2012年04月07日

架神恭介+辰巳一世『よいこの君主論』ちくま文庫 七八〇円+税

 困ったことなのですが、実は私のクラスがまとまっていなかったのです。受け持って二年目のクラスなんですが、最初から落ち着きのないクラスでした。子どもたちがバラバラで、いじめなんかもあるみたいなんです。人権・同和教育では学級集団づくりがたいせつだと言われるので、集団づくりとか仲間づくりとかで実績のある先輩たちの意見を聞いたり、時には指導してもらったりしてやってみたのですが、どうにも自分の思ったように子どもたちはいい集団になってくれないのです。
 そんな私の息抜きが時々応援に行くプロ野球なのです。今年は無事クライマックスシリーズも制して、さあ日本シリーズ!というときに読売球団の代表があの渡邉恒雄氏を告発するという事態が起きて、大騒ぎになりましたね。あのとき職員室でその渡邉恒雄という人物についていろいろ話題になったのです。というより、自分のクラス一つまとめきれない私ですから、あの読売新聞とか読売ジャイアンツとかを支配している権力者っていうのが少々うらやましかったわけです。それで隣の2組のY先生に話しかけてみたのです。
「Y先生、この清武代表ですか、あのナベツネに刃向かったっていうのが凄いですね。私なんか校長の悪口なんて、これっぽっちも言いきらんですもん。」
 そしたらY先生は、
「まあ、蟷螂の斧、とかいうんじゃないの。勝てる喧嘩じゃないだろうに。ささやかな抵抗ということにおさまるんだろうね。」
 とクールなことを言った。それを聞いていた3組のS先生が口を挟んできた。
「世論が味方すれば勝てると思ったんじゃないのかなあ。実際僕なんかも快哉を叫んだとこもあるよ。」
「あたしもちょっと溜飲を下げたわ。だけど、結局喧嘩には負けちゃったんでしょ。下げた溜飲が逆流してきたわ。うっぷ。所詮権力者には勝てないのかしら。」
 と、私はうまく両方に話を合わせてみた。
「そんなにナベツネの権力って凄いのかなあ。」
 S先生の疑問にT先生がしたり顔で言う。
「なんかね、官房長官が毎月だったか、毎週だったかナベツネのところに政情の報告に行くことになっているらしいよ」
「そんなバカな。権力者とはいえ、ナベツネは読売内部の人間だろう。民間人じゃないか、官房長官は国家を担っているんだぜ。ホントだとしたらどんな権力なんだい?」
「いや、そうだって。」
「ホントかなあ。誰が言ったのさ。ガセネタじゃないのかい?もしそうだとしたらこの国はおしまいだぜ。民主主義もへったくれもないし、メディアの横暴じゃないか。」
「確かにそうよね。新聞も読売だけじゃないわけだし、朝日もNHKもあるでしょうに。」
 私もS先生と一緒にT先生に反発してみた。
「い、いや、まちがいない。確かテレビで言ってた。」
 テレビか。テレビが言うにしても、根拠はあるんだろうし、そんな噂話をばらまかれても困る。それはみんなの疑問だった。
「でもさ、ほんとだとしたらさ、何でそんなふうになれるんだと思う?」
「興味あるわね。」
「僕も知りたいな。将来権力者になってみたいし。」
 あら、T先生の野望がちょっと見えたところで、チャイムが鳴った。実は私もあの統制の取れていないわがクラスの子どもどもを〈女王様〉として支配してみたかったのね。
 まずは渡邉恒雄がどんなに権力者なのかを確かめたくって、魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社文庫 七六二円+税)をひもといてみた。おもしろい。これは十年以上前に書かれた本だけど、まさに今の彼のことがよくわかる。と言うより、この本が書かれてからの十数年間も、渡邉恒雄はさらに権力者としての地位を確かにものにしつづけているのですから。私だって、学級の女王から、学校の女王ぐらいにはなってみたいしね。
 渡邉恒雄は、学生時代は共産党で組織体験をしていたんですね。そして、共産党を離れてから、読売新聞社に入ってのし上がっていく過程が実に見事に史実に基づいて描かれています。これは渡邉恒雄という一人の人間の出世物語としてもおもしろいのですが、処世術の本として読むとまたちがう味わい方ができます。なんせ、名もない学生が新聞社もしくは日本社会という世界でのし上がって行き、人心を掌握し、大組織を経営している話ですから、『三国志』とか、戦国大名の話などがお好きなビジネスマンにとっても興味深いところで、あっ、T先生もそういう管理職にでもなろうという気持を持っているわけか。ふふ、私は女王様よ。
