2017年12月18日

吉野源三郎原作 羽賀翔一漫画『漫画 君たちはどう生きるか』マガジンハウス 一三〇〇円+税

 吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』は岩波文庫(九七〇円+税)の一冊であり、一度は手に取ったことのある人もいるのではないだろうか。まあ、岩波文庫なので遠慮していた人もいるだろうし、岩波文庫の威圧感で読み切ることのできなかった人もいるかもしれない。
 なんと、その名著が漫画になったのだ。
 吉野源三郎(一八九九~一九八一)は編集者であり、雑誌『世界』の初代編集長として知られる人物である。本書の原作を書いたのは一九三七年、昭和十二年のことであるから、ちょうど八〇年前のことになる。最初は自身が編集にかかわった『日本少国民文庫』全十六巻中の一冊として、新潮社から刊行されたものだという。
 もとより、少年向けなので平易な文章なのだが、それでも岩波文庫本だと、そこそこに厚いし、字も小さい。読むには体力と気力が要りそうである。内容も旧制中学の生徒が主役であるから、ちょっとかまえてしまいそうだった。なにしろ、子どもたちのほとんどが高等小学校に進む時代に中学校に行くというのはよほどの勉強家か恵まれた人間であったはずだ。そして、その頃の中学生はずいぶんと大人だったのではないか、というのはわたくしめの勝手な思い込みであったが、漫画の中に出てくる中学生は今の中学生と変わらないかわいい少年だ。
 羽賀翔一の絵は、やさしいタッチで昭和の青春を上手に描いている。原作が書かれた一九三七年は、日中戦争が始まり、南京事件のあった年だ。世間がどんどんきな臭くなっている時代なのだが、少年の悩みは学校と友人関係の中にある。叔父さんは、その少年コペルくんが悩みを「自分で考える」なかで、社会問題とも関連づけながら導いていく。この展開は、羽賀の漫画の力による。そして、考えるべき問題が抽出されていくのは漫画の力だろう。
 漫画によって問題が提示されてゆき、叔父さんの意見になるとそれは原作通りに〈文章〉で書かれている。漫画で状況が展開されているせいで、叔父さんの意見が文章で長々と記述されていても、意外にスムーズに頭に入ってくる。もちろん、叔父さんのご意見はそれなりに小難しくはあるんだが、これならば中学生でも読めるだろう。
 コペル君が向き合わなくてはならないのはけっこう現代の中学生がぶつかっている悩みと変わらないと思う。基本的には友だちとの関係だ。
 例えば、学校の中でのいじめ。いじめは最近増えた問題ではなく、この頃もあたりまえにあったことだ。その中で中学生が悩むのも、現在と同じである。現在のようにいじめが深刻な社会問題ではなかった時代なのだが、そこにかかわる生徒たちそれぞれの立ち位置と役割は変わらない。そして、コペル君はいじめの傍観者として、まずは悩みを抱えることになる。さらに貧困の問題であるとか、仲間への裏切り、まさに青春ならではの精神的な課題をコペル君は抱え込み、時には引きこもってもしまうのだ。そのあたりの叙述も、羽賀の漫画の力がいい説得力を与えている。
 昔、中学生だった読者諸氏も、今、中学生とかかわっている読者諸氏も、そして活字離れになっている老青年諸氏も、漫画ならいけるから目を通してほしい。
 

☆☆☆☆ 漫画って力があるんだと、つくづく知らされた。漫画しか読まないアソウ君にはぜひとも読ませたい。きっと、人権軽視の暴言を吐かなくなるだろうから。悪いことをしても逃げ切ろうとしているアベ君にも読ませたい。人間として、してはいけないことに気づいてくれないかなあ。
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2017年05月10日

中村一成『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件 〈ヘイトクライム〉に抗して』岩波書店 一八〇〇円+税


