2009年10月01日

宮崎哲弥編著『人権を疑え!』洋泉社 六八〇円+税(二〇〇〇年十月刊)

 西日本屈指!の人権教育誌『ウィンズ』にこんなふざけた題名の本を採り上げるとしたら、けちょんけちょんに罵倒してポイッしちゃうような書き方を期待されているんだろうね。
 しかし、あたいは敢えて★をいっぱいつけてやる。な~んでか。それはこの本が「人権論の再構成」を社会評論レヴェルで試みようとした(らしい)からでっす(宮崎哲弥「はじめに」8頁)。この本(新書だよ)を読んでいて、昨年の春に福岡県部落解放・人権研究所主催の横田耕一センセの講演を聴いたのを思い出したんだけど~。横田センセも人権という言葉は自明ではないし、国によっても理解はちがうし、これが人権だという定義も無いというようなことを言っていたんですよね、確か…。
 そういう言い方ってさ、人権は絶対的普遍的真理だって信じ込んでいる人には腹も立つことだろうけど、人権ってやっぱりひとつの価値観なんだって思ったほうがいいよね。もっと正確に言えば西洋近代の価値観であって、東洋的な人権やアジア的ないしはアフリカ的人権も人権のひとつの正しい見方としてあるんじゃないかなってこと。
 そんなこと思いながらこの本を読んでみるとけっこうおもしろいんだな。福岡にいると人権問題っていうと部落差別とか、民族差別とか、障害者差別というのがすぐに出てくるけど、この本のなかでは全然出てこない。あるとすれば「問題がないとはいえない。セクハラもあるだろう。在日韓国人・朝鮮人、同和の差別もあるだろう」(192頁)というところくらいなのね。つまり、こういう差別はあって問題だけど、その話はさておきっていうみたいに全然ちがう話をしているようなのね。で、何のことがいちばん書かれているかっていうと「加害者の人権と被害者の人権」のことにほとんどの執筆者が言及しているのよ。だからそっちがこの人たちの問題みたい。つまり、ここに書いている人たちの多くはいわゆる「人権派弁護士」を標的にしているみたいなのね。つまり、法律を盾に人権を語る人たちよね。
 例えばこの本の中で高山文彦っていう人が「実名報道こそが加害者の人権を認め更正を促す行為である」ちゅう文章を書いてるのね。彼は堺通り魔事件というのを取材して〈19歳と半年の少年〉だった犯人をあろうことか『新潮45』という雑誌に実名で書いちゃったちゅうことなのね。新潮社っていうのはみんな知っているように『フォーカス』やら『週刊新潮』やらいうのも出してて、人権に関してはいつも挑発的な出版社ね。だから、少年の実名をあげた文章をうれしそうに載せたんだと思う。
 高山って人は現行少年法に抵触することを承知で書いたワケなんだけど(おんなじことは永山則夫のときに『朝日新聞』だってやったよね)、彼の言い分はそのほうが少年(すぐ成人になったけど)の(高山的)「人権」の尊重だっていうワケ(詳しくは自分で読んでね)。それは一つの主義だとは思うけど、とりあえず彼は犯人から名誉毀損で告訴されたのね。そこまではよくあることとして、実はそこに弁護士が六十八人(民事は一〇人)もついたんだって。すごいよね。ところが、訴訟の結果得られた賠償金は被害者への賠償資金に充てるか、薬物乱用撲滅のNGOに寄付するとか弁護団が声明を出したというのだから、少し変だなって思わない?ぜんぜん筋違いだと思うの、あたしは。そういう経緯を示されるとこの訴訟って何だろう?って思うのよ。名誉毀損されて訴えてんだから、賠償金は黙ってもらえばいいじゃん。被害者への賠償とは別問題で、それはそれで示談でも裁判でもすればいいじゃん、ねぇ。別の裁判を起こして自分の支払うべき賠償金を肩代わりさせるってやっぱりこういう人たちってホントの「人権主義者」じゃないみたい。
 それでさ、一方で被害者の人たちはその町にいられなくなって引っ越していったりしてるらしいのよね。だからここで言われる「人権派弁護士」っていうのはいったい誰を救おうとしているのかがあたしにはわかんない。加害者でもないし、被害者でもない。著者の高山被告!は「現行少年法を救済することが至上命題」じゃないかって言うの。つまり「政治的」だってね。そんなワケで、あたしもこの「人権派弁護士」たちが必ずしも部落差別や「同和」教育に関心を持っているとか、傷ついた人間の心の痛みっちゅうものにマジに共感しているかはギモンにかんじちゃうのよね。
 もっとも編者の宮崎哲弥は「人権論の再構成―『被害者の人権』を中心に考え直す」という章で「人権派弁護士」なんていうのはおかしな言い方で弁護士である以上は「人権派」であるのは当たり前だし、逆に「人権派弁護士」という言い方が被疑者や被告人の人権を必死に守ろうとする弁護士を揶揄したものならそういうことをいう奴は「近代法の原則をいささかも解さぬ斉東野人というべき」だって「右派」の発想をけなしているんだ。つまり、本書の中でも「人権」に対しての見方はずいぶん食い違っているみたい。っていうか、ちがうのを前提に企画したということらしい。それだけ「反人権派」を標榜する人たちの「人権観」もちがうし、あたしたちが解放運動や「同和」教育で言ってきた「人権観」ともずれがあるみたい。
 ということで、この本に文章を並べている人たちは最初に述べたように「人権」というのは普遍的価値ではなくて一種の取り決めのようなものだという人権相対主義の立場に立っていることで共通している。編者によれば、この本は「当初の企画では、左派、人権主義者内部の『批判派』の論をも収める予定だったが、右派の『反人権論』と同舟するのを潔しとしないというわけか、すべて断られてしまった」(9頁)んだそうな。いったい誰が断ったのかな、あたしはこういうところに「左派」も積極的に参加すべきだったと思うのね。それと、みんなでこの本を読んで「人権派」ないし「人権主義者」としてきちんと意見を言うべきだと思うのよね。それと「人権」って絶対的普遍的価値なのか、それとも相対的なものなのかとか、部落解放運動や「同和」教育が言ってきて、これから言おうとしている「人権」と「人権一般教育」とは同じなのかとかいうギロンってあんまりしてないじゃない?あたしは、部落解放運動っていうのはやっぱり被差別部落の解放という日本的差別に対する闘いなんだから、政治的だろうし、その「人権論」は普遍的一般的なものではないはずだと思うのね。「同和」教育が主張する「人権」も部落差別をなくす教育だからやっぱり人権相対主義じゃないかと思うのよ。そうすると「同和」教育が人権教育一般に解消されるべきか人権教育を「同和」教育の視点で捉えるかって、ずいぶん重要な問題をこの本は提起しているみたい(ただし、この著者たちに部落差別や「同和」教育に対する見識はまったくないけど)。
 とはいえもとは「人権派」に対する反発から書いている人たちよね。全部がぜんぶ読むのに堪えられるわけじゃない。先に挙げた二人はよしとして、準編者格の呉智英(二本も本書中に文章を書いているし、「あとがき」まで書いている)の書いた「人権主義者のセカンドレイプ」は復讐権を主張したり、石原慎太郎の「三国人発言」を擁護したりと乱暴なギロンをしてはいるのだけど、「人権主義者」たちが犯罪の加害者を庇うあまりに被害者を傷つけている例を出してこれをセカンドレイプだと批判している。ある意味では軽薄な「人権主義者」に対する批判としては尤もなものではあるとあたしも思うわよ。だけど、この人ったらもう一つの自分の文章「形而上学としての人権思想」の中で「支那文学」「支那思想」という言葉を自覚的に使っているのね。これってさ、すっごいむかつく書きかたなのよね。確かに「支那」という表記は日本が近代以前の中国を尊敬していた時代から使われていた表現だから、その言葉はある時期までは差別性や侮辱性はなかったのね。その後もそのままならこの文章の中で何人かの歴史学者、文学研究者が「人権」という概念を歴史を超越して使っていると批判している。その批判は正しいかもね。しかし、この人は現代においてわざわざ「支那」という言葉を乱発することでおんなじ過ちをおかしているのね。「支那」という言葉の使用され方が歴史的だってことにこの人気がついていない。江戸時代と現代との間に戦争があったという初歩的なことを忘れている。だって、この間あたしが台湾に中華料理食べに行ったときにね、ガイドブックに台湾では「支那」とか「支那人」という言葉は絶対に使わないようにって書いてあった。なぜなら植民地時代にそういう言い方で日本人にひどい目にあった記憶があるからそういう言い方をされると台湾の人は怒るよっていうことなんだって。ちゅうことはこれはまさしくセカンドレイプよね。犯罪被害者の気持ちに共感して軽薄な「人権主義者」の言動をセカンドレイプだと非難する人が観光パンフレットレベルの歴史的セカンドレイプに気がつかないなんて、バッカみたいと思わない?
 それから山口宏という弁護士は「裁判所は人権の砦ではない」という文章を書いているけど、この人の話って短絡てきぃ…。だけど裁判所の中では人権なんてないことを具体的に説明しているのはよくわかって役に立つナ。石川さんが嵌められたワケもよくわかる。
 全体的にこの本で扱われている「人権」論争は部落差別や「同和」教育とは距離のあるところでやっているギロンだと言っていい。しかし、いつあたしたちの問題になってくるかもわかんないと思うのよね(実は勘違いしたままあたしたちの問題になっているのかもしれない)。こっちへお鉢が廻ってくる前にあたしたちの「人権」理論をきちんと作っておかなくてはならないと考えてしまう一冊ね、これは。

★★★★ で、あなたは人権絶対主義? それとも人権相対主義? そういうギロンをしておこうよ。

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『五体不満足』   乙武洋匡著 講談社 一九九八年

 「やっぱり、ラスベガスといえばカジノ。というわけで、ボクたちはビンゴの会場へと向かった。大画面いっぱいに映し出されるナンバーを確認するたびに、手に汗を握る。え、握る手がないって?まぁ、細かいことは……。」(本書二三八頁)
 あまりに売れている本だから、いまさら書評もなんだけど、この本が売れたってのはこんな具合に自分自身の障害と障害に対する差別を著者自身が相対化できているところなのね。書名の『五体不満足』だって型にはまった人権教育しかしてこなかった人には不愉快なタイトルかもしれない。アタシだって最初に見た時にはドキッとしたっけ。たしかに健常者中心につくられてきたこの社会では障害者のことはあまり配慮しない文化がまかり通ってきた。そんな社会をバリアフリーにしていくには社会が障害者の位置に寄り添っていくことも必要だけど、障害者が社会に参加していく道を開くことも必要なんだなってことを著者は言いたいみたい。
 著者の乙武クンは先天性四肢切断、つまり生まれつき手足がないという障害を抱えた人なんだけど、フツーの学校へ通ってチョットイイ高校に進んで、あの早稲田大学に入っちゃった。この本はそんな著者の「自伝」といっていいのだろうか、生まれてから二十年余のあいだに出会ったいろんな出来事を書き綴ったものだ。いまどきの若者らしい軽佻浮薄な文体で書かれているので読みやすい(意識的に軽いタッチで書いてるみたいだけど……アタシみたいに。)。これまでの障害者問題を扱ったものはけっこう深刻なトーンで書くのが多かったよね。その点でこれはすっごく意味のあることだと思う。
 ひょっとして乙武クンは障害者のチョーエリートかもしれない、と思ったらそれはまちがいなのね。エリートに障害者のエリートがいたり、健常者のエリートがいたりするわけではないから……。早稲田までいったのだから、とりあえず受験生のエリートではあったって見るべきなのかな。(アタシは落ちたけど)
 それは運もよかったし、彼自身の努力もあったでしょう。だけど乙武クンの努力は格別すごい努力だったわけではなく、フツーの受験生が早稲田に入ったのと同じ努力だったと〈本人が思っていること〉なのね。そして本書で彼が言いたいのもそのことなのだと思う。「(生き方には)関係ないのだ、障害なんて。」(あとがき)という言葉がそれを語っているんだな。
 それにしても乙武クンは運がイイ。彼の運のよさというのは両親、友人、教師……出会った人々に恵まれたことなんだと思う。っていうより、乙武クンはそうした出会いの数々を本書で紹介しようとしている。そのひとつひとつに学ぶことは多い。
 例えば小学校で出会った二人の教師、低学年と高学年のちがいはあるけど最初の高木先生は乙武クンを障害者として特別扱いしない教育を本人にもクラスの子どもたちにもしてきた。一方、五年生から担任になった岡先生は乙武クンにワープロを与え、乙武クンにしかできない仕事をさせた。どっちが正しかったかって問題じゃないよ。どっちも的確に子どもの個性を受けとめた教育だったんじゃないかな。
 そうやってひとつひとつのエピソードを拾っていくとバリアフリーっていったい何だ、って問題になっちゃう。バリアフリーっていうのは「障害者にやさしい」っていうだけじゃだめなのね。乙武クンの子どもの頃の友だちが遊ぶときに「オトちゃんルール」って特別ルールを作ったことが書いてあるけど、それは乙武クンを仲間に入れてあげるためではなくて、仲間の乙武クンと遊ぶためだったんだ。きっとそんな姿勢のとり方がバリアフリーの基本なんだろうね。それがわかっているから乙武クンはわざわざ『五体不満足』なんてタイトルにしたんでしょう。ミョーに言葉にこだわっている人のほうがバリアが堅いのカモ…。

★★★★障害者がフツーに生きるって、たいへんなのだと思うのは健常者のほうかもしれない。気軽に読んで見たらイイよ、それがバリアフリーなんだから。


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福岡賢正『隠された風景―死の現場を歩く―』南方新社 一六〇〇円+税

 部落史研究の中で差別の淵源についてケガレ意識について云々されるようになってきたことは教育現場においてはよく知られるようになってきた。しかし、そのケガレ意識とはどういうものかについては体感した人はいない。なにしろ中世におけるケガレ意識なんて議論なのだから想像を超えているのである。それは手にウンコがついてしまったというものとはまた別のケガレ観なのであろうとは推測しつつも私たちは抽象的な観念としてしかケガレ意識を理解していないのではないか。そうすると学校で部落問題学習、ないしは部落史学習を行ったとしても観念的なものにとどまらざるをえなくなるし、汚れたら手を洗えばいいという程度のところにとどまり、差別の根拠となったケガレ意識には実は手が届いていないのである。
 さらに重要なことは部落史研究でケガレ意識が提起されたことによって近世政治起源説は追いやられたことである。これにより、短絡的な行政責任からより民衆の生き方そのものにかかわる差別問題の本質を克服することに今後の人権問題の課題を置くことができるようになったのである。このことは私たちの差別意識の根幹にあるものを解明しなければならないことを意味している。つまりはケガレ意識とは何なのかを具体的に問うことである。
 ケガレ意識が死穢(しにえ)と結びついていたことはよく言われることである。具体的に私たちの暮らしにそれを求めるならば葬儀の返しに塩の小袋を付して、これを撒くことでケガレを払うというようなしきたりが最近まではあった(近年はあまり見なくなった気がするのだが)。その程度のことはあまりに迷信じみていると新しい世代の人間ならば気にすることなく廃止していく習慣でしかない。しかし、死というものを遠ざけようという意識は克服されていないと思うのである。先般JR西日本の悲惨な事故があったが、テレビで遺族の不満を流している中に「開いたままの目を閉じてやってください」とJRの職員に訴えたところ、「それは葬儀屋の仕事です」と断られたことを非難している映像があった。そこに遺体の取り扱いに関する微妙な意識が見え隠れするのを感じてしまった。
 本書は毎日新聞社西武本社版に二〇〇〇年九月から二〇〇一年十月にかけての連載記事がもとになっていて、内容は三部に分かれている。
 第一部はペットの行方と題され、ペットとなるはずの犬や猫がさまざまな理由で不要となったときになされている「処分」のルポである。ペットとなるはずの犬や猫は人間によって不必要に増やされ、その数的なバランスを崩し、結果的に「処分」という処理をされなければ実は私たちの生活そのものがなりゆかなくなる。そのペットたちの「処分」にかかわる人たちは自らを「必要悪」であると自嘲的に言う。それを著者は「善」であるとしなければならないと当事者の方々に約束をしてこの記事を書いていった。安直な動物愛護精神では解決できない生と死の矛盾、それを解きほぐすことがどうして「善」ではないのか。私たちの多くはそうした矛盾からは視線をそらし、皮相的にペットたちの生と死をながめ、そらぞらしく「いのちの尊さ」について語る。著者はそのことを鋭く糾弾しているのである。
 さらに重要なことはペットの死にかかわる人々がその仕事を隠さざるを得ないほど社会の、すなわち私たちの差別の視線にさらされているということである。それは明らかに死にまつわる差別意識であると言える。職員たちはこの差別のまなざしをつよく感じながら、時に「必要悪」と自嘲しつつもっとも社会にとって重要な職務を遂行しているのである。また、記事の中に被差別部落出身の職員の方が登場する。それは何を意味しているのか。前近代的なケガレ意識は未だに社会的差別の根となっていることを意味してはいないか。そういうことも押し隠して私たちはペットを飼い、不要になると処分にまわし、処分にかかわる人々を差別する。その構図は日本社会の差別構造そのものだと言えよう。
 ペットのいのちを奪う仕事、「それは善なのだ」著者は言いたいのだが、どれだけの人間が直接そこにまみえたとき心から共感してくれるのか。それは日本社会に突きつけられた課題なのであろう。
 第二部は肉をつくる世界のルポである。思うに私たちは肉はもとより牛や豚や鳥を殺した後に解体してそれぞれのパーツに分け、適当な大きさに処理して店頭に並んでいることは頭の中では知ってはいる。しかし、実際には箸の先にぶら下がっている肉しか眼中にはない。仙台で「牛タン発祥の地」という幟を見たことがある。正確には「牛タン焼き発祥の地」なのだろうが、「牛タン発祥の地」という表現には牛タンというものが仙台市の郊外で育てられているような錯覚に陥ってしまう。そのくらい私たちは牛タン=牛の舌と牛の死とを遠いものとして見ているのではないだろうか。
 肉(タンにしてもモツにしても)はもとい一頭ないし一羽の生き物の命を奪うところから始まる。にもかかわらず私たちはそれを人任せにし、なおかつ命を奪う現場とは遠い距離を置いているのである。仙台の牛の舌がどこで切り取られたものか詮索はせず、仙台が発祥地であるというコピーを無自覚に受け取っているのだから。
 このルポに出てくる屠畜の現場にはたしかに凄まじい光景がある。しかし、生き物の命を奪い、私たちの命の糧としていくということはそれだけ重たいものなのだ。その過程を想像することもなく、多くの人々はただ商品として並べられた食品としての肉だけを楽しんでいるのである。そしてうまい肉をほおばりながら家畜の死と向き合う現場からは眼をそむけ、現場にかかわる人たちを忌避しようとする。
 ここでもやはり被差別部落出身者が登場してくる。何故なんだ。やはり死穢がここにもとりついていると思わざるを得ない。しかも家畜の血にまみれて重労働をしているがゆえに人々は現場から目をそらしたいにちがいない。
 第三部は自殺が主題となる。生き物の死をルポした著者が今度は人間の死についてルポをした。自殺した人間の書いた数多の遺書を読んでの死の風景である。ただし、第一部、第二部とは異なって第三部は人間の自分自身のいのちへの問いである。ほとんどの自殺者がいのちを惜しまないのではなく、いのちを惜しむが故に悩み、苦しみ、躊躇う姿が描かれている。しかし、ここで示される死は第一部、第二部とは本質的に異なっている。いずれも生と死について問うてはいるのだが、第三部は自分自身の生き方の問題であり、第一部、第二部は死そのものに対する私たちのまなざしが問題になっている。水を差すようだが本書には第三部はいらなかったと思う。第三部はまた機会を改めて世に問うていい内容だと思う。第三部をおくことで私たちは「殺す」ことの意味から目をそらすことになった。自殺も一つの殺人ではある。しかし、そこには「殺す」ことに対する忌避や差別の色は薄い。あったとしてもその人間の死で歓ぶ人は少ない。それに対してペットや家畜の死は多くの人間のために行われている行為であり、かつかわいい生き物を殺す役目を忌避し、差別するという構図になっているのである。そしてそこに私は歴史が繙いてきたケガレ意識というものの根っこを見てしまったのだ。
 学校で部落史学習や同和教育に取り組むとき、人権教育として「いのち」の問題を取り扱うときまずは本書を手にとるべきであろう。
 私たちが私たちが一片の肉を口にしようとするとき、飼い犬を「かわいい」と思うとき、そして死にたいなどと思ったときに本書を思い出してみよう。そうしたら私たちが歴史の中に抱えてきた差別意識の根源を発見し、同時にいのちをたいせつにするということの意味を考えさせてくれる、そういう本である。

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大森みゆき『私は障害者向けのデリヘル嬢』ブックマン社 一二三八円+税

 「きっついお仕事」にはいろいろあるだろうけれど、和田虫像氏が体験できなかったお仕事にデリヘル嬢がある。なにしろこれは女性にしかできない仕事なのね。この著者の大森みゆきという名前は仮名です。仮名であるところに風俗という世界へのこの世の偏見ちゅうものがあるのかもね。
 で、この著者、デザイナーとして働きはじめたところ、いろいろな壁にぶち当たっていわゆるソープ嬢になったんだって。その彼女がひょんなことで「障害者専用のデリバリーヘルス」という業界に入ってしまう。なにしろ、ソープ嬢を半年したというのが、このお仕事に就くまでの彼女の風俗と介護(こっちは経験ゼロ)のキャリアなのね。それではじめちゃったんだから、この業界もすごいよね。
 まず、謹厳実直な読者の方々にはデリバリーヘルス、略称デリヘルって何だか説明しないと、この本の意味からしてわかんないわよね。あたし?あたしだってわかってるわけないじゃない。ま、読んでみて推測するにデリバリーってのは出前ってことだから、店舗を持たない仕事なの。そしてヘルスって、べつに健康食品とかじゃなくて、性的なサービスをすることだと考えたらいいようね。性的なサービスといっても性交渉は売春だから、これは法律違反。そうならない範囲で顧客の性的欲求を処理する仕事と考えたらいいみたい。まあ、「きっついお仕事」の一つに入るといえそう。
 それで本書は大森みゆき(仮名)さんが障害者専用デリヘルというお仕事の体験を紹介してくれている本なの。でもキワモノではないよ。最初に書いたように世間ではいわゆる風俗っていう世界はやっぱり陰の世界なのね。例えば「同和」教育に熱心なセンセイがデリヘル嬢を呼んで遊んだ、なんて言うとみんなから顰蹙を買うことはまちがいない。例えば「風俗っていうのは性の売買で、性の売買は女性の尊厳を否定しているから人権・同和教育に携わる人がなんてことをするのだっ!」なんて批難する人がいるかもしれないし、「そもそもそれはジェンダーの問題でして、そのようにジェンダーを一方的に押しつけることが……」なんて理屈をたれる人もいるかもしれない。
 しかし、障害者が性欲を持たないはずはないし、性欲を満たしたいということも一つの自己実現じゃないのかなあ。ところが、障害を持っているがゆえにその性欲の処理は健常者のようにはいかないことって想像がつくでしょ。実際に自慰そのものがままならない人だっているんだと思うの。彼女はこのお仕事を通じていろんな障害者の方と出会う。そして、いろんな形で彼らの性欲の処理に貢献するんだけど、世間っていうのはきっとこういうお仕事についてはフツーの風俗産業以上に眉をひそめるんだろうな。逆に言えば障害者は性欲を持っちゃいけない、恋愛や結婚は許されても風俗産業で遊んじゃいけないって思ってんじゃないかな。ともかくそういう偏見を彼女はどんどん打破していくんだ。
 ところで、彼女は介護体験はまったくゼロでこのお仕事に就いたのね。で、お客様と出会うたびに少しずついろんな技術を体得していくんだけど、あるお客様の時に性器を清浄綿で拭こうとしたとき本人はデイサービスで入浴しているからきれいだと思っていたらしいんだけど、そこには垢が真っ白にこびりついていたんだと。介護というのはきっと「性」の部分から目をそらしてしまうものなんでしょうね。だから見えないそういう部分には手は触れないのでしょうね。それにそこまでていねいに洗うべきだとも言えないしぃ。何しろすごくプライベートな部分だものね。
 これは介護の問題ではないと思う。そうではなくて介護と人間の「生」(生きるほうだよ)との〈はざま〉みたいなものがあるような気がして、だからそこって介護には絶対手の届かないところなのかもしれない。障害者の「性」(りっしんべんだよ)に向き合うことになった彼女はそうした手の届かないところに手をさしのべることのできる存在だったのだろう。世間からは二重の偏見を浴びながら…。

★★★★ これでまた読者諸姉諸兄の職業リストにひとつ「きっついお仕事」が加わったんじゃないかな。大森さんはこのお仕事にある種の職業倫理みたいなものを持っていたような感じがする。このお仕事への誇りなのかもしれない。人権・同和教育を考える上で、「障害者問題」を考える上でも、「いのち」について考える上でも、「しごととくらし」について考える上でも、「女性と人権」について考える上でも貴重な一冊。


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レジス・ドゥブレ、樋口陽一、三浦信孝、水林章『思想としての〈共和国〉―日本のデモクラシーのために』みすず書房三二〇〇円+税

 教育基本法が改正されて、その後教育現場は何も変わっていないというので、日々の安穏の生活に戻り、子どもを追いかけまわしているあなた。突然総理大臣が辞めてしまうこの美しい国に対してとりあえず何とかなるだろうという根拠のない信頼を置きながら不平不満を言っているあなた。自由と言われれば無条件にいいことだと思い、自由を少しでも抑制すれば管理だ、弾圧だと不平を唱えてしまうあなた。人間はみんな無条件に平等で人権は天から与えられたと思っているあなた。日の丸は嫌いだけど星条旗やトリコロール(フランスの三色旗)については敬意を表し、君が代は嫌いだけどゴッド・セイブ・ザ・クィーンやラ・マルセイエーズは無自覚に受け入れているあなた。日本の民族主義は嫌悪するのに在日外国人の民族主義には同調しちゃうあなた。そのくせワールドカップやオリンピックは日本選手団を応援してしまうあなた。もしくはそんなものは愛国心を助長するものだと言ってテレビを消してしまうあなた。この国と、この国に対する自分自身の責任について考えているかい?
 この国というのはもちろん日本国のことだ。天皇制国家でありながら帝国とか皇国を名乗らずに敢えて日本国と称している謙虚なこの国のことだ。少しは深刻に考えた方がいいと思う。なぜならばこの国は戦後六〇年を過ぎて戦後民主主義の制度疲労が末期的な症状を来たしているからだ。戦後民主主義が朽ちて滅ぶならば次に来るものは何か。それを考えるだけで恐ろしいから何とかしなくてはならないのだ。先にあげた「あなた」の症状はすべて戦後民主主義制度疲労症候群だ。その最大の症状は国家に対する無責任性だと言っていい。
 自国に対する無責任さは突然その食を放棄した首相のみならず、無原則にアメリカに追従していれば愛国者だと勘違いしている人びと、日本嫌い(反国家的)であれば進歩主義者だと勘違いしている人びと、選挙にも行かず、組合にも入らず、愚痴や不満も言わない人びと、そういう日本国民全体に蔓延している。このところ下がりっぱなしの投票率は国家と国民の乖離を端的に示している。
 私たちが自由とか、人権とかを主張するときそれは国家との関係においてどのように位置づけて語っているのだろうか。おそらく幼子が駄々をこねるように欲しい欲しいと叫んでいるに過ぎないのではないだろうか。そしてそのような駄々が説得力を持つ論理であるはずもないのだ。
 本書のタイトルは『思想としての〈共和国〉』だ。世界が近代化という時代転換をしたのは近代市民社会の成立による。そして、その近代市民社会がフランス革命によって生み出されたものであるということは世界史をちょっとかじった方には覚えがあるだろう(未履修の人はいざ知らず)。〈共和国〉というのはその近代市民社会の基本原理だと言えば理解してもらえるだろうか。トリコロールが示しているように基本原則は自由、平等、博愛だ。人権思想はここから生まれている。サブタイトルに「日本のデモクラシーのために」とあるのは日本社会ないしは日本国家のありように国家・社会の基本原理からものを言いたいという著者たちの願いが込められている。
 本書はフランス文学・思想の研究者である水林章氏らがフランスの思想家レジス・ドゥブレの一篇の論文に刺激を受け、その論文をたたき台に日本のデモクラシーを再考しようとしている挑発的な著作だ。冒頭にドゥブレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」という問題の論文を載せている。次いでフランス研究の三浦信孝氏とドゥブレ氏の対談、更に水林氏の論文、そして憲法学の樋口陽一氏と三浦、水林氏の三人に「共和国の精神について」という鼎談でまとめられている。
 まずはドゥブレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」という論文を読んでみよう。この論文は長いものではないし、水林氏によるていねいな訳注がついているので、理解しやすい。後の対談や論考はドゥブレ論文の応用問題だから、このドゥブレ論文だけを読むことで終わってもいい。それだけ意味深い論文だ。
 このドゥブレ論文は一九八九年に書かれたものでもう二〇年近く前の作品だ。しかし、今の日本の私たちにとっては新鮮であるし、それだけ私たちは自分たちの社会と国家についての思考をサボタージュしてきたかを思い知らされる。
 この年フランスではいわゆる「イスラム・スカーフ事件」というものが起こった。パリ郊外の公立中等学校で三人の女子生徒がイスラムのスカーフをかぶったまま教室に入ろうとしたのを校長が見咎め、スカーフを外すように指示したが、生徒らはこれを拒否して図書館で自習をしたという事件である。ドゥブレはまず読者に問いかける。さて校長の判断をどう思うか、と。
 たぶん、日本のお人好しの人権主義者たちは信教の自由だとか、表現の自由だとか、それが人権だとか言って女生徒たちの味方をするにちがいない。ほら、君もそうだろう。しかし、共和主義者であれば校長の判断を当然だと言うだろう、ドゥブレは言う。

 フランス革命は人間が神を克服して近代市民社会を作った。だから、市民たるべきものはその社会=国家の一員として責任を持つものなのだ。それが〈共和国〉の思想なのだ。だから市民としての権利があり、それを人権という。一方で、アメリカ的デモクラシー(水林氏はそれを民主主義とは訳さない。)は神によって予定調和的に作られた社会である。そのちがいを象徴しているのが

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