2009年10月01日

多田富雄『わたしのリハビリ闘争』青土社 一二〇〇円+税

 今、君は元気かな。そして、いつまで元気かな。今は自分の健康に自信を持っているのかもしれないが、いつ何が起きるのかわからないのが人生というものだ。突然病気や怪我に襲われて、障害を負ってしまうということは誰にでも起こりうることなのだな。
 本書の著者の多田富雄氏は免疫学の世界的権威で、一九七一年に国際免疫学会で報告した「サプレッサーT細胞」の発見はノーベル賞級の研究と注目されたのだそうだ(本書の腰巻にある著者紹介による)。この偉大な免疫学者があろうことか二〇〇一年五月に旅先で脳梗塞の発作に襲われたのだ。まだまだ若い六十七歳だった。脳梗塞というのは「脳血栓または脳塞栓の結果、脳血管の一部が閉塞し、その支配域の脳実質が壊死・軟化に至る陥る疾患」(『広辞苑』第五版)なんだそうな。まあ、脳のどっかが詰まる病気だな。ご承知のように身体の麻痺をはじめいろいろな後遺症をもたらす病気である。突然、襲って来るので、こいつに当たったらそれまで健康自慢だった人も障害者とならざるを得ないのだ。嗚呼運命の過酷なることよ。神の意思の気まぐれなることよ。
 ともかく、不幸なことに多田氏は脳梗塞に当たってしまった。そして、右半身麻痺、重度の嚥下障害(呑み込みにくい)及び構音障害(喋りにくい)を後遺症として引き受けてしまったのだ。この状態になったらどうすればいいのか。そう、リハビリをするしかない。リハビリによって身体能力の回復をはかるのだ。リハビリというのはリハビリなんだから、即効果があるわけではない。麻痺が完全にとれるかというとそんなに簡単ではない。気長に続けることが何よりだし、これで完治するほど脳梗塞の障害は甘いものではない。少なくともリハビリを続けることで症状の悪化は防げるのだが、悪化を防ぐだけでも高齢者になればたいへんなことなのだ。
 多田氏も理学療法士と言語聴覚士について毎週二回のリハビリを続けたそうな。ところが、二〇〇六年三月(発症から五年経ってる)診療報酬の改定が行われて公的医療保険で受けられるリハビリは発症から九〇~一八〇日までしか受けられないという上限を設けたのである。信じられないだろう。五年経ったって完治しないものを一八〇日までしか認めないというのだ。少なくともリハビリを受けなくては生きていくことがたいへんになるにもかかわらずだ。改善の見込みのない慢性疾患にはリハビリは認めないというのが意味のわからないところだ。慢性疾患というのはなかなか治らないということだ。そういう病気にかかったら治療はやめてしまえ、というのが、この診療報酬改定の意味するところなのだ。やめたらどうなるか。多田氏は三週間ほどリハビリを休んだら、五十メートルばかり歩けたのが、立つのも難しくなったというのである。つまり、衰えて寝たきりになり、死期を早めることになるのである。そうして亡くなったのが社会学者で歌人の鶴見和子さんだ。鶴見和子さんは一九九五年に脳出血で左半身麻痺となったが、十年以上リハビリを続けながら執筆活動をしてきた。それはそれは驚くべき知的エネルギーだ。その彼女がリハビリを打ち切られるやたちどころに寝たきりとなり、その年の夏に亡くなったのだ。彼女を死に至らしめたのは誰か。診療報酬改定に他ならない。公害研究の第一人者宇井純氏もリハビリを打ち切られてまもなく亡くなった。彼らは著名人であるからその死を惜しむ声が少なくともこのように活字で残る。しかし、膨大な数の患者がリハビリを受けられなくなって亡くなっていることはまちがいない。
 どうしてこういうことが起きたのか。医療費を減らしたい一心で無駄なものは削減しようという小泉路線の中で起きたことなのだ。それを新自由主義という。新自由主義者によれば長引くリハビリは無駄なものであり、そのような病を抱えている人間は無駄な人間なのだ。後期高齢者なる老人も無駄な人々であり、障害者、年金受給者など彼らにとって足手まといなものはすべて無駄な人間であり、それらの人間はできれば消えて欲しいというのが小泉後の日本の一連の政策なのである。そして、その意味するところは合法的殺人なのである。
 多田氏は不自由な身体でパソコンに向かい、この非道なる政策を告発し続けてきている。本書はそうした多田氏の闘いのメッセージが詰まっている。繰り返すが、これは一部の運の悪い人の話ではない。明日は我が身の話なのである。そして命というまさに人権問題がここにはあるのである。
 鶴見和子氏は歌人でもあった。