 過去にどんな理由があれ、現在どういう理由があれ、人間がその場所に住んでいるということは誰からも非難されるべきことではない。われわれもまたこの国を離れ、異国で暮らすことがあるかもしれないし、われわれの子孫がそうなる可能性も多々あるだろう。実際、日系人と呼ばれる日本人の血を引く人たちは世界の各地に住み着き、そこでコミュニティを作って暮らしている場合もあるし、異国の社会の中に溶け込んで暮らしている人もある。そうした同胞がどのようにその社会で受け入れられているかどうかは気になるところである。外国に行ったことのある人ならば自分がそこではマイノリティ、つまりは少数派であることを実感したことがあるにちがいない。もし、日本人である、ないしは日本人の血を引いているからといって罵詈雑言を浴びせられたとしたらどのような思いをするであろうか。それはちょっとした想像力の問題である。
 日本において在日コリアンの存在は大きい。歴史的経緯はさておき、彼らはすでに日本社会の一部を構成していることはまちがいない。そしてこの国で在日コリアンに生まれるということも、もはや本人の意思を超えて一つの運命に過ぎないことなのである。私たちが何処でどういう条件のもとで生まれ、育つかは本人の責任ではまったくないのである。そうであるにもかかわらず在日であるからといって譏りを受けるのは理不尽以外のなにものでもないであろう。同時にそのことだけで在日の人たちを誹謗する人たちもなんとも哀れな人たちではないだろうか。
 それはさておき、突然子どもたちが通っている学校に居丈高な連中が街宣車で押し寄せ、理不尽な誹謗中傷、罵詈雑言の類いを投げつけ、暴力的な振る舞いを見せつけ、徒党を組んで威圧的な示威行為をしたとすれば、私たちはどうすればいいのだろうか。マジョリティ(多数派)の側にいれば、自分の問題ではないから同情以上のものを引き出すことはできないかもしれない。しかし、少し想像力を働かせれば、自分が異国で少数派として罵られることがどんなに楽しくないことかはわかるだろう。それがわからないのならば、本書を読むといい。
 二〇〇九年十二月四日午後、突如「在日特権を許さない市民の会(在特会)」と「主権回復を目指す会(主権会)」という人たちが京都朝鮮第一初級学校を襲撃した。本書はこの京都朝鮮学校襲撃事件を徹底的に取材したルポルタージュだ。
 この国のマイノリティとして、この国のマジョリティとたたかうことの難しさが描かれていく。マイノリティであるということは警察や行政が決して味方にはなってくれないことを意味する。彼らは中立公正という立場に逃げ込み、弱者を守るというスタンスには決して立たない。
 裁判の結果にかかわらず着実にヘイトクライムを遂行した連中の要求は具体的にかなっていくのである。ヘイトスピーチは表現の自由の名のもとに黙認され、それまで使用していた公園からは排除されるようになり、関係者は疲れ果て、ついに学校は閉鎖・移転という結末を迎えたのである。マイノリティにとっては法律も権利も言動も何一つとっても平等ではないことがわかってくるのである。
 その意味で、是非ともマイノリティの立場で問題を受け止めることの意味を本書から酌み取って欲しい。

☆☆☆☆ この国が人間らしい生活をすることができる国ならば、きっと子どもたちはこの国を好きになるだろう。しかし、人間が人間を侮蔑し、罵り、人間の尊厳はおろか存在すら否定するような暴言を公然と叩きつけるということが行われ、そのような行為が黙認されるとすれば、それはあまりに悲しいことであるし、そのようなことがまかり通る国を好きになることなどできないだろう。その意味ではこの事件を引き起こした人たちはこの国の恥だと言ってもいい。しかし、彼らはこの国の法律に守られて彼らは今日もヘイトスピーチを吐き続けているのである。

