2009年10月01日

梅村 佳代著『日本近世民衆教育史研究』 梓出版社

 本書は著者の「あとがき」によれば、梅村氏の郷学校に対する評価について石島庸男氏に批判を受けたことに触発されて成立したものであるということである。
 石島氏の梅村批判とは序章の冒頭に記されているので引用すると以下のことと思われる。まず梅村氏が「幕末・維新期の民衆の主体的な公教育組織化運動として、美濃国中津川村の郷学校=興風義校を、国学から、自由民権運動に転換する、その結節点における村政改革の一環として位置づけ、民衆の主体的な公教育組織化運動の自主的性格の側面を明確にした」のに対して石島氏が「郷学校は、その本質として、幕藩体制の危機の進行のなかで、支配階級が、民衆を慰撫掌握していくために封建権力によって組織された教化機関であり、そこには民衆の自主的自由は認められない」と指摘したのである。
 石島氏の批判に対して本書がどのような反論を呈するのかが本書を読んでいく楽しみになっていく予感はするが、まずは慣例に従い本書の構成を紹介しておこう。なお( )内は評者の判断で対象としている時代を示した。
はじめに
序章  日本近世民衆教育史研究の課題
第1章 寛政期寺子屋の一事例研究―伊勢国「寿硯堂」を中心にして― (寛政から文政)
第2章 幕末期農村の実態と奉公人―伊勢国飯野郡射和村の事例を中心として―                (慶応から明治)
第3章 幕末期伊勢国・志摩国寺子屋の実態の研究
(天保14年及び安政2年)
第4章 伊勢国の文人南川金渓の研究        (宝歴から安永)
第5章 幕末~明治前期民衆教育の展開―泗水義塾・精成塾を中心として―                      (明治)
付論  民衆の公教育組織化運動について―郷学校を中心に― (明治)
終章  日本近世民衆教育史の展望
  あとがき
序章は前述のように石島氏との論争の予感から書き出され、著者の課題意識の提示及び現在の寺子屋研究の段階と先行研究の総括がなされている。
第1章は伊勢国の寺子屋「寿硯堂」についてのモノグラフであり、第2章は第1章で明らかになった他国奉公について伊勢国射和村を事例に検証し、第3章では伊勢国の潮田寺子屋及び志摩国の栗原寺子屋についての実態分析である。第4章は伊勢国の地方文人南川金渓の思想形成と文人交流を追ったものである。第5章は一転して近代において中等教育にまで発展した泗水義塾、精成塾について実態を解明している。さらに付論として中津川村の郷学校「興風義校」を検討することから民衆の公教育組織化の問題に迫ろうとしている。この部分は前述の石島氏の批判に対する直接の回答をなそうとした部分なのであろう。
通読してみて、いくつか感じた個人的な感想を述べることで書評にかえたいと思う。
最も読者として関心を持つところは冒頭にあげた石島氏の批判に対してどのような対論が提示されるか、という点であろう。まずは序章において著者が如何なる問題意識を提示するかを期待して読みはじめたが、少々物足りなく感じたことは否めない。序章においては郷学校と寺子屋に対する全く異なった評価を下している石島氏と津田秀夫氏の説など列挙して、要は郷学校と寺子屋の担い手階層の歴史的性格を解明することの必要性を提起し、寺子屋についてはその発生要因に商品経済の展開に加えて農民層の分解をあげるにとどまっている。さらに本論中においては、寺子屋が身分制の所産か否かという著者をも巻き込んだ石島・津田論争の本質的な問題について第1章の注(24)において著者の見解が「私は小松氏のいう寺子屋の即自的な自発性を肯定し、石島庸男氏のいう変革期を生きる民衆の危機への対応のありかたとしての絶えざる自己の主体性確立への自己貫徹のための学問・教育への志向と努力の所産として、幕末期の寺子屋を把握する考え方を肯定したい」としてあらためて述べられているが、単なる決意表明にとどまっているように思える。読者としては決意表明ではなく歴史的検証に裏づけられた議論がほしいところである。
そうした意味での著者の反論としては付論が相当するといえるが、著者がこの付論において設置者が村の支配層であり、内容としては「儒学教育」を中心に「洋学」を取り入れたとしているが、そのことが「普通学としての儒学封建教学を民衆に授ける性格」と石島氏によって規定される郷学校を「弱体化しつつある権力の代行として封建末端支配機構に位置する町・村役や権力に迎合した豪農豪商層が自らの保身・形成との両面から設立・組織化に進むのではないか」(石島1973)という批判に答えたことになるのであろうか。さらに言うならば郷学校と寺子屋の性格の相違について本書は答えを出すことなく終わっているように思えるのだが評者に読み落としがあるのだろうか。
