2009年10月01日

『ジェンダーセンシティブからジェンダーフリーへ―ジェンダーに敏感な体験学習―』ジェンダーに敏感な学習

 総合的な学習は「生きる力」をはぐくむのでしょうけど、人間が生きていくには性の問題を欠かすわけにはいきませんよね。そうすると性の問題も総合的な学習の柱になるものじゃないかしら。
 ところで、性教育を人権教育として捉え子どもたちに語るとき、私たちはやさしさとか思いやりなんかでごまかして来たのではないでしょうか。その前提には女と男という二つの性の関係のみが私たちの頭の中にあったんじゃないかな。かよわい女と強い男、受容的な女と攻撃的な男、そんな図式の中で性を考え、そんな図式の上で男女平等を語ってきたのではないでしょうか。そんな疑問をちょこちょこ感じてはいたのだけれど女と男を無理矢理わけて考えてきたことじたいがまちがっていたのかもしれないんですね。そんな女と男の色分けをジェンダーっていうことは知ってるよね。そのジェンダーについて鈍感だとどうしても口先だけの性教育だとか男女平等教育とかいうところになっちゃうみたいなのね。
 そしたら総合的な学習で扱うにしてもどうやっていいか困っちゃうなって思ってたら、いい本を見つけちゃった。ジェンダーを考えるにはまずはジェンダーに敏感になることですね。そうしたら文字通りジェンダーに敏感な学習を考える会というのがあって、「総合的な学習に生かせるジェンダーに敏感な体験学習」とやらいうのをやっているのだそうです。それで、この「考える会」のメンバーが知恵と経験をあわせて編み出した「現場で活用できる体験学習・参加学習のプログラムの事例を集積」したのが本書なんです。
 ジェンダーという言葉はかなり知られるようになったし、私も知っているつもりだったんですけど、それは単に女性差別を説明するための用語みたいに理解してたみたい。そんな感じでこの本を手にしたら「エ~!」ってゆーか、かなり目からウロコでした。だってよく私たちが使うジェンダーフリーって言葉、何語かと思ったら日本でできた和製英語なんだって。つまり定義自体があいまいなのね。だからいろいろな意味が含まれていて「そもそも「ジェンダーフリー」とは「男女平等に」扱うことか、それとも「男女関係なく」扱うことか?「ジェンダーフリー」と「セックス」や「セクシュアリティ」の「フリー」とは関係があるのかないのか?わかっているようでわかっていない」(118頁)というようにけっこう複雑なんだって。
 それに私たちってジェンダーをどうこう考えるときに女か男かしか考えていないみたいけど、TSとTG(何だろうかねぇ)に異性愛と同性愛を加えると性をめぐる人間関係そのものが複雑になってしまうんだね。そんなのを全部切り捨てていたことを考えれば重大な人権問題を見逃していたのかもしんない。そんなことに気づくだけで目からウロコがいっぱいなのかな。
 そんな理論的背景があるから載っているワークショップや実践例なんかもすっごくおもしろいよ。目からウロコがいっぱい入っているね。

  ★★★★
 あんたも目のウロコ剥がしてみない?ホントの自尊感情もジェンダーと関わっているんだって。人権教育の根っこがひとつここにあるかもネ。


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『私が私らしくあるために』 忍足亜希子 大和出版 一二〇〇円+税

