2009年10月01日

北原かな子『洋学受容と地方の近代―津軽東奥義塾を中心に―』岩田書店、二〇〇二年二月、六四〇〇円+税

 東奥義塾は魅力的な学校である。私事であるが、四半世紀余前に私はこの魅力的な学校に出会った。もとはと言えば弘前藩校稽古館である。旧藩校の系譜をひくと自称する学校はいくつも存在する。そのほとんどは県立高校としてその地方の看板学校となっている。しかし、東奥義塾は私立である。そしてキリスト教の学校なのである。しかも、横浜とか長崎とかではない、雪深い東北の「奥地」である津軽の地にそうした学校がつくられたことに驚いたのである。
 東奥義塾に史料調査に赴いたとき、東奥義塾の戸沢武先生に二代目外国人教師マックレーの話をうかがった。戸沢先生はまだ若い青年が交通機関も発達していない時代に異国のしかもまさしく日本の「奥地」である津軽の地にやってきたことをまるで見てきたことのように語られた。その時私は愚かにも「マックレーはどういう気持ちでここに来たのでしょうね」とご意見をうかがった。戸沢先生は「おそらく若者らしい好奇心とか冒険心のようなものが彼を動かしたのではないだろうか」と言われたように記憶している。
 その好奇心とか冒険心を持っていたのはやってきたマックレーだけではない。戊辰戦争後の新しい国家の枠組みをつくる中で東奥義塾の創設を任された本多庸一や菊池九郎などは二十代半ばの若者たちであった。そうした若者たちの新しい時代に向かう夢のようなものが東奥義塾の歴史を繙いていくとずんずん伝わってきたのである。その若い息吹が東奥義塾という学校の魅力であった。
 そんなお話をうかがっていたときに賛美歌を歌いながら礼拝に向かう生徒たちの群が廊下を通っていった。東奥義塾はキリスト教主義の学校なのだからあたりまえのことだけれど、この学校がもとは旧藩校稽古館の系譜であったという先入観にとらわれてその光景を見たとき私は歴史のなかの異文化接触が現代に結実した姿として見えた。旧藩校と賛美歌という奇妙なつながりを現実に目の前にして私は歴史のロマンに感動した覚えがある。
 学術書の書評らしくもない書き方をしてしまったが、歴史研究には素朴な感動が必要なのではないかと思うのでよけいなことを書いてしまった。お許し願いたい。
 本書は北原かな子氏が東北大学に提出した博士論文だということである。しかも博士(国際文化)という学位を得られている。四半世紀前に私が東奥義塾についてささやかな論文を書いたときは小さな教育史の枠組みでしか見ていなかったような気がする。それに対して国際的な視野と地方からのまなざしとを融合させた実におもしろい著作として拝読した。本書の構成は以下の通りである。
第1章 東奥義塾開学
第2章 東奥義塾の洋学(1)
    ―ジョン・イング着任まで―
第3章 東奥義塾の洋学(2)
    ―ジョン・イングの貢献―
第4章 津軽地方初の海外留学生たち
第5章 アーサー・C・マックレーの活動

巻末資料
 第1章は東奥義塾開学の概要が記される。この時期の東奥義塾にかかわる資料の紹介と検討、主要人物や開学時の東奥義塾の状況や位置づけが描かれている。第2章、第3章は3代目外国人教師であったジョン・イングを中心として東奥義塾の異文化摂取の実態が綿密な資料を紹介しつつ描いている。第2章ではウォルフ、マックレー、イングという3代にわたる外国人教師の足跡と本多庸一の人物についての素描がなされ、第3章でイングの功績が仔細に叙述されている。イングが東奥義塾に遺したものは多々あるが、本書では「『東奥義塾一覧』の作成」「文学社会」「キリスト教」「女子教育」をあげている。『東奥義塾一覧』は私も使わせていただいたことのある資料であるが、北原氏はイングの母校インディアナ・アズベリー大学カタログと比較することで『東奥義塾一覧』を位置づけるとともに当時の東奥義塾の知的水準を検証している。私もかつて東奥義塾の知的水準を慶應義塾と比較する試みをしたことはあったが、本書の試みによって東奥義塾の実際の知的水準が明確になったと言えるだろう。「文学社会」は東奥義塾の活動において非常に重要なものであるが、やはりインディアナ・アズベリー大学との比較という視点が生きている。
 イングは5名の生徒を母校インディアナ・アズベリー大学に留学させている。第4章ではこれら東奥義塾が送り出した海外留学生たちの米国での学びの実態を豊富な資料をもとに生き生きと描いている。
 冒頭で第二代外国人教師マックレーに触れたが、実は彼が若かったことや在職期間が短かったことなどから存在そのものは軽く扱われてきた。しかし、マックレーは帰国後『日本からの書簡集』という著作を著しており、第5章はこの著作をもとにマックレーの再評価をはかろうとしている。
 以上見てきたように、北原氏は東奥義塾の初期を担った人物にまなざしを向けることで、日本の「地方」が近代を迎えるにあたり異文化を摂取しようとした過程を描こうとした。言うまでもなく津軽は日本の「奥地」であった。しかも弘前藩は戊辰戦争後の政治的選択を迫られていた。そして近代への生き残りをはかるために若い力を活用しようとした。それが東奥義塾だったというのが私の東奥義塾に対する見方である。そうした私の期待に本書の試みはじゅうぶんに応えてくれたと言えよう。そして魅力的な学校であった東奥義塾の魅力を引き出してくれている。
 ところで、巻末資料として東奥義塾所蔵洋書目録とマックレーの弘前城紹介文を含む英文資料が掲載されている。東奥義塾所蔵洋書は東奥義塾の知的実力を推し量る上で貴重な財産である。
 惜しむらくは本書には索引がない。せっかく人物に関する記述がふんだんに盛り込まれているので、索引があるともっと本書を楽しむことができると思う。


posted by ウィンズ at 15:10| 福岡 ☁| Comment(0) | 教育史及び教育学 | 更新情報をチェックする
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