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2013年09月03日

辻太一朗『なぜ日本の大学生は、世界でいちばん勉強しないのか?』東洋経済新報社 一五〇〇円+税

 すごいタイトルの本だ。PISAの学力がどうだとか、全国学力調査がどうだとか言っている人たちのまぬけさがおかしい。
 昔から日本の大学生というのは勉強しないと言われてきた。レジャーランドだと笑われてきたこともあった。しかし、それは誰もが大学に行くわけではない時代に大学に行くことのできた連中に対するいささかやっかみをふくんだ批判であったのかもしれない。ところが現在では大学に入りたくもない若者まで、大学に入ってくる。そうすると、大学にはそれまでの大学の伝統的な理屈は通らなくなってくる。どっとあふれてくるのは初等中等教育の時代に培った物の考え方であり、学び方であり、生き方なのだ。そしてそういう暮らしの知恵が大学での勉強のしかたになって現れてくるというものでないかい、ってか。
 この本の問題意識は海外の大学生は優秀であり、日本の大学生は見劣りがするということであり、かつ日本の大学生は小学生よりも勉強していないということのようだ。
 なにゆえに日本の大学生は勉強しないのか。それは本書によれば負のスパイラルなるものに支配されているからだというのだ。その負のスパイラルというのは就職試験を受ける学生の態度となってあらわれている。つまり、左のようなものだ。

企業 学生は勉強してないからバイトやサークルの話を聞くしかない
学生 就活で勉強のことは訊かれないから、バイトやサークルの話をする。
大学 しっかり教育しようとすると学生は離れていく。だから適当にやる。
学生 教員にやる気がないから、バイトやサークルに精を出す。
企業 学生は勉強してないからバイトやサークルの話を聞くしかない。
学生 就活で・・・・

 こんな具合にどんどん学生は勉強しない方に、まわっていく。現在の大学の実状ではこのスパイラルから抜けられない、というのだ。著者はこの負のスパイラルから抜け出すにはこの負のスパイラルを正のスパイラルに変えることだと言い、正のスパイラルに転換する方法を提言しているんだ。つまりは「考える力」を育成する授業を大学教育でやるように、ということだ。
 だけどさ、そんなふうに大学が努力して授業改革をしたとしてもさ、学生の学びの価値観が変わらなければやっぱり負のスパイラルは変わらないんだと思うんだな。それってさ、試験の点数にしか価値の見出せないような教育を取り巻くしくみが問題なんだろうと思うよ。
 このスパイラルはやはり「学生は勉強してるから……」で始まるのがいい。正のスパイラルだな。ならば小学校、中学校のときから学ぶことの楽しさを伝えておくべきだし、高校が潰してはならない。受験産業の言い分に振り回されるのもおかしい。「子どもたちは勉強に興味があって…」という、そういう教育の基礎があって始めて成立することだ。大学ではもう遅いのかもしれない。なにしろ、大学に入るや、もう勉強しない方向に向かっているんだから。


☆☆☆ とか言ってもさ、教師の学習意欲がいちばん問題なんだけどね。この読者はだいじょうぶだとは思うけど。
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桑田真澄・平田竹男『野球を学問する』新潮社 一三〇〇円+税