 で、まあ、『メディアと権力』のなかで書いてあるのが、渡邉恒雄は哲学科の卒業で、そのことが彼にとって自信の源だったらしく、特にマキャベリの『君主論』が愛読書だと書いてあった。マキャベリズムってよく聞くのだけれど、実はあまり意味がわからないのね。なにしろ、哲学とは遠いところにいたから、ですね。それで『大辞林』をひいたら「①どんな手段でも,また,たとえ非道徳的行為であっても,結果として国家の利益を増進させるなら許されるとする考え方。イタリアの政治思想家マキャベリの思想から。 ②目的のためには手段を選ばないやり方。権謀術数主義。」とある。うーん、しかし、それはどんな哲学なんだろう?それに学級経営に使えるかなあ?少なくともあの子どもどもを支配するのには役に立つのかもしれない。
 ということで、ちょっとだけ知的好奇心がわいてきた私は本屋さんに行ってみました。『君主論』はいくつも翻訳があって、私は池田康訳『新訳 君主論』(中公文庫 七八一円+税)を選びました。新訳だから訳もわかりやすいんじゃないか、と思ったのです。そしたら、『よいこの君主論』(ちくま文庫)が目に入りました。なんと表紙に漫画っぽいのが描いてあります。パラパラ開くとゲーム本の解説みたいな漫画での人物紹介が出ているんですね。「ひろしくん(10さい)」とかあって、「勉強 C+、運動 B-、用兵 S……」とかなってて、人物評が載っている。思わず、これも買い求めてしまいました。文庫本だから安いものです。で、帰りにコンビニに立ち寄ったら、許成準『超訳 君主論』(彩図社 一二〇〇円+税)というのがあったので、これもゲット。何だか、もう君主になったみたい。
 そして、まずは正統派『新訳 君主論』から目を通してみました。そしたら、意外と読みやすいではありませんか。たとえば「一 君主国にはどんな種類があり、その国々はどのような手段で征服されたのか」「二 世襲の君主国」「三 混成型の君主国」「四 アレクサンドロス大王が征服したダレイオス王国は、大王の死後も、後継者への謀反が起きなかった。その理由はどこにあるのか」……という具体的な項目が二十六続くんですね。でも、そのアレサンクロドス、いやアレクサンドロスか。そんな舌を噛みそうな名前の王様なんて知らないし、どうしようかと巻末の解説をめくったら、マキャベリが『君主論』を書いた頃のイタリアは「北にミラノ公国とヴェネツィア共和国、中部にフィレンツェ共和国、南にローマ教皇領とナポリ王国という五大強国が並び立っていた」そうで、「それぞれの国はいずれも近隣の小国へ領土的野心をもち、外国の絶対王制の国々も虎視眈々とイタリア半島をねらっていた」とあるから、司馬遼太郎じゃないけど国盗り物語の真っ最中だったようなんですね。そして、マキャベリはそうした国々の興亡を分析して「国の分類」「軍事」「君主の資質」なんかについて解説しているのです。しかし、イタリアの歴史を知らないとよくわからないところがあるわけでひいちゃうところがあったのです。ところが、いわゆる「マキャベリ語録として知られる名言が随所に散りばめられ」ているそうで、なるほどそれなら現代の支配者希望の人たちの役に立ちそうな感じがしますね。
 それならと『超訳 君主論』を開くと、こちらはその名言らしきものを小見出しに持ってきて解説を加えている。副題に「マキャベリに学ぶ帝王学」とあり、「最強のリーダー論」と銘打たれているから、ぐっと現代に引き寄せてあるんですね。
 そして教師として気になるのは、やはり『よいこの君主論』ですねぇ。これはマキャベリの『君主論』を子どもたちが学べるように書いたものとなっています。前書きがすごいんです。「よいこのみんなへ」として「この本(ほん)ではクラスを制圧(せいあつ)するために役立つ(やくだつ)知識(ちしき)や、下々(しもじも)の者(もの)どもの心理(しんり)などをわかりやすく解説(かいせつ)しているよ。」と書き始められているのです。その次には「保護者の方へ」があって、「確かにマキャベリをビジネスに応用すれば、社長業の参考にはなるでしょう。ですが、社長になってから君主論を学ぶのでは遅すぎるのです」と、教育ママを刺激する言葉が書かれているではありませんか。教師としてはそそられるものを感じるではありませんか。そうだ『超訳』も『新訳』もとりあえず置いといて、まずは『よいこの君主論』から読もうと思ったのです。
 この本はマキャベリの『君主論』を下敷きにとある5年3組を舞台にして主人公「ひろしくん」がクラスを制圧していく過程を描いています。つまり、『君主論』で分析されているイタリアが5年3組で、ひろしくんやりょうこちゃんといったリーダーっぽい子どもは強国の君主。「うぞうむぞう」のクラスメイトたちは近隣の小国にあてはめて、子どもたちの権力闘争のポイントが『君主論』に則って描かれていると言ったらいいのでしょうか。そしてわかりました。私のまとまりのつかないクラスを最高の学級集団にする秘訣が、ですよ。ここで教えろ、ですって。ダメ。ふふふ、女王の座は譲れないから。ということではなくて、私は女王様にならなくたっていいことがわかったわけよ。
 ともかく、いわば権力志向の本を人権・同和教育の『ウィンズ』で紹介するなんてなんてことだ、とお叱りを受けるかもしれませんが、それはとんでもない見当ちがいというものです。確かに私は自分のクラスの集団づくりに悩んでいました。でも、この本を読んで上手くまとまっているクラスっていうのは、実は教師という絶対的な君主がいるということを意味しているのじゃないか、と思ったのですよ。マキャベリは多くの「君主」のあり方を研究して、それを主君メディチ家に献上したのですけれど、よく「目的のためには手段を選ばない権謀術数の書とも曲解」(新訳『君主論』解説)されているのは女王様のマニュアルみたいな評価のされ方をなされてきたということなんでしょうね。
 しかし、目的のために選んだ手段を記述したのが『君主論』で、君主と君主、君主と人民の関係のあり方を描いたものだと考えていいみたいなのです。そしてそうした人間関係を5年3組に置き換えてみれば、ひろしくんはじめ5年3組のお友だちはそれぞれが君主にたとえられるわけね。そして他のグループを制圧したりするんだけど、それは子どもだちの人間関係を意味していると考えたらいいのですね。君主とはリーダーであり、制圧というのは集団のリーダーとなること、と読み替えれば、ごくふつうのクラスの中の人間関係がそこにはあるわけです。そして子どもたちっていうのは自然にそういう集団活動をしているわけなのですね。そういう活動って教師の指導とは全く別個の動きなんです。
 そうそう、この5年3組にも担任はいるのですね。十文字先生というのだけど、この先生はまったく姿が見えないのです。遠足やらドッジボール大会や騎馬戦まで教師が出てきてグループ分けをしそうなところまで子どもたちが勝手にやっていて、それが学級の中の勢力図を形づくっているんですね。ありえないといえばありえない設定なんですが、それは子どもたちの自然な集団形成を観察する設定としてはこれでいいのです。で、この十文字先生は三学期になると突然産休でいなくなってしまうのですね。そして登場したのが厳格な指導力を発揮する産休代理の先生なのです。ここで、教師の指導力が学級をたばねるかというと、意外な展開となります。教師は(自分はそう思っているかもしれないけれど)子どもたちのリーダーじゃないのですよ。君主である子どもたちにとっては教師は不慮の災害みたいなものでしかないのです。それに上手く対応できた君主とその存在によってつぶされていく君主とが出てきます。そうなんです。子どもたちは教師の動きを見て政治的に対応しているわけなのです。だから私は女王様として子どもたちに君臨する選択肢は捨てました。それから、教師の意図で思うような集団づくりを試みるのもやめたのです。そうしたら、ええ、ばっちりでした。
 最後に5年3組を制圧したひろしくん、制圧された5年3組はどういう状態になったと思いますか。ひろしくんはみんなに慕われ、戻ってきた十文字先生の見た6年3組は子どもたちの表情がおだやかになり、いさかいもなく、よく学び、よく遊び、クラスは一丸となっていろんな行事に取り組み、「最高の一年間」になったということです。これは架空のお話だけども、きっと私のクラスもそうなるにちがいない。だって私には『よいこの君主論』があるから。



☆☆☆☆ 誤解と偏見で語られる『君主論』だけど、実は集団づくりのテキストなんです。そして職員室をまとめるにも、組合をまとめるにも、校長会を仕切るにも必読の書ですね。『よいこの君主論』を『超訳』や『新訳』とつきあわせながら読んでいくと人間関係を読み解いて、集団づくりに役立つこと請け合い。もちろんご自身の立身出世の野望にも役に立ちますよ。人望のない校長先生にも教えてあげてね。

※本文中二箇所「子どもども」となっているが、「子ども」の次の「ども」には傍点を付してある。
※「よいこのみんなへ」の引用に( )で括ったのはルビであります。
posted by ウィンズ at 10:13| 福岡 ☀| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする
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