2018年03月20日

作/武田一義、原案協力/平塚柾緒『ペリリュー/楽園のゲルニカ』1~今のところ3  白泉社 各六〇〇円+税

 だいたい三頭身で人物が描かれていれば、ギャグ漫画の類いだろう。つまりこれは漫画本だ。どう読んでも漫画本だし、登場人物も三頭身のかわいい男子だ。そう、男子だ。男子しか出てこない。
 第一巻の冒頭は、美しい海の写真、そして洞窟、朽ちかけた銃器の写真が出てくる。ページをめくると、海を見つめる三頭身の後ろ姿が呟(つぶや)く。
「ここに祖父がいた」
そして、美しい島の遠景写真。
〈ペリリュー島 昭和十九年 夏――〉
 三頭身の兵士が登場し、島の遠景写真が白黒の絵に変化する。現在から過去へ。島は、今も昔も同じ形をしていて美しい。その美しい景観は「まるで物語で描かれる楽園のようですよ」と、三頭身の兵士は故郷の母に語りかける。
「日本に帰ったらここでの見聞を元に冒険漫画を描きたい」
 まだ、彼は地獄を知らない。このようにして、この漫画は始まる。そう、これは、あの太平洋戦争を舞台にした漫画なのだ。主人公の田丸一等兵は、将来漫画で身を立てたいと思っている普通の若者だ。そして、ここまでの展開のように、ややのんびりした雰囲気の描写から始まる。しかし、その呑気な気分は、小山一等兵の言葉で否定される。
「田丸君は…俺らがこの島から生きて帰れると思ってるのかい?」
 南方では多くの島で日本軍が玉砕していることをこの小山は知っていたし、次は自分たちの番だということを理解していた。日本はそういう戦争をしていたし、その論理は沖縄戦や、八・一五以後の千島や樺太での民間人を巻き込んだ無謀な戦闘にも引き継がれていた。戦争が始まると、何のために戦争をしているのかがわからなくなり、戦争そのものが目的と化していく。それが、あの戦争だったのだろう。玉砕だの、本土決戦だの、まさに国を滅ぼしてもかまわないという〈誰か〉の声が、数多の兵士の、数えきれぬ国民のいのちを奪っていったのだ。
 丸山真男(政治思想史学者、一九一四~一九九六)だったと思うが、当時の国の指導者たちはみな「自分はそうは言っていないと責任を回避し、そういう雰囲気だった」とのたもうていた、と説明していたのを思い出した。そして、そうした雰囲気をトップの方針だと勝手に忖度して、将校たちの率いる戦場は存在した。
 この漫画も、米軍の空襲で地獄が始まる。空襲が去った後に、誰かが靴をひろった。なんと、靴には足が詰まっているではないか。当然のことだが、この兵士は靴の中に足だけを遺して、なすすべもなくこの世から消えた。そのように意味のない死に意味を付けるように報告がなされていくし、田丸もその仕事を命ぜられる。
「同じ死ぬなら勇敢に戦って立派に死にたいんだ」
と、戦死を覚悟していた小山も、敵の気配に驚いて足を滑らせ命を落とす。そんなふうに意味のない死が、次々と繰り返されるのだ。
 それは、アメリカ兵も同じだ。圧倒的に強大な戦力でペリリュー島に臨んだ米軍だが、白兵戦では兵士同士は時として遭遇する。戦死していく米兵にも母親がいて、「ママー!」と叫びつつ、日本兵の憎しみを全身に受けて死んでいく。しかし、なぜ日本兵の誰それが米兵の誰それを憎まなくてはならないのか。戦友の仇と一言で言ってしまうが、個人的には何の恨みもなく、それぞれ不運にも戦場で出会っただけのことである。
 そんな絶望的な状況でのペリリューの戦いに、三頭身で描かれた漫画的な兵士たちが邁進していく。漫画的に描かれていることで、リアリズムは抑えられているような気がするが、それゆえに、いやそれだからこそ、心の中に戦争の残虐さがカタチをなしてくる。
 戦争を漫画で描く。それは、実にカッコの悪い姿となって描かれる。笑うか、いや、笑えない。カッコの悪いことしかないのが戦争だったことがよくわかる。そして、あの連中はすべてを隠して国民に嘘をついてきたのだ。いや、彼ら自身も目に見えない雰囲気に呑まれて、妄想の中で戦争を起こしたし、止めなかった。
 第四巻は、二月末の発売だ。絶望的な戦いは早く終わって欲しいと思いながら(きっと田丸一等兵は思っているにちがいない)、わたしは発売日を待っている。
★★★★
 敢えてリアリズムを避けて、漫画としたところがすごい。教室の隅に置いておくだけでいいのかもしれない。マジで、戦争はやめようと思うだろう。昔話を又聞きで説明するような平和教育をしようとする前に、読んでおこう。



posted by ウィンズ at 23:40| 福岡 ☔| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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