 部活でがんばっているセンセイって多いよね。もしかしたらこれを読んでいる中にもいると思うのね。そして、部活を通して生徒たちを成長させるのだと意気込んでいる人もいるよね。中にはさ、〈部活命〉なんちゃって、二日酔いで年休とっても、部活の指導には出てくるっていう〈熱血!〉教師も見たことがあるなあ。それとさあ、部活でビシビシ鍛えれば根性っちゅうか、そういう精神的にもええことになるやろし、と信念を持って部活に取り組んでいるセンセイも多いんちゃなかろうか。
 確かに部活で鍛えれば忍耐力とか協調性とかいろんな力がつくような気がするし、それは教科教育では得られない力みたいに思うこともあるよね。チームプレイで得られる友情はなにものにも替えられない青春の証みたいなものだし、先輩と後輩の年齢を超えた交流なんかも学級活動では得られない大きな財産なのかもしれない。つらい練習に耐えて、みんなの努力をあわせて勝ち取った優勝の記憶はきっといつまでも心の支えになると思うのよね。
 その典型的なのが、甲子園だろうね。あそこには青春のドラマがぎっしり詰まっておるわ。
 だから、『学習指導要領』でも、部活動は「学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり…」とその必要性を盛り込むようになったのはそういう教育効果を考えてのことのようね。
 ところがさ、あたいの友だちで自分の子どもには絶対に部活はさせない、なんて息巻いているのがいてね。
「なんで好かんと?」
て、訊いたら、
「だって、あんなもん、青春の汚点よ。二度と思い出したくないトラウマなんじゃ」
て、ぬかしようとよ。
 それで、ちょいと追求したらさ、そいつね、運動神経があんまりいい方じゃなくてね、へたくそなものだから、いつも友だちにはバカにされるし、先輩はパシリに使うし、先生は「根性が足らん」ちゅうてへとへとになるまで練習させるもんだから、おかげで膝を痛めて、いまでも古傷が痛むんだと。ついでにその傷は心の傷だとも言ってたのね。
 そりゃ、部活でそこそこやれた人間にとってあれは楽しい想い出だったけど、いやな思いを溜め込んでたやつもいたんだね。あたいの学校はどっちかちゅうと仲良くやれればいいとかいって、一回戦で負けたけど先生がコーラを驕ってくれた。でも優勝候補の学校が準決勝まで進んだのに、そこで負けたゆうて先生にビンタくらわされていたのを見たときは、さすがにひいたわ。
 で、部活(文化系の部活もあるし)ていうか学校スポーツの役割とか意味について考えてみたくなったのね。もちろんその代表は甲子園だし、そのまた代表はプロ野球の成功者だよね。ということで、この本なのだ。
 桑田真澄という名前は知っていますよね。そう、読売ジャイアンツのエースだった人です。その桑田氏がなぜか早稲田大学の大学院に入って修士論文を書いたのだそうで、この本は桑田氏の修士論文をもとに指導教員の平田先生と語り合った本なのですよ。野球を学問しちゃえば、どうやって子どもたちを鍛えて県大会で優勝させられるかって思っちゃうもんね。まずは桑田氏は「野球道」を研究したいと考えたようなのね。
 なぜなら「野球道」といった美名のもとで桑田氏自身、体罰やいじめを受け、長時間の練習に耐えてきた少年時代があり、そこに疑問を持っていたということが問題意識の原点になるのね。そうそう、研究というのはそういう課題意識の立て方がだいじ、ってどっかの大学のセンセイが言ってたような。
 そうしたら飛(とび)田(た)穂(すい)洲(しゆう)という人物に出会ったのね。出会ったといっても研究上で出会ったのだ。飛田穂洲は明治一九(一八八六)年生まれで昭和四〇(一九六五)年に亡くなった人だから昭和四三(一九六八)年生まれの桑田氏とはすれちがってもいない。
 この飛田穂洲という人は早稲田の初代監督を務めた人で、彼がベースボールをあたかも武道のように「野球道」と呼んだそうなのです。そして学生野球は教育の一環である、という姿勢で、試合よりも練習を重視したんだそうな。ほほう、そういうことが書いてあるんですよ、この本には。つまり部活の指導者には必読の書というわけですね。
 それはなぜかというと、戦時中に野球は「敵性スポーツ」として軍部に弾圧された。それを飛田は野球を「野球道」として位置づけることでその精神は死の練習によって培われ、母校愛は国家愛であり、一致団結によって敵と戦い、そこには犠牲的精神があって、まさに国難に準ずる軍隊のようなスポーツだと主張することで軍部から野球を護ったんですと。まあ、つまり、野球というスポーツを戦争に協力するものしてゆがめたということなのね。それが今の部活の猛練習につながっているとすれば、そして部活で教育をしようと考えるのならば、それは戦争中と同じ発想だというわけよ。
 それで、桑田氏は新しい「野球道」を作ろうとするわけで、そのあたりは読んでみてのお楽しみ。