 第2点として著者の民衆観及び民衆の教育観に対する疑問がある。著者は農民層の分解を寺子屋発生の要因としてあげた上で「幕藩体制そのものの身分支配への抵抗をあらわしてくるそのような農民層の学習意欲、文字学習要求を寺子屋開設、維持への基礎的基盤としてみとめる」(8頁 傍線新谷)ことを試論的に提示している。しかし、この引用部分にさしかかったところで大きな疑問を感ぜずにはいられなかった。
 おそらく傍線部分の民衆観が著者のア・プリオリに抱いている民衆観なのであろうが、このことこそが本来は本書において立証されなければならないのではないだろうか。例えば明治6年に西日本各地でいわゆる学制反対一揆と称される民衆の法規があったことは周知のことであるが、その際の民衆の要求のなかに「旧藩主帰国」や「解放令反対」等の身分制にかかわるものが盛り込まれていた例も少なくはなく、被差別部落を焼き討ちにし、殺戮を加えた事実も明らかになっている。私見ではあるが近世社会においては「民衆」はある側面では身分制によって保護されていた部分もあったとは考えられないだろうか。そうすると著者のいう「農民層の分解」という現象は「民衆」の身分制解体に対する不安を助長するものとして顕在化し、身分制による保護にかわるものとして著者のいう「民衆知」を求めたのだという見方も成り立つのではないかと思えるのである。 また寺子屋と民衆の関係についても例えば「幕末には、寺子屋教育が、民衆の新しい自己形成を求める自主的な教育要求の所産として、広汎に成立してくるのであり」(85頁)という表現も同様のア・プリオリな思い入れによるものと読める。果たして何を以て「新しい自己形成」であり、「自主的な教育要求」とするのか本書中には著者の見解は読みとることができない。同様の表現は随所にみられるが、民衆を愛すればこそ過剰な形容詞を避け冷静な目で民衆を見つめることが必要なのではないだろうか。
 次に近世民衆教育史を叙述していく時に歴史のダイナミズムを如何に描くかということは重要なことである。本書の各章で扱われた事例が取り扱われている主要な時代は前掲の構成に付しておいたが、著者は「幕末の明和期から、寛政期にかけて」(52頁)というような叙述にみられるように幕末期を幅広くひとつの時代区分でくくれるかのような書き方をしているが、変動期である近世後期(敢えて幕末とは言わないでおく)を、民衆の新しい自己形成というような視点で描くときにはそれぞれの歴史的ダイナミズムを考慮にいれた編成とそれぞれの課題意識を設定してほしかったと思う。また、本書が近世を対象とし、近代は軽視されてもやむを得ないのかもしれないが、近代の叙述ではかなり気にかかった部分がめだった。例えば1891年頃までの就学率の横ばい状況が「明治政府の教育政策に対抗的に存在していた民衆運動およびそれらとむすびついた教育活動が全国的に展開されていたことによって政府の政策が容易に貫徹しえなかったことのあらわれである」(282頁)と書いているのはどうしても首をひねらざるをえない。この文章の注に安川寿之輔氏の論文があげられているが、安川氏は明治期の社会経済的発展が就学率と関連していると説明しているのであって、注の付し方にも問題はある。また「(幕末から明治にかけての20年間に)民衆自身の自主的な教育活動も又この間様々に展開していた。寺子屋・私塾・郷学校での教育である」(283頁)として指示された表は中学校の統計表であるのも近世と近代の歴史性を無視した叙述であるように思える。
本書の中核をなしているのは「寿硯堂」「奉公人」「潮田・栗原両寺子屋」「文人南川金渓」「泗水義塾・精成塾」についてのモノグラフである。特に寺子屋の実態叙述は非常に詳細で興味深いものであった。丹念に個人のレベルまで追跡した努力には敬意を払うものであるし、近世という時代を生きた民衆の生きざまが浮き彫りにされていると思う。その意味では『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書』に匹敵する材料を提供してくれたのではないかと思う。


posted by ウィンズ at 15:06| 福岡 ☁| Comment(0) | 教育史及び教育学 | 更新情報をチェックする
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