ねたきりの予兆なるかなベッドよりおきあがることのできずなりたり   鶴見和子

☆☆☆☆ 基本的人権の保障された国、日本。だからこの国がそこそこ好きだったのに、小泉の頃からこの国は人間に冷たい国家へとどんどん変わっていってる。一方で、それでもこの国を愛するようにという教育だけは推し進められている。

此の国の弱き病者は国の為かそけきいのちはよすてたまへ   休呆

国民の命の値段に差がつきぬ二〇〇六年春は悲しも



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2009年09月30日

『宗像地区「同和」教育研究集会講演集 むなかたに人権の輪を◎―21世紀の「同和」教育を拓く―』宗像地区「同和」教育研究集会実行委員会

 昨年、津屋崎町で第11回宗像地区「同和」教育研究集会というのがあって、県同教の弓野会長が御講演遊ばされるってんで、行ってみたのよ。そうしたら掘り出し物を見つけちゃった。これまでこの研究集会では毎回講師を招待して記念講演を行ってきたらしいのだ。それで第二回から第十回までの記念講演を採録したのが本書なのだ。
 その講師陣がすごい。岡部健、加来宣幸、田中弘、野口良子、小西幸恵、久屋孝夫、野上早苗、川向秀武、林力といった面々なのだ。
 岡部さんは知る人ぞ知るカリスマ教師、すごい「同和」教育の実践がこともなげに語られる。実践に行き詰まった人には救われるような講演だ。加来さんは昨年「巡礼いのちの旅」三部作を出した「同和」教育の先達だ。講演当時は太宰府市民図書館の館長さんだったのかな、それで演題は『児童文学のおもしろさを子どもたちに』というふうになっている。しかし、話はご自身が実践してきた「同和」教育のことばっか。ていうかその中で加来さんが出会ってきた子どもたちの話なんだな。それがずずずずっと引き込まれる話なんだな。こういう先輩が福岡の「同和」教育をつくってきたんだよねって感動しちゃった。
 下見隣保館の田中さんは『高校・大学を卒業した人たちの意識実態から見た教育課題』という演題で話している。とはいえやっぱり田中さんの「同和」教育の体験がばりばり語られている。野口良子さんは大阪からお招きした講師だ。大阪の中学校の先生で、夜間中学の実践をしている。そういう視座から差別を見抜くということの実践がすっげえ説得力で語られている。うんうん。
 小西幸恵さんは児童センターで出会った子どもたちを通じてどうやってセルフエスティームみたいなものを子どもたちが掴んでいったのかをぐいぐい引っ張るように語ってくれている。講演の中で「その日帰って、また、清則にこんなんだったんだという話をした」ってくだりがあるのね。清則って誰なの?って一瞬思ったんだけど、ま、いいか。『男は熱いうちにうて』と題して語った久屋さんは西南大のセンセやけど男の側からジェンダーフリーを主張する理論家かつ実践家だ。男はチン労働、女は無チン労働なんて品のないギャグを飛ばしつつ性差別を批判していく話は魅力的だ。
 『私の伝えたい思い』を語った野上さんは福岡市の被差別部落の出身で、ねその生い立ちを語る中から差別の実態と自らの闘いを語ってくれている。リアリティがちがうね。そして川向さんはこの時までこの集会の実行委員長を務めていて、ちょうど定年退官を控えていたのでまさに「記念講演」をしていただいたようだ。川向さんの半生は聴くに値するよ。何しろ中卒からはじまって定時制高校、大学の夜間部という経歴、部落問題との出会いと闘いが次々と語られる。川向ファンは必読だね。で、林さん。これもまたビッグ・ネームですね。初代県同教会長であることはともかく、演題は『「らい」者の息子として』だ。そう、林さんのお父上がハンセン病であったということで、「同和」教育界の重鎮であること以上にそうした経験からハンセン病差別を告発する当事者としての主張は迫力がある。
 おおっと、つい概要をぜんぶ語ってしまったが、くわしくは読まないとわからないだろう。ぜひとも手にとって読んでみるべきだ。何しろこれだけのビッグネームの講演がずらりと並んで一冊にまとめられているすごい一冊なのだ。こんな凄いものが宗像の一部の人間が独占してるって悔しくない?