★★★★ スポーツ部活の指導者を自称する人には必読ね。それと 部活のリーダーになる中学生、高校生だったら読んだ方がいいわね。とっても読みやすい本だから。
posted by ウィンズ at 19:19| 福岡 ☔| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする

ジェームズ・クラベル著 青島幸男訳『23分間の奇跡』集英社文庫

 教師だったら、「自分の思いを子どもに伝えたい」とか、「子どもに正しい生き方を伝えたい」とか、「人権を大切にする子どもを育てたい」とか、「平和を愛する子どもを育てたい」とか、「立派な市民に育てたい」とか、思うよね。あたいも子どもを教育するってなんか自分の理想とする価値観に子どもを近づけることだと思ってたよね。ていうか、今でも思っているのかもしんない。
 なんせ、センセイのいうことを聞かない生徒なんて、どっちかというと苦手だし、まあ、本音を言えば嫌いかな。だけどセンセイのいうことを聞かない生徒は山ほどいるし、センセイのいうことを聞かずに転落した人生を送っている子や、苦労している子や、ネット右翼になっちまった子もいる。あ~あ、なんとかならないかなあ、と思う今日この頃なのよね。
 そしたら「こんな本があるよ」って、お友だちが教えてくれた。それがこれ。単行本で出たのが一九八三年、集英社文庫になったのが一九八八年だから、もう三〇年近く前に出た本なんだわ。しかも、青島幸男訳っていうのがいけてるでしょ。
 それでね、どんな話かっていうと、ジョニーという少年がいる教室に若くてきれいな先生がやってくるところから始まる。それまでの先生は教室から出され、この若い先生がジョニーたちの新しい先生になったのだ。この舞台となった学校がどこの国なのか、いつのことなのか、そんなことは何にも書いていない。ただ、新しい先生は戦争が終わって、「海の向こうの見知らぬ国からきた」人たちの一人だということだ。
 たぶん、ジョニーの国は戦争のあと外国の支配下に入ったのだろうということだけが推測できる。かつての朝鮮かもしれないし、フランスかもしれないし、戦後の日本かもしれない。だから新しい先生にジョニーたちはちょっとした不安と反発する気持ちを持っているわけだ。
 そして新しい先生の授業が始まるの。この授業がすごい。不安と反発に満ちている子どもたちの気持ちをほぐし、受けとめていく。自由を与え、権利を与えていく。そして最後まで反感を持っていたジョニーまでが、ついに
「これからは、先生のいうことをよくきいて、いっしょうけんめいべんきょうするぞ」
 と「けっしんした」のだ。
 そして新しい先生が子どもたちすべての気持ちをつかみ、「りっぱな市民として育っていくだろう」と確信するまでの時間が23分だったという、そういう23分間の間に占領された国の子どもたちが先生を信奉してしまうという奇跡のお話なのだ。
 すばらしい授業は生徒の心を掴み、子どもたちを変えていく。そのことはすばらしいことなのかもしれない。しかし、それは言い方を変えれば洗脳なのかもしれない。ともかくこの若い先生のワザには脱帽すると同時にちょっと怖くなってしまいましたとさ。


☆☆☆☆ いい授業をしたいと願っている人、子どもたちに自分の思いを伝えたくてたまらない人なんかにおすすめ。
 学級崩壊で疲れ果てている人、学校が荒れて絶望している人、生徒が言うことを聞かなくて困っている人なんかにもおすすめ。
 でも、なんてったって、平和教育や人権・同和教育で子どもを変えたいと思っている人には絶対におすすめ。そして子どもを自由に操りたい人には必読の書だね。 
posted by ウィンズ at 19:17| 福岡 ☔| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする