで教えろ、ですって。ダメ。ふふふ、女王の座は譲れないから。ということではなくて、私は女王様にならなくたっていいことがわかったわけよ。
 ともかく、いわば権力志向の本を人権・同和教育の『ウィンズ』で紹介するなんてなんてことだ、とお叱りを受けるかもしれませんが、それはとんでもない見当ちがいというものです。確かに私は自分のクラスの集団づくりに悩んでいました。でも、この本を読んで上手くまとまっているクラスっていうのは、実は教師という絶対的な君主がいるということを意味しているのじゃないか、と思ったのですよ。マキャベリは多くの「君主」のあり方を研究して、それを主君メディチ家に献上したのですけれど、よく「目的のためには手段を選ばない権謀術数の書とも曲解」(新訳『君主論』解説)されているのは女王様のマニュアルみたいな評価のされ方をなされてきたということなんでしょうね。
 しかし、目的のために選んだ手段を記述したのが『君主論』で、君主と君主、君主と人民の関係のあり方を描いたものだと考えていいみたいなのです。そしてそうした人間関係を5年3組に置き換えてみれば、ひろしくんはじめ5年3組のお友だちはそれぞれが君主にたとえられるわけね。そして他のグループを制圧したりするんだけど、それは子どもだちの人間関係を意味していると考えたらいいのですね。君主とはリーダーであり、制圧というのは集団のリーダーとなること、と読み替えれば、ごくふつうのクラスの中の人間関係がそこにはあるわけです。そして子どもたちっていうのは自然にそういう集団活動をしているわけなのですね。そういう活動って教師の指導とは全く別個の動きなんです。
 そうそう、この5年3組にも担任はいるのですね。十文字先生というのだけど、この先生はまったく姿が見えないのです。遠足やらドッジボール大会や騎馬戦まで教師が出てきてグループ分けをしそうなところまで子どもたちが勝手にやっていて、それが学級の中の勢力図を形づくっているんですね。ありえないといえばありえない設定なんですが、それは子どもたちの自然な集団形成を観察する設定としてはこれでいいのです。で、この十文字先生は三学期になると突然産休でいなくなってしまうのですね。そして登場したのが厳格な指導力を発揮する産休代理の先生なのです。ここで、教師の指導力が学級をたばねるかというと、意外な展開となります。教師は(自分はそう思っているかもしれないけれど)子どもたちのリーダーじゃないのですよ。君主である子どもたちにとっては教師は不慮の災害みたいなものでしかないのです。それに上手く対応できた君主とその存在によってつぶされていく君主とが出てきます。そうなんです。子どもたちは教師の動きを見て政治的に対応しているわけなのです。だから私は女王様として子どもたちに君臨する選択肢は捨てました。それから、教師の意図で思うような集団づくりを試みるのもやめたのです。そうしたら、ええ、ばっちりでした。
 最後に5年3組を制圧したひろしくん、制圧された5年3組はどういう状態になったと思いますか。ひろしくんはみんなに慕われ、戻ってきた十文字先生の見た6年3組は子どもたちの表情がおだやかになり、いさかいもなく、よく学び、よく遊び、クラスは一丸となっていろんな行事に取り組み、「最高の一年間」になったということです。これは架空のお話だけども、きっと私のクラスもそうなるにちがいない。だって私には『よいこの君主論』があるから。



☆☆☆☆ 誤解と偏見で語られる『君主論』だけど、実は集団づくりのテキストなんです。そして職員室をまとめるにも、組合をまとめるにも、校長会を仕切るにも必読の書ですね。『よいこの君主論』を『超訳』や『新訳』とつきあわせながら読んでいくと人間関係を読み解いて、集団づくりに役立つこと請け合い。もちろんご自身の立身出世の野望にも役に立ちますよ。人望のない校長先生にも教えてあげてね。

※本文中二箇所「子どもども」となっているが、「子ども」の次の「ども」には傍点を付してある。
※「よいこのみんなへ」の引用に( )で括ったのはルビであります。
posted by ウィンズ at 10:13| 福岡 ☀| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする