2009年10月01日

村上龍([絵]はまのゆか)『13歳のハローワーク』幻冬社 二六〇〇円+税

 中学生に職場体験学習をさせるのがけっこう流行っているみたいね。よく近所のうどん屋なんかに中学生がボーっと立ってるやつね。あれって進路指導のひとつなんだろうか。そんなことせんでもアルバイトをフリーにしてやればいいのにさって思うのはアタシだけだろうか。
 そもそも進路指導って『学習指導要領』で、各学校の「創意工夫を生かし、全体として、調和のとれた具体的な指導計画を作成するもの」という中で「配慮するもの」として「生徒が自らの生き方を考え主体的に進路を選択することができるよう、学校の教育活動全体を通じ、計画的、組織的な進路指導を行うこと」とされているところに基づいて行われている。
 そう考えてみれば中学校って義務教育の最終段階だから「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(教育基本法第一条)という日本の教育の目的を果たすために行われるもんだ。つまり、「健康な国民」となる権利を保障するものとして進路指導は行われるべきなのだな。
 ところが、学校を出て、学校に勤めて、学校しか知らない学校の先生が学校以外の職業なんて知らないだろうし、学校を出て学校に勤めるというもっとも安直な進路選択をしてしまった人間にそんな深遠な進路指導なんてできるもんかいねぇ。まぁ、アタシには無理だね。それになまじ「同和」教育なんてかかわっちゃうと「職業に貴賤なし」なんて言っちゃって、子どもたちの向上心を抑え、「どんな仕事も世の中の役に立っているんだよ」なんて適当に子どもたちを社会の底辺層に配置して、「それでよかった、満足して生きなさい」なんて、まるで新自由主義的な昨今の階層化政策に荷担したりしちゃうんだからしょうもないよね。
 そういうアタシに、もとい諸君に恰好のネタ本がこれだ。職業を選択するっていうのはどういう生き方をするかっていうことだと思うよね。本書は「子どもは誰でも好奇心を持っています」(はじめに)というところから出発している。そして大人が好奇心を持って生きることの楽しさを子どもに示すことがだいじなんだって言っている。その「好奇心」から目指す職業に到達するように作ったのが本書だというわけだ。そんなわけで本書には全部で514種の職業が好奇心を切り口に紹介されている。しかも四五五頁で二六〇〇円、しかも上質紙でずっすりと重いのでお買い得だ。
 こりゃあ便利だ、なんてスケベ根性出さないでよ。教師っていうのはすぐに「こういう仕事がいいよ」なんて指導したがる。そうじゃなくって何に向いているか、なんて本人にしかわからないのだ。しかも「多くの親や教師が、どう生きればいいのか知らない」(はじめに)と指摘されているんだ。だからこの本は教師が読むんじゃなくて生徒に読ませるものみたいだね。目次に示された「好奇心」は「自然と科学」、「アートと表現」、「スポーツと遊び」、「旅と外国」、「生活と社会」にわけられている。また、Special Chapterとして「サービスや物を売る」、「日本の伝統工芸」、「職業としての自衛官」の章が立てられ、それでも好奇心と出会わない子のために「何も好きなことがないとがっかりした子のための特別編」まで準備されている。
 読んでいくと、ちょっと待て!と言いたくなるようなお仕事、たとえばパチプロとかストリッパーなんかもある。但し、それらの仕事に伴うリスクやメシの喰え方についても説明がある。いろんな仕事についていろんなことが書いてあるので片端から読んでいくだけでも楽しい。おお、こんな仕事もあるのか、とかいう具合に目を開かされる場合もある。まあ、ヤクザとか、革命家とかテロリストなんていうのがないのが残念である(!)。もちろん泥棒もない。但し、自衛官については特別に一章を設けて説明を加えている。今やモーニング娘が「戦争に行こうよ!」じゃなかった「GO GO PEACE!」とかいって勧誘しているけれど、そのための基礎知識についてはたっぷり書いてある。それは自衛官が特殊な職種であるということを村上龍は意識しているからだろう。だからといって「自衛隊に行くな!」とも「自衛隊に入ろう!」とも書いていないよ。それは向き不向きなのさ。それともセンセの教え方かな。

 ホームレス横たはりたる駅裏に自衛官募集の看板があり  休呆

 また、「何も好きなことがないとがっかりした子のための特別編」という章が設けられているが、もしかするとこの章に該当する子が一番多いのかもしれない。多くの子どもが生き方に迷ってなるように進学し、人生のどっかで後悔しているのだろう。ほら教員の中にだって不向きなところに来てしまって後悔しているのがいるじゃないか。そういう子どもたちや教師(?)のためにもいろいろアドバイスが書かれている。
 そして最後に「明日のための予習」として現実的な進路指導のためのエッセイが記されている。雇用形態の変化から将来の可能性の高い職種についての解説まで書いてあって、これは教師も役に立つよ。ここだけ切り取れば進路指導の授業が何回かできるね。
 でもなんたってこの本の魅力は随所に書かれた村上龍のエッセイだ。いろんな仕事についての彼のエッセイは読んでいてあきない。読んでいるうちに職場体験学習の狭量さを思い知ることになる。下手な進路指導をするよりもポケットマネーでこの本を買って教室の片隅に置いておくのがいいと思うよ。
 

★★★★ 村上龍に言わせれば人間には二種類の人間がいるんだって。「自分の好きな仕事、自分に向いている仕事で生活の糧を得ている人と、そうではない人」なんだって。ほら胸が痛いでしょ。


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山田真美『死との対話』スパイス 一五〇〇円+税

 「同和」教育が人権教育なんて方向に間口を広げていくと、「いのちの大切さ」なんて取り上げるよね。で、「いのち」について語れる人間ってどれくらいいるんでしょ。もともとわれわれ教師なんてのは俗人の凡人でさぁ(心理屋さんには言われたくはないけど)、未来しかない子どもたちに「いのちの大切さ」なんて説くことができるんだろうか(いや、説けるわけがない-反語的表現)。結局「いのちは尊いものなんですぅ…」という結論だけを押しつけちゃうんだな。じゃあ、坊さんとか、牧師さんなら説明できるかっていうと学校は宗教教育を行う場所ではないからそれも無理だしぃ。
 まじめに『かがやき』とか『ぬくもり』とかを開いて「いのち」の教材をひもといてみても子どもとの間に温度差があるのはぬぐえないのよね。なにしろ奴らは毎日プレステか何かで何度も死んだり生き返ったりしてんだから。結局、「いのち」の尊さがわかるのは自分が死と向き合って始めてわかるんじゃないかしら。別にワタシが死にかけているわけじゃあないからまだわかんないけど、若い時なんて死の実感なんてなかったもんね。
 「死と向き合う」…わかったようでわかんないことですよ。ま、いちばんわかりやすいのは死者と直に出会うときでしょう。そうは言っても死者なんてそんなにその辺にはいないものでっす。自分の親しい人が亡くなったときにわかるかと思えば、そんなに機会は多くないでしょ。なにしろ平均寿命は長くなっているし、死は一人一回しかないしね。ところが、本書の著者である山田真美さんはまじに死者=死体と出会っちゃうのね。どうしてかっちゅうと、六年間インドで生活してた人なんだけど、インドでは苦もなく死体と出会えちゃうらしいのね。街角でも、病院でも、畑でも…。日本では街角で死体と出会うなんてよほど大事件に巻き込まれないとないことだし、人が死ぬ病院でだって死体と会うことはまずないんじゃない。ところがインドじゃ死体とは日常的に出会っちゃうわけで、そこから死に対する見方っちゅうか、死生観みたいなものが日本とちがってくるんだって。てゆーかぁ、日本のように死を隠したりしないできちんと死と向き合えるんだね。それが実に雑でさぁ、街角でさりげなく人生を終えた人の上を平気で通勤の人波が通り過ぎるとか、病院の待合室で死んだ子どもなんていうのを、診察のついでに見てしまうとか、そんな具合に死体とひんぱんに出会っちゃうと、死について日本にいるのとはちがう見方を持ってしまうのはあたりまえだよね。例えば日本では葬式のために何百万円もかけるけど、インドでは五〇〇〇円くらいで済むらしいし(死体を焼く薪代の実費らしいけど)、墓も戒名も坊さんに払う手間賃(おっと、日本ではお布施というらしいが)もいらないみたいなんだ。考えてみれば立派な葬式なんて、のこった人間の自己満足みたいなもんだよね。だって死んだ人間には関係のない話だもん。
 本書では死者=死体と出会うことから始まって、インドでのいろんな体験を踏まえて著者の死との対話が記されている。と言ってもこの本は「死についての哲学的考察」みたいなものじゃなくて、あくまで著者の死についてのルポなんだと考えればいい。死を日常から隠し、生き残った人間の都合で葬儀をビジネス化している日本のしきたりとちがって、生身の人間の、ただそれだけの死がそこにある。そうやって死と対話することが、ゲームで体験する死とか、教室でわかってない人にわからないまま教え込まれる死なんかじゃなく、ほんものの自分の死や、家族の死や、仲間の死を語ることになるんだろうね。どうせ一回迎える死なんだから人生の一コマに過ぎないとも言えるし、だからすごく大切だとも言える、そんなところから死について考えてみるとそのうちやってくる自分の死が楽しみになるかもよ。
 おおっ、忘れてた。特別サービスで著者とダライ・ラマとの死についての対談も載っている。こいつはお得だ。


★★★★ 人権読本とかで「いのちの大切さ」をやる前におのれの死生観をみがいておくことは教師としての責任じゃん。


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狩野俊猷『坊主午睡』円通院発行 二〇〇〇年六月刊 一五〇〇円(税込)

 今年の夏は格別暑かったけれど、此の日は特に暑い日だった。私はゆっくりゆっくり蝉の声を確かめるようにして長い坂道を登り円通院の門をくぐった。狩野俊猷さんのお葬式だった。故人の遺志だということで簡素な式だった。そしてこの本を手にしたとき、狩野さんがどうしてこういうお葬式にしようとしたのか解ったような気がした。
 本書は「おしょうさんのひるね」と読む。狩野さん自身が書いた「あとがき」は二〇〇一年四月の日付になっている。だからこの本は狩野俊猷さんの遺書みたいなものなのだろう。本書の大部分は若州一滴文庫の会報『一滴』に連載した「坊主午睡」という一連の文章であり、これに書き下ろしなどを加えて一冊にしたものだ。作家の水上勉さんが描いた椿の竹紙画が一枚扉に貼られている。渡辺淳さんの挿し絵も素敵だ。丁寧な、そしていろんな人の手が掛かった本になっていて、病床にあった狩野さんのまわりにいっぱい友情の糸が繋がっていたことを彷彿とさせる、そんなつくりの本である。生前の狩野さんの人柄が偲ばれてくる。
 本書中唯一の書き下ろしである「お浄土への道が分からず立ち往生」という文章は「和尚さんの『坊主午睡』を読んでいると、死ぬ事ばかり書いてあって嫌ですね。」と問い詰められるところから始まる。この書き出しが示しているように本書には死の影がチラチラちらついている。まるで自らの死を予感しているかのように始まる最初の文章は「此の世の出入口に雪が降る」だ。「大きな柿の木の下に」ではチャボの雄鶏ピーの死の瞬間が淡々と描かれ、ピーの「いのち」の思い出が語られる。決して情に流されず、静かにピーの死を見つめている冷たいくらい感傷的表現を抑えた狩野さんの文章は「いのち」というものの神秘を体感させてくれる。いのちあるものはいつか死を迎える。そのことを狩野さんはそのまま受けとめ、私たちに伝えてくれているのだ。
 「木の葉 落ちて 枯れぬ間の」では自分の葬式のことをあれこれ考えている。まるでほんとうに死の直前にすべてを悟って書いたかのように自分の葬式の段取りを想い描いているのだ。だがこの時亡くなったのはお母様であった。校正刷りの段階でお母様の死のことが書き加えられた。「一日でしぼむ芙蓉の花が」は予期しない突然の死を迎えた人の話を日常の生活の風景として描いている。死の重さより日常の死、あたりまえのこととして誰もが体験する死のことが奇妙に優しいユーモアのある文体で述べられていく。そんなふうに死が描かれているのを確かに嫌がった人もいたのであろう。しかし、死というのは生と裏表の関係である。生がなければ死はない。死があるという事は其処に確かに生きた痕跡があるという事なのだ。
 生きるということは「いのち」を伝えること。それは人間であろうと、動物であろうと、植物であろうと変わらない。「遠くから来たヒメジョオン」は主役がヒメジョオンの花だ。「いのち」には植物も動物も人間もない。「いのち」は「いのち」なのだ。そうした達観は仏門にある狩野さんだから到達できた境地なのかもしれない。
 人権教育の中で「いのち」を主題にすることがよくある。その際に「いのち」の大切さを深刻なほどの重みを加えて教えることは多い。ところが狩野さんの文章にはそんな仰々しさはない。おそらくは円通院の周辺の豊かな自然の中で出会うさりげない「いのち」との出会いのなかで「いのち」の連鎖と自然の偉大さが語られている。「動くものにミズヒキの赤点々が」や「冬の山寺ウバユリ神楽」は植物を通して「いのち」の連鎖をユーモラスに描いている。ちょこっと狩野さん自身が連鎖のお手伝いをするのが何ともほほえましい。時には子連れのイノシシと出会ってしまったようにさりげなくはない出会いもあるけれど(「イノシシの子どもの糞に」)、狩野さんの「いのち」へのまなざしは此の本を一貫して流れているのである。
 子どものころ病弱だったという狩野さんは「いのち」に囲まれ、「いのち」と向き合いながら、「いのち」へのまなざしを育ててきたのだろう。「山羊の毛のなかを光と陰が」にはそんな狩野さんの原点がかいま見られる。私には死と「いのち」を見つめる狩野さんのまなざしが宗教者としてのみならず自然の観察者、社会の生活者としての生き方の中で培われてきたのだと思える。それは自然の秩序を壊そうとするものに対する怒りである。人間が桜の花を愛でるために改良を加えて子を産めぬからだにした染井吉野への屈折した思い(「ダルマストーブに火を入れて」)、コンニャクづくりの手間の中で見出した人間のばらまいている毒のこと(「寺の灰にも気になるものが」)などが語られていく。
 読み終えるとまた読み返してみたくなる魔力が本書にはある。ぐいぐいと引きつけられていく文章の巧みさはまさに名文なのだが、それは小手先の技巧ではなく、狩野さんの「いのち」を見つめるまなざしに促されたものであろう。読み返すたびに心が洗われていく。もう一度、元気な狩野さんと語る時間がほしかった。
合掌


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『ジェンダーセンシティブからジェンダーフリーへ―ジェンダーに敏感な体験学習―』ジェンダーに敏感な学習

 総合的な学習は「生きる力」をはぐくむのでしょうけど、人間が生きていくには性の問題を欠かすわけにはいきませんよね。そうすると性の問題も総合的な学習の柱になるものじゃないかしら。
 ところで、性教育を人権教育として捉え子どもたちに語るとき、私たちはやさしさとか思いやりなんかでごまかして来たのではないでしょうか。その前提には女と男という二つの性の関係のみが私たちの頭の中にあったんじゃないかな。かよわい女と強い男、受容的な女と攻撃的な男、そんな図式の中で性を考え、そんな図式の上で男女平等を語ってきたのではないでしょうか。そんな疑問をちょこちょこ感じてはいたのだけれど女と男を無理矢理わけて考えてきたことじたいがまちがっていたのかもしれないんですね。そんな女と男の色分けをジェンダーっていうことは知ってるよね。そのジェンダーについて鈍感だとどうしても口先だけの性教育だとか男女平等教育とかいうところになっちゃうみたいなのね。
 そしたら総合的な学習で扱うにしてもどうやっていいか困っちゃうなって思ってたら、いい本を見つけちゃった。ジェンダーを考えるにはまずはジェンダーに敏感になることですね。そうしたら文字通りジェンダーに敏感な学習を考える会というのがあって、「総合的な学習に生かせるジェンダーに敏感な体験学習」とやらいうのをやっているのだそうです。それで、この「考える会」のメンバーが知恵と経験をあわせて編み出した「現場で活用できる体験学習・参加学習のプログラムの事例を集積」したのが本書なんです。
 ジェンダーという言葉はかなり知られるようになったし、私も知っているつもりだったんですけど、それは単に女性差別を説明するための用語みたいに理解してたみたい。そんな感じでこの本を手にしたら「エ~!」ってゆーか、かなり目からウロコでした。だってよく私たちが使うジェンダーフリーって言葉、何語かと思ったら日本でできた和製英語なんだって。つまり定義自体があいまいなのね。だからいろいろな意味が含まれていて「そもそも「ジェンダーフリー」とは「男女平等に」扱うことか、それとも「男女関係なく」扱うことか?「ジェンダーフリー」と「セックス」や「セクシュアリティ」の「フリー」とは関係があるのかないのか?わかっているようでわかっていない」(118頁)というようにけっこう複雑なんだって。
 それに私たちってジェンダーをどうこう考えるときに女か男かしか考えていないみたいけど、TSとTG(何だろうかねぇ)に異性愛と同性愛を加えると性をめぐる人間関係そのものが複雑になってしまうんだね。そんなのを全部切り捨てていたことを考えれば重大な人権問題を見逃していたのかもしんない。そんなことに気づくだけで目からウロコがいっぱいなのかな。
 そんな理論的背景があるから載っているワークショップや実践例なんかもすっごくおもしろいよ。目からウロコがいっぱい入っているね。

  ★★★★
 あんたも目のウロコ剥がしてみない?ホントの自尊感情もジェンダーと関わっているんだって。人権教育の根っこがひとつここにあるかもネ。


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『私が私らしくあるために』 忍足亜希子 大和出版 一二〇〇円+税

 要はタレント本なのだ。映画「アイ・ラヴ・ユー」でデビューした女優忍足亜希子のエッセイである。ご承知の方は多いかもしれないけど、この「アイ・ラヴ・ユー」という映画はろう者が主人公で、ろう者の役はろう者が演じる、というポリシーでつくられた作品だ。かつてテレビでろう者を主人公にしたラヴ・ストリーが人気を博したことがある。僕によく似た豊川悦史が主役で、常磐貴子といちゃつくやつで、ドリカムの主題歌が好きだった(そんなことはどうでもいいけど)。しかし、聴者がろう者を演じるというのは基本的に聴者の視点から描かれるのでろう者のイメージが固定化されるようなのだ。そこに聴者からろう者へのあわれみのまなざしが描かれてしまうのだと言う。忍足亜希子ははじめてろう者であることで女優となった人だ。
 短いエッセイ集だから簡単に読めるし、そんなに感動だってしない。障害者が書いたから感動すべき内容でなければならないというのは偏見だ、というのが忍足亜希子の聴者に対する大きなメッセージのひとつなのだ。ごくごくあたりまえのバリアフリー(バリアフリーという言葉じたい忍足は否定的だ)がろうである忍足は語っているに過ぎない。その意味で本書はその題名が象徴しているように忍足自身のアイデンティティであり、セルフイメージを表現しているのだと思う。そして「障害」者と向き合うときかまえてしまう「健常」者のまなざしについて優しく批判する。本書を通じて聴者であり、「健常」者である人間はそのまなざしをもって「障害」者をろう者を差別しているのだろう。
 本書の中でいくつか彼女のライフ・ヒストリーがかいま見られるが、それをもっと知りたければ忍足亜希子『女優志願』(ひくまの出版 一三〇〇円+税)がいい。忍足亜希子のセルフイメージ獲得の全過程がわかる。忍足亜希子が味わってきた苦悩と喜び、悔しさと幸福が叙述されている。例えば屈辱的な雇用条件で採用されたOL時代に出勤拒否になりそうになった苦悩であるとか、バリアのせいにしたかった失恋の体験とか、ピアノを習ったこととか、短大に入って講義を聴く苦心談とか。僕たちは忍足亜希子を通じて「ろう」という生き方を知り、憐れみではなく一つの生き方としての「障害」を知るであろう。

★★★ 僕は忍足亜希子が好きだ。それでいいじゃないか。


posted by ウィンズ at 14:23| 福岡 ☁| Comment(0) | 人権問題 | 更新情報をチェックする