 要はタレント本なのだ。映画「アイ・ラヴ・ユー」でデビューした女優忍足亜希子のエッセイである。ご承知の方は多いかもしれないけど、この「アイ・ラヴ・ユー」という映画はろう者が主人公で、ろう者の役はろう者が演じる、というポリシーでつくられた作品だ。かつてテレビでろう者を主人公にしたラヴ・ストリーが人気を博したことがある。僕によく似た豊川悦史が主役で、常磐貴子といちゃつくやつで、ドリカムの主題歌が好きだった(そんなことはどうでもいいけど)。しかし、聴者がろう者を演じるというのは基本的に聴者の視点から描かれるのでろう者のイメージが固定化されるようなのだ。そこに聴者からろう者へのあわれみのまなざしが描かれてしまうのだと言う。忍足亜希子ははじめてろう者であることで女優となった人だ。
 短いエッセイ集だから簡単に読めるし、そんなに感動だってしない。障害者が書いたから感動すべき内容でなければならないというのは偏見だ、というのが忍足亜希子の聴者に対する大きなメッセージのひとつなのだ。ごくごくあたりまえのバリアフリー(バリアフリーという言葉じたい忍足は否定的だ)がろうである忍足は語っているに過ぎない。その意味で本書はその題名が象徴しているように忍足自身のアイデンティティであり、セルフイメージを表現しているのだと思う。そして「障害」者と向き合うときかまえてしまう「健常」者のまなざしについて優しく批判する。本書を通じて聴者であり、「健常」者である人間はそのまなざしをもって「障害」者をろう者を差別しているのだろう。
 本書の中でいくつか彼女のライフ・ヒストリーがかいま見られるが、それをもっと知りたければ忍足亜希子『女優志願』(ひくまの出版 一三〇〇円+税)がいい。忍足亜希子のセルフイメージ獲得の全過程がわかる。忍足亜希子が味わってきた苦悩と喜び、悔しさと幸福が叙述されている。例えば屈辱的な雇用条件で採用されたOL時代に出勤拒否になりそうになった苦悩であるとか、バリアのせいにしたかった失恋の体験とか、ピアノを習ったこととか、短大に入って講義を聴く苦心談とか。僕たちは忍足亜希子を通じて「ろう」という生き方を知り、憐れみではなく一つの生き方としての「障害」を知るであろう。

★★★ 僕は忍足亜希子が好きだ。それでいいじゃないか。


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宮崎哲弥編著『人権を疑え!』洋泉社 六八〇円+税(二〇〇〇年十月刊)

 西日本屈指!の人権教育誌『ウィンズ』にこんなふざけた題名の本を採り上げるとしたら、けちょんけちょんに罵倒してポイッしちゃうような書き方を期待されているんだろうね。
 しかし、あたいは敢えて★をいっぱいつけてやる。な~んでか。それはこの本が「人権論の再構成」を社会評論レヴェルで試みようとした(らしい)からでっす(宮崎哲弥「はじめに」8頁)。この本(新書だよ)を読んでいて、昨年の春に福岡県部落解放・人権研究所主催の横田耕一センセの講演を聴いたのを思い出したんだけど~。横田センセも人権という言葉は自明ではないし、国によっても理解はちがうし、これが人権だという定義も無いというようなことを言っていたんですよね、確か…。
 そういう言い方ってさ、人権は絶対的普遍的真理だって信じ込んでいる人には腹も立つことだろうけど、人権ってやっぱりひとつの価値観なんだって思ったほうがいいよね。もっと正確に言えば西洋近代の価値観であって、東洋的な人権やアジア的ないしはアフリカ的人権も人権のひとつの正しい見方としてあるんじゃないかなってこと。
 そんなこと思いながらこの本を読んでみるとけっこうおもしろいんだな。福岡にいると人権問題っていうと部落差別とか、民族差別とか、障害者差別というのがすぐに出てくるけど、この本のなかでは全然出てこない。あるとすれば「問題がないとはいえない。セクハラもあるだろう。在日韓国人・朝鮮人、同和の差別もあるだろう」(192頁)というところくらいなのね。つまり、こういう差別はあって問題だけど、その話はさておきっていうみたいに全然ちがう話をしているようなのね。で、何のことがいちばん書かれているかっていうと「加害者の人権と被害者の人権」のことにほとんどの執筆者が言及しているのよ。だからそっちがこの人たちの問題みたい。つまり、ここに書いている人たちの多くはいわゆる「人権派弁護士」を標的にしているみたいなのね。つまり、法律を盾に人権を語る人たちよね。
 例えばこの本の中で高山文彦っていう人が「実名報道こそが加害者の人権を認め更正を促す行為である」ちゅう文章を書いてるのね。彼は堺通り魔事件というのを取材して〈19歳と半年の少年〉だった犯人をあろうことか『新潮45』という雑誌に実名で書いちゃったちゅうことなのね。新潮社っていうのはみんな知っているように『フォーカス』やら『週刊新潮』やらいうのも出してて、人権に関してはいつも挑発的な出版社ね。だから、少年の実名をあげた文章をうれしそうに載せたんだと思う。
 高山って人は現行少年法に抵触することを承知で書いたワケなんだけど(おんなじことは永山則夫のときに『朝日新聞』だってやったよね)、彼の言い分はそのほうが少年(すぐ成人になったけど)の(高山的)「人権」の尊重だっていうワケ(詳しくは自分で読んでね)。それは一つの主義だとは思うけど、とりあえず彼は犯人から名誉毀損で告訴されたのね。そこまではよくあることとして、実はそこに弁護士が六十八人(民事は一〇人)もついたんだって。すごいよね。ところが、訴訟の結果得られた賠償金は被害者への賠償資金に充てるか、薬物乱用撲滅のNGOに寄付するとか弁護団が声明を出したというのだから、少し変だなって思わない?ぜんぜん筋違いだと思うの、あたしは。そういう経緯を示されるとこの訴訟って何だろう?って思うのよ。名誉毀損されて訴えてんだから、賠償金は黙ってもらえばいいじゃん。被害者への賠償とは別問題で、それはそれで示談でも裁判でもすればいいじゃん、ねぇ。別の裁判を起こして自分の支払うべき賠償金を肩代わりさせるってやっぱりこういう人たちってホントの「人権主義者」じゃないみたい。
 それでさ、一方で被害者の人たちはその町にいられなくなって引っ越していったりしてるらしいのよね。だからここで言われる「人権派弁護士」っていうのはいったい誰を救おうとしているのかがあたしにはわかんない。加害者でもないし、被害者でもない。著者の高山被告!は「現行少年法を救済することが至上命題」じゃないかって言うの。つまり「政治的」だってね。そんなワケで、あたしもこの「人権派弁護士」たちが必ずしも部落差別や「同和」教育に関心を持っているとか、傷ついた人間の心の痛みっちゅうものにマジに共感しているかはギモンにかんじちゃうのよね。
 もっとも編者の宮崎哲弥は「人権論の再構成―『被害者の人権』を中心に考え直す」という章で「人権派弁護士」なんていうのはおかしな言い方で弁護士である以上は「人権派」であるのは当たり前だし、逆に「人権派弁護士」という言い方が被疑者や被告人の人権を必死に守ろうとする弁護士を揶揄したものならそういうことをいう奴は「近代法の原則をいささかも解さぬ斉東野人というべき」だって「右派」の発想をけなしているんだ。つまり、本書の中でも「人権」に対しての見方はずいぶん食い違っているみたい。っていうか、ちがうのを前提に企画したということらしい。それだけ「反人権派」を標榜する人たちの「人権観」もちがうし、あたしたちが解放運動や「同和」教育で言ってきた「人権観」ともずれがあるみたい。
 ということで、この本に文章を並べている人たちは最初に述べたように「人権」というのは普遍的価値ではなくて一種の取り決めのようなものだという人権相対主義の立場に立っていることで共通している。編者によれば、この本は「当初の企画では、左派、人権主義者内部の『批判派』の論をも収める予定だったが、右派の『反人権論』と同舟するのを潔しとしないというわけか、すべて断られてしまった」(9頁)んだそうな。いったい誰が断ったのかな、あたしはこういうところに「左派」も積極的に参加すべきだったと思うのね。それと、みんなでこの本を読んで「人権派」ないし「人権主義者」としてきちんと意見を言うべきだと思うのよね。それと「人権」って絶対的普遍的価値なのか、それとも相対的なものなのかとか、部落解放運動や「同和」教育が言ってきて、これから言おうとしている「人権」と「人権一般教育」とは同じなのかとかいうギロンってあんまりしてないじゃない?あたしは、部落解放運動っていうのはやっぱり被差別部落の解放という日本的差別に対する闘いなんだから、政治的だろうし、その「人権論」は普遍的一般的なものではないはずだと思うのね。「同和」教育が主張する「人権」も部落差別をなくす教育だからやっぱり人権相対主義じゃないかと思うのよ。そうすると「同和」教育が人権教育一般に解消されるべきか人権教育を「同和」教育の視点で捉えるかって、ずいぶん重要な問題をこの本は提起しているみたい(ただし、この著者たちに部落差別や「同和」教育に対する見識はまったくないけど)。
 とはいえもとは「人権派」に対する反発から書いている人たちよね。全部がぜんぶ読むのに堪えられるわけじゃない。先に挙げた二人はよしとして、準編者格の呉智英(二本も本書中に文章を書いているし、「あとがき」まで書いている)の書いた「人権主義者のセカンドレイプ」は復讐権を主張したり、石原慎太郎の「三国人発言」を擁護したりと乱暴なギロンをしてはいるのだけど、「人権主義者」たちが犯罪の加害者を庇うあまりに被害者を傷つけている例を出してこれをセカンドレイプだと批判している。ある意味では軽薄な「人権主義者」に対する批判としては尤もなものではあるとあたしも思うわよ。だけど、この人ったらもう一つの自分の文章「形而上学としての人権思想」の中で「支那文学」「支那思想」という言葉を自覚的に使っているのね。これってさ、すっごいむかつく書きかたなのよね。確かに「支那」という表記は日本が近代以前の中国を尊敬していた時代から使われていた表現だから、その言葉はある時期までは差別性や侮辱性はなかったのね。その後もそのままならこの文章の中で何人かの歴史学者、文学研究者が「人権」という概念を歴史を超越して使っていると批判している。その批判は正しいかもね。しかし、この人は現代においてわざわざ「支那」という言葉を乱発することでおんなじ過ちをおかしているのね。「支那」という言葉の使用され方が歴史的だってことにこの人気がついていない。江戸時代と現代との間に戦争があったという初歩的なことを忘れている。だって、この間あたしが台湾に中華料理食べに行ったときにね、ガイドブックに台湾では「支那」とか「支那人」という言葉は絶対に使わないようにって書いてあった。なぜなら植民地時代にそういう言い方で日本人にひどい目にあった記憶があるからそういう言い方をされると台湾の人は怒るよっていうことなんだって。ちゅうことはこれはまさしくセカンドレイプよね。犯罪被害者の気持ちに共感して軽薄な「人権主義者」の言動をセカンドレイプだと非難する人が観光パンフレットレベルの歴史的セカンドレイプに気がつかないなんて、バッカみたいと思わない?
 それから山口宏という弁護士は「裁判所は人権の砦ではない」という文章を書いているけど、この人の話って短絡てきぃ…。だけど裁判所の中では人権なんてないことを具体的に説明しているのはよくわかって役に立つナ。石川さんが嵌められたワケもよくわかる。
 全体的にこの本で扱われている「人権」論争は部落差別や「同和」教育とは距離のあるところでやっているギロンだと言っていい。しかし、いつあたしたちの問題になってくるかもわかんないと思うのよね(実は勘違いしたままあたしたちの問題になっているのかもしれない)。こっちへお鉢が廻ってくる前にあたしたちの「人権」理論をきちんと作っておかなくてはならないと考えてしまう一冊ね、これは。

★★★★ で、あなたは人権絶対主義? それとも人権相対主義? そういうギロンをしておこうよ。

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『五体不満足』   乙武洋匡著 講談社 一九九八年

 「やっぱり、ラスベガスといえばカジノ。というわけで、ボクたちはビンゴの会場へと向かった。大画面いっぱいに映し出されるナンバーを確認するたびに、手に汗を握る。え、握る手がないって?まぁ、細かいことは……。」(本書二三八頁)
 あまりに売れている本だから、いまさら書評もなんだけど、この本が売れたってのはこんな具合に自分自身の障害と障害に対する差別を著者自身が相対化できているところなのね。書名の『五体不満足』だって型にはまった人権教育しかしてこなかった人には不愉快なタイトルかもしれない。アタシだって最初に見た時にはドキッとしたっけ。たしかに健常者中心につくられてきたこの社会では障害者のことはあまり配慮しない文化がまかり通ってきた。そんな社会をバリアフリーにしていくには社会が障害者の位置に寄り添っていくことも必要だけど、障害者が社会に参加していく道を開くことも必要なんだなってことを著者は言いたいみたい。
 著者の乙武クンは先天性四肢切断、つまり生まれつき手足がないという障害を抱えた人なんだけど、フツーの学校へ通ってチョットイイ高校に進んで、あの早稲田大学に入っちゃった。この本はそんな著者の「自伝」といっていいのだろうか、生まれてから二十年余のあいだに出会ったいろんな出来事を書き綴ったものだ。いまどきの若者らしい軽佻浮薄な文体で書かれているので読みやすい(意識的に軽いタッチで書いてるみたいだけど……アタシみたいに。)。これまでの障害者問題を扱ったものはけっこう深刻なトーンで書くのが多かったよね。その点でこれはすっごく意味のあることだと思う。
 ひょっとして乙武クンは障害者のチョーエリートかもしれない、と思ったらそれはまちがいなのね。エリートに障害者のエリートがいたり、健常者のエリートがいたりするわけではないから……。早稲田までいったのだから、とりあえず受験生のエリートではあったって見るべきなのかな。(アタシは落ちたけど)
 それは運もよかったし、彼自身の努力もあったでしょう。だけど乙武クンの努力は格別すごい努力だったわけではなく、フツーの受験生が早稲田に入ったのと同じ努力だったと〈本人が思っていること〉なのね。そして本書で彼が言いたいのもそのことなのだと思う。「(生き方には)関係ないのだ、障害なんて。」(あとがき)という言葉がそれを語っているんだな。
 それにしても乙武クンは運がイイ。彼の運のよさというのは両親、友人、教師……出会った人々に恵まれたことなんだと思う。っていうより、乙武クンはそうした出会いの数々を本書で紹介しようとしている。そのひとつひとつに学ぶことは多い。
 例えば小学校で出会った二人の教師、低学年と高学年のちがいはあるけど最初の高木先生は乙武クンを障害者として特別扱いしない教育を本人にもクラスの子どもたちにもしてきた。一方、五年生から担任になった岡先生は乙武クンにワープロを与え、乙武クンにしかできない仕事をさせた。どっちが正しかったかって問題じゃないよ。どっちも的確に子どもの個性を受けとめた教育だったんじゃないかな。
 そうやってひとつひとつのエピソードを拾っていくとバリアフリーっていったい何だ、って問題になっちゃう。バリアフリーっていうのは「障害者にやさしい」っていうだけじゃだめなのね。乙武クンの子どもの頃の友だちが遊ぶときに「オトちゃんルール」って特別ルールを作ったことが書いてあるけど、それは乙武クンを仲間に入れてあげるためではなくて、仲間の乙武クンと遊ぶためだったんだ。きっとそんな姿勢のとり方がバリアフリーの基本なんだろうね。それがわかっているから乙武クンはわざわざ『五体不満足』なんてタイトルにしたんでしょう。ミョーに言葉にこだわっている人のほうがバリアが堅いのカモ…。

★★★★障害者がフツーに生きるって、たいへんなのだと思うのは健常者のほうかもしれない。気軽に読んで見たらイイよ、それがバリアフリーなんだから。


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福岡賢正『隠された風景―死の現場を歩く―』南方新社 一六〇〇円+税

 部落史研究の中で差別の淵源についてケガレ意識について云々されるようになってきたことは教育現場においてはよく知られるようになってきた。しかし、そのケガレ意識とはどういうものかについては体感した人はいない。なにしろ中世におけるケガレ意識なんて議論なのだから想像を超えているのである。それは手にウンコがついてしまったというものとはまた別のケガレ観なのであろうとは推測しつつも私たちは抽象的な観念としてしかケガレ意識を理解していないのではないか。そうすると学校で部落問題学習、ないしは部落史学習を行ったとしても観念的なものにとどまらざるをえなくなるし、汚れたら手を洗えばいいという程度のところにとどまり、差別の根拠となったケガレ意識には実は手が届いていないのである。
 さらに重要なことは部落史研究でケガレ意識が提起されたことによって近世政治起源説は追いやられたことである。これにより、短絡的な行政責任からより民衆の生き方そのものにかかわる差別問題の本質を克服することに今後の人権問題の課題を置くことができるようになったのである。このことは私たちの差別意識の根幹にあるものを解明しなければならないことを意味している。つまりはケガレ意識とは何なのかを具体的に問うことである。
 ケガレ意識が死穢(しにえ)と結びついていたことはよく言われることである。具体的に私たちの暮らしにそれを求めるならば葬儀の返しに塩の小袋を付して、これを撒くことでケガレを払うというようなしきたりが最近まではあった(近年はあまり見なくなった気がするのだが)。その程度のことはあまりに迷信じみていると新しい世代の人間ならば気にすることなく廃止していく習慣でしかない。しかし、死というものを遠ざけようという意識は克服されていないと思うのである。先般JR西日本の悲惨な事故があったが、テレビで遺族の不満を流している中に「開いたままの目を閉じてやってください」とJRの職員に訴えたところ、「それは葬儀屋の仕事です」と断られたことを非難している映像があった。そこに遺体の取り扱いに関する微妙な意識が見え隠れするのを感じてしまった。
 本書は毎日新聞社西武本社版に二〇〇〇年九月から二〇〇一年十月にかけての連載記事がもとになっていて、内容は三部に分かれている。
 第一部はペットの行方と題され、ペットとなるはずの犬や猫がさまざまな理由で不要となったときになされている「処分」のルポである。ペットとなるはずの犬や猫は人間によって不必要に増やされ、その数的なバランスを崩し、結果的に「処分」という処理をされなければ実は私たちの生活そのものがなりゆかなくなる。そのペットたちの「処分」にかかわる人たちは自らを「必要悪」であると自嘲的に言う。それを著者は「善」であるとしなければならないと当事者の方々に約束をしてこの記事を書いていった。安直な動物愛護精神では解決できない生と死の矛盾、それを解きほぐすことがどうして「善」ではないのか。私たちの多くはそうした矛盾からは視線をそらし、皮相的にペットたちの生と死をながめ、そらぞらしく「いのちの尊さ」について語る。著者はそのことを鋭く糾弾しているのである。
 さらに重要なことはペットの死にかかわる人々がその仕事を隠さざるを得ないほど社会の、すなわち私たちの差別の視線にさらされているということである。それは明らかに死にまつわる差別意識であると言える。職員たちはこの差別のまなざしをつよく感じながら、時に「必要悪」と自嘲しつつもっとも社会にとって重要な職務を遂行しているのである。また、記事の中に被差別部落出身の職員の方が登場する。それは何を意味しているのか。前近代的なケガレ意識は未だに社会的差別の根となっていることを意味してはいないか。そういうことも押し隠して私たちはペットを飼い、不要になると処分にまわし、処分にかかわる人々を差別する。その構図は日本社会の差別構造そのものだと言えよう。
 ペットのいのちを奪う仕事、「それは善なのだ」著者は言いたいのだが、どれだけの人間が直接そこにまみえたとき心から共感してくれるのか。それは日本社会に突きつけられた課題なのであろう。
 第二部は肉をつくる世界のルポである。思うに私たちは肉はもとより牛や豚や鳥を殺した後に解体してそれぞれのパーツに分け、適当な大きさに処理して店頭に並んでいることは頭の中では知ってはいる。しかし、実際には箸の先にぶら下がっている肉しか眼中にはない。仙台で「牛タン発祥の地」という幟を見たことがある。正確には「牛タン焼き発祥の地」なのだろうが、「牛タン発祥の地」という表現には牛タンというものが仙台市の郊外で育てられているような錯覚に陥ってしまう。そのくらい私たちは牛タン=牛の舌と牛の死とを遠いものとして見ているのではないだろうか。
 肉(タンにしてもモツにしても)はもとい一頭ないし一羽の生き物の命を奪うところから始まる。にもかかわらず私たちはそれを人任せにし、なおかつ命を奪う現場とは遠い距離を置いているのである。仙台の牛の舌がどこで切り取られたものか詮索はせず、仙台が発祥地であるというコピーを無自覚に受け取っているのだから。
 このルポに出てくる屠畜の現場にはたしかに凄まじい光景がある。しかし、生き物の命を奪い、私たちの命の糧としていくということはそれだけ重たいものなのだ。その過程を想像することもなく、多くの人々はただ商品として並べられた食品としての肉だけを楽しんでいるのである。そしてうまい肉をほおばりながら家畜の死と向き合う現場からは眼をそむけ、現場にかかわる人たちを忌避しようとする。
 ここでもやはり被差別部落出身者が登場してくる。何故なんだ。やはり死穢がここにもとりついていると思わざるを得ない。しかも家畜の血にまみれて重労働をしているがゆえに人々は現場から目をそらしたいにちがいない。
 第三部は自殺が主題となる。生き物の死をルポした著者が今度は人間の死についてルポをした。自殺した人間の書いた数多の遺書を読んでの死の風景である。ただし、第一部、第二部とは異なって第三部は人間の自分自身のいのちへの問いである。ほとんどの自殺者がいのちを惜しまないのではなく、いのちを惜しむが故に悩み、苦しみ、躊躇う姿が描かれている。しかし、ここで示される死は第一部、第二部とは本質的に異なっている。いずれも生と死について問うてはいるのだが、第三部は自分自身の生き方の問題であり、第一部、第二部は死そのものに対する私たちのまなざしが問題になっている。水を差すようだが本書には第三部はいらなかったと思う。第三部はまた機会を改めて世に問うていい内容だと思う。第三部をおくことで私たちは「殺す」ことの意味から目をそらすことになった。自殺も一つの殺人ではある。しかし、そこには「殺す」ことに対する忌避や差別の色は薄い。あったとしてもその人間の死で歓ぶ人は少ない。それに対してペットや家畜の死は多くの人間のために行われている行為であり、かつかわいい生き物を殺す役目を忌避し、差別するという構図になっているのである。そしてそこに私は歴史が繙いてきたケガレ意識というものの根っこを見てしまったのだ。
 学校で部落史学習や同和教育に取り組むとき、人権教育として「いのち」の問題を取り扱うときまずは本書を手にとるべきであろう。
 私たちが私たちが一片の肉を口にしようとするとき、飼い犬を「かわいい」と思うとき、そして死にたいなどと思ったときに本書を思い出してみよう。そうしたら私たちが歴史の中に抱えてきた差別意識の根源を発見し、同時にいのちをたいせつにするということの意味を考えさせてくれる、そういう本である。

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