★★★★ 第一回が無いのでどうしたんだろうと実行委員の人に尋ねたらわたなべひろやすさんと故中村正夫さんの二人の講演があったと伝えられているが、記録がないということだった。それにしてもこれだけの執筆者をそろえるのはむずかしい。それを一度に読めるのだから、これはお得…、しかも格安。あっ、値段を書いてなかったね。これは市販本じゃないので、本屋では売ってない。でもえらい安い実費でわけてくれた。


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2009年09月29日

岡田憲治『はじめてのデモクラシー講義』柏書房 一六〇〇円+税

 みなさんお久しぶりです。お久しぶりとと言ったってこの書評、誰が書いているのだかわからないのだから二回か三回すっ飛ばしたからって「お久しぶり」なんてこと言う必要はないのだけれど…。
 ところで大学で講義したことってありますぅ?あそこにはね最近キミョーな連中がうろうろしているわけですよ。それはいまどきの学生なのだ。「そんなもん、知らねぇよ」なんて言わないでくださいな。いまどきの学生というのはついこのあいだ小学校とか、中学校を出た人ですよ。高校で目的もなく受験勉強に堪えてた奴らですよ。先生方、あなたの教え子だった連中ですよ。それがどんな奴らかって?
 この本の冒頭にはまずそういう人たちの日常が書いてある。思わず吹き出したね。この本の著者の岡田憲治さんは専修大学の助教授なのだそうだ。彼の描くところによるといまどきの学生というのは「やっぱ~したほうがいいんすかぁ」というフレーズをしばしば使ってモノを訊いてくるのだそうです。
 「あれって、やっぱ読んだほうがいいんすかぁ?」
 「自分の意見とかぁ、やっぱ書いたほうがいいんすかぁ?」
 「デモクラシーのほうが、やっぱいいんすかぁ?」
 なんてね。
 「うんうんお覚えがある!」っていう人、いますね。で、岡田センセはいまどきの学生たちにはある種の「欲望」が年々希薄になって来ているのではないかという仮説を立てたのだ。つまりみんな何かをしたいわけでもなくて、大学とやらに来て、何百万も授業料払って、なんか意味の分からないこと勉強して、「やっぱ大学出たほうがいいんすかぁ?」なんて自問自答している連中に少々いらだちつつ、彼らに政治学者として伝えたいのに伝わらない焦りの中からこの本を書いたようなのだ。これって生徒たちが学ぼうとしたり、進路を決めかねたりしているときに「とにかくいい点取った方がいい」とか「やっぱ、高校くらいは行ったほうがいい」なんて面倒な対話抜きで教えてきたせいじゃないのかな。「欲望は抑えてとにかく今はこれをしておけ」みたいなやらせ方してなかったでしょうか。
 まっ、ともかく岡田センセとしては彼らのなかの「欲望」を突き動かして政治について語り合いたいってわけよ。
 だからこの本はすぐれてわかりやすいデモクラシー入門の講義ノートだと考えればいい。実際、内容は十二講からからなる講義ノートの形式をとっているので読みやすい。そういえば僕たちって民主主義について実はよく知らないのではないだろうか。それをデモス(demos)の歴史から説き起こして…と書くと日ごろ読書などなされない方はうんざりするだろうけれど、これがけっこうおもしろい。今、悩みの種の国を愛するということの民主主義的な意味だとか、peopleと国民の違いだとか、「公共」についての誤った理解だとか、目から鱗がとれる知的な話題が役に立つ(自分の欲望の問題として考えられる)知識として講ぜられているのだからありがたい。
 学校でコーミンカとかシャカイカなんかの時間に知りもしないミンシュシュギについて覚えさせながら自分では選挙にも行かないセンセイたちにはあらためてきちんと民主主義を学ぶいいテキストだと思う。そうしたら明日から自分のやっている授業とやらが生徒たちに民主主義を伝えているかどうかがわかるだろう。
 尤も、日々民主主義の本質を伝えようとして伝わらない(教室でも職員室でも)教師にとってはすっごい理論武装の武器だ。今夜はみんなで政治学をしよう!


★★★★ 民主主義を語れない人間に同和教育はできないし、人権教育はもってのほかだ。この本はすべての(管理職を含めた)教師の研修テキストになるし、中学生でもわかる内容なので社会科や公民科の副読本にできる(もちろんセンセイの解説は必要だけど)。やっぱ読んだほうがいいんじゃないすかぁ。


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坪倉優介『ぼくらはみんな生きている』幻冬社 一四〇〇円+税

 人権教育の中でセルフ・エスティームとか何とか言って子どもたちに「自信を持て」だの「誇りを持て」だの自信や誇りを押しつけていやしないだろうか。アルジャーノンもそうだったけど自分が自分であることを知ることから人間としての誇りのようなものは確立されていくのだろう。「人権読本」の類が例えばゴミ収集の仕事を立派な仕事だ、誇りある仕事だ、と持ち上げてもそう思っていない当事者にとってはいらん押し付けでしかない。それは第三者の価値観を当事者に押しつけていくだけなのだろう。そういうレッテル張りがあったことを知ってアルジャーノンは傷ついたのかもしれない。しかし、アルジャーノンは自分自身が何者であり、また何者であったのかを高い知能を獲得するにしたがい自己の中に確立していった。そうした自分史の同一化というものはセルフ・エスティームの基本なのだろうと思う。
 しかし、そうした自分の人生の記憶をすべて失った場合はどうなのだろうか。記憶を失うということは文字も人間としての文化も失うことなのだという(それは本書を読めばわかる)。それは自分自身を失うことなのだと言ってもいい。
 本書は大学一年の時に突然すべての記憶を無くした青年が新たな自分自身を確立していく実話だ。著者は大阪芸術大学一年の時に交通事故で生死の境を彷徨う重傷を負った。そして目が覚めたらすべての記憶を失っていたのだ。われわれには想像がつかないが、記憶をすべて失うということはどうもパソコンのデータを全部消してしまったのに等しいようだ(辞書機能まで)。自分自身が何者であるかはもちろん、モノには名前があるということ、食べるということ、寝るということ、そんなことがすべて失われてしまうのだ。そういうことをひとつひとつ取り戻す(いや、新たに獲得していく!)プロセスが実にみごとに描かれている。描いたのは言葉を獲得してからなのだからそのときはもっと言語化されない思考をしていたのだろうとは思うのだけど、その描写は説得的である。アルジャーノンとはちがうけれど、似ていなくもない。つまり、新しい人格が形成されていく中で人間の尊厳とは何か、ということが突きつけられるのだ。


★★★★自尊感情は押しつけるものでなく獲得するものなのだ。


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