2009年10月01日

原田久美子氏の論文『「男女混合名簿」につらぬく反動的な路線』を読んで

「人民教育」二二四号(通巻二八九号)に原田久美子氏の『「男女混合名簿」につらぬく反動的な路線』と題する論文を読んでこの教師の非常に不真面目な姿勢に不快感を抱いたので、敢えて筆を執らせていただいた。私自身は人民教育同盟のメンバーでもなく一読者にすぎない。毎号「人民教育」を講読しているのは、人民教育を標榜する教師ならば子どもの側にたった教育実践を学べるだろうとの期待からである。そして実際に本誌に報告される実践に共感しうるものが少なくなかったからである。しかし、この原田氏の論文を読んで、これが人民教育同盟の教師たちに共通する考え方ならば、私は人民教育なるものがまさに政治主義的な子ども(人民)不在の教育に堕落していくのではないかという危惧を抱いた。

  原田論文の基本姿勢について

 原田氏はまず日教組や各教組の運動のなかで「男女混合名簿」がとりくまれたり、婦人部から女性部への改称がなされたりする動向について、これらを「婦人解放運動と教育運動を「差別」「人権」問題にきりちぢめている」と断定し、そうした運動は「反動の方向である」と決めつけている。ここに大きな論理のすり替えがあると思う。主義と日和見主義がうかがえる。本来批判すべきはこうした進歩的な運動をよそおって支配階級の教育支配が進行していることであって、「男女混合名簿」そのものや婦人部から女性部への改称が反動的ではないはずだ。ところが原田氏は「男女混合名簿」そのものを否定し、女性部への名称変更にも反対している(実際、原田氏は最後まで婦人という用語をこだわって使用しつづけている)。人間は男女を希望して生まれてくるわけではない。出身階級も自分で望んで生まれてくるわけではない。平等に扱うべきところを平等に扱うことがなぜ問題なのであろうか。
 この冒頭の論の展開から判断して、原田氏はあきらかに「男女混合名簿」を反動的とみなし、婦人部から女性部への改称も反動的だとしてこれらに反対であると明言している。つまり、男女の名簿は別であるべきだし、組織の名称は婦人部がよいのだと言い切っている。このことは女性解放運動の文脈でいえばまさに反動的なのではないだろうか。女性解放運動は女性に対する抑圧、差別からの解放の運動である。そうした抑圧、差別のシステムを作ってきたのは、男という性の支配する社会である。それは確かに原田氏のいうとおりに超階級的な運動である。超階級的ということは人間普遍の問題であると考えてもよい。その抑圧の根本課題を人民教育にとりこまずして人民の側にたった教育はありえない。原田氏の誤りは超階級的な運動を人民教育に取り込もうとせず、超階級的であるからといってその抑圧にまわったところにある。だから男女を平等に扱おうとすることにはことごとく反対することになってしまう。そこには文部省や労働組合の右傾化に対する政治的闘争だけが浮き上がり、肝心の抑圧され、差別された人民や子どもの視点がまったく見られない。だから政治主義なのであり、人民や子どもから目をそらしているが故に教師として日和見主義に陥っていると言いたいのである。




   原田氏の「超階級的男女平等論批判」について

 原田氏は「男女混合名簿」を推進する人たちの意見を四点に整理した上で、これらの実践を「区別は差別」という観点だと総括して、こうした観点からの実践を「男女の性のちがいや肉体的特質の差異そのものを否定するものである。」と否定しているが、この原田氏の見解は男女平等教育に対する無理解を示している、としか言いようがない。男女を区別しないという実践は肉体的な差異を否定するものではなく、人間としての尊厳において区別も差別もしないと言うことであって、それゆえに男女の性をお互いに尊重し合うという視点に立っているはずである。
 しかし、私が言いたいのは原田氏の人民教師としてのもっと重大なあやまりについてである。私は原田氏に敢えて問いたい、学校とはいったい何なのか。学校がこの百二十年間果たしてきた役割は何だったのか、と。日本の学校はもとより人民のために存在するものではなく、国家自身の人民支配装置として発展してきたものである。そしてその役割は現在にいたってもまったく変わらずにいるのである。そして権力の支配装置であるということは、授業のなかで教えられる知識やものの考え方が子どもを思想的に洗脳するというようなことを意味しているのではない。学校にはさまざまな家庭(階級と言ったほうが原田氏には理解しやすいだろうか)の子どもが集まってくる。学校が国家権力の支配の装置として成り立ってきたのはそうした子どもたちが学校生活をくぐることで善良な国民の生活様式を常識として身につけてしまうという意味においてである。いいかえるならば学校文化はイデオロギーそのものであり、子どもたちはその中で息をしていくだけで国家のイデオロギー教育に染まっていくということなのである。日の丸をあげるとか、君が代を歌わせるなどということだけが学校の行うイデオロギー教育なのではない。そうした目に見えるイデオロギーは子ども自身にもじゅうぶん批判することはできるし、そういう教育は原田氏もやってこられたはずだ。しかし、重要なのは学校にいると当たり前で気づかない学校の文化であり、それが権力のイデオロギーだと言うことである。そしてそうした文化はごくありふれた風景であるから政治的な活動家にはとるにたらないものにしか見えないだろう。しかし、そうした目に見えない文化こそが学校教育の真骨頂なのである。学校文化の総体がイデオロギー性をもっているから、それをそのまま受け入れて子どもたちは成長していくのである。それは教育学のなかでは Hidden Curriculum つまり隠されたカリキュラムという言葉で説明されるものである。そうしたものの一つの例が男女別の名簿であり、いつでも男を先に、女は後という行動様式を学校がとっているということである。もちろん、そうした学校文化のイデオロギーは性差別の問題だけではない。
 国家権力はこの百二十年の間学校文化の中にほとんどの人民を取り込み、文化的に教育してきた。もちろんこの文化になじめない者は排除されてきたし、この文化を獲得できなかった者は社会が排除し、差別してきた。そしてそれを実践してきたのはほかならぬ教師たちである。このことをすなわち、人民の側にいる教師が確認しなければならないことはこうした自分自身の位置と役割なのである。性差別に関しては確かに原田氏が言うように「問題なのは、支配階級がこの性のちがいを利用して、婦人を社会的、経済的、人間的に低い地位におとしめていることである」が、それをよしとする文化的な価値観は学校文化の中で形成されてきたのである。原田氏が敢えて「男女混合名簿」に反対するというのはそのまま学校文化に内在する国家権力のイデオロギーを国家の教師として子どもたちに無言で伝えていく役割を負うことになるのである。


※この論考は『人民教育』編集部と話し合いの上ボツになった。
posted by ウィンズ at 14:24| 福岡 ☁| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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