2017年05月10日

学校沿革史研究部会;山谷幸司・米田俊彦 学校沿革史の研究 高等学校編1、2


 本書は野間教育研究所紀要第50集及び第57集として刊行されたものである。野間教育研究所で2000年10月に立ち上げた「学校沿革史」研究部会が、高等学校および大学の沿革史の研究をおこなってきたが、2008年7月にその成果として『学校沿革史の研究 総説』を刊行、次いで2011年9月に『学校沿革史の研究 高等学校編1 長野県の高等学校沿革史』、2013年7月に『学校沿革史の研究 大学編1』が、そして2015年8月に『学校沿革史の研究高等学校編2』、2016年2月に『学校沿革史の研究 大学編2』が刊行された。『総説』の「はしがき」によれば、「学校沿革史という作品がもつ教育史研究、歴史研究の側面について、その成果を確認し、評価してみようという趣旨」に基づくものであり、「評価の観点や基準を示すことができれば、今後編纂される学校沿革史に対して編纂の指針を提供することができるであろう」という目的が示されていた。であるから、総説、大学編も含めて紹介するのが妥当なのかも知れないが、本稿ではこのうち高等学校編について紹介しておくことにとどめることとする。
 前述のように『高等学校編1』は2011年の刊行であり、米田俊彦の単独執筆である。それから4年を経て『高等学校編2』の刊行となった。こちらは山谷幸司と米田俊彦の共同執筆となっている。「学校沿革史」研究部会の方針では高等学校沿革史においては(1)都道府県単位の比較分析、(2)テーマ別比較分析、(3)個別沿革史の検討という枠組みを設定している(『高等学校編1』「刊行に際して」)。
 『高等学校編1』は「長野県の高等学校沿革史」とサブタイトルが付されているように長野県を事例に「都道府県単位の比較分析」を試みた結果(5頁)である。長野県に限定したのは東日本大震災により宮城県担当の山谷氏が執筆できなくなった所為で、「宮城県については、高校沿革史の「(2)テーマ別比較分析」「(3)個別沿革史の検討」の検討結果を刊行する際に合わせて収録することとした」(「刊行に際して」)という。『高等学校編2』はそういう位置づけで執筆されたと考えたい。『高等学校編1』では長野県の高等学校沿革史についての概要を一覧できるようにした上で前身校が中学校、高等女学校、実業学校などの種別ごと、および「複数(異種)の学校を統合」したもの、戦後創立の高校、私立高校に類型化し、比較分析を行おうとしている。各沿革史の内容の特徴が簡潔に抽出されていて、それらを読み比べるとなるほど各沿革史の編集方針や姿勢のちがいはよくわかる。「おわりに」では類型別の比較分析のまとめがされているものの、これから沿革史を編集しようとする人間から見れば、読者自身の比較の眼に期待する部分も大きいと思う。それだけ的確に各沿革史の特徴が抽出されているので、新たに高校沿革史の編纂事業に取り組む高校があるならば、参考になる事例は類型を超えて存在すると思う。
 『高等学校編2』は大きく2部に分けてある。第1部は「都道府県単位での沿革史の比較」であり、第2部は「テーマ別比較分析」である。第1部の第1章が宮城県第2章が神奈川県を扱っているが、宮城県については6校のそれぞれの沿革史の編纂方針、構成と内容が要約されている。一方、神奈川県については旧制中等学校を前身とする県立高校という制限がつけられ、まずはそれらの沿革史の概要が網羅的に展開され、次いで通史的叙述が充実している横浜緑ヶ丘高校、川崎高校、鶴見高校の3校に絞って比較分析をおこなっている。第2部のテーマ別比較分析は長野県の定時制課程、神奈川県の男女共学という二つのテーマ別の検討をおこなっている。戦後のある時期、定時制課程は青年教育において重要な役割を果たしてきたはずである。本書では長野県に限ってはいるが、定時制課程の沿革史を並べてみていくことで戦後史における定時制課程の存在感が伝わってきた。また、男女共学も戦後〈民主〉教育の華であったが、沿革史の記述を比べて見ていくとそこに良いも悪いも戦後教育の衝撃が浮かび上がってくる。まさしく男女共学は戦後教育のもっとも大きな衝撃ではなかったか。それが沿革史の叙述を並べていくとすごみを帯びてくるからおもしろいものである。
 ところで、比較分析の手法が執筆者によって異なるのは地域の特性の所為なのか、執筆者の趣味なのか。読む方としてはもう少し整合性がほしかった。また、当初想定されていた(3)個別沿革史の検討といった枠組みはどこへ行ったのか。宮城県に関していえばそれに相当するものと考えていいのか、明確ではなかったと思う。しかし、本書が多くの沿革史編集者の手元に置かれることで、これからの高校沿革史編纂事業は確かな土台を得たということができよう。

財団法人 野間教育研究所 2011年9月発行 A5版 232頁 5,000円
公益財団法人 野間教育研究所 2015年8月発行 A5版 295頁 5,000円
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辺見庸『1★9★3★7』金曜日 二三〇〇円+税



 『1★9★3★7』と書いて「イクミナ」と辺見庸は読ませるのだ。なぜかって?まずはその一九三七年と言えば、夏に盧溝橋事件が起き、年末にはあの南京事件、いわゆる南京大虐殺が行われた年だった。おっとここで何かいいたがる御仁も出てくるであろう。昨年、南京の資料館が世界遺産になったときに日本の閣僚たちが渋い顔をしていたのを思い出してほしい。かれらはブツブツと何かほざいていたが、公式声明は出さずに不本意な顔をしていた。
 何でか。
 かれらはあのことをなかったことにしたいからだ。しかし、あったことはなかったことにはできないので、大きな声での否定はできなかったということだった。
 世間には南京虐殺がなかったと言う「愛国者」、もとい歴史修正主義者が多々いる。歴史修正主義というのは、なかったことをあったことにする、ないしはあったことをなかったことにする人たちのことを言う。
 なかったことをあったことにするというのは神話を歴史にしたがったり、「江戸しぐさ」みたいに昔はいいことがあったにちがいない、というでっち上げのことだ。
「昔はもてたのだ」という中年のおっさんの自慢話のようなものかもしれない。その程度では特に傷つく人もいないから笑ってすませられるが、そこに具体的な女性の名前や初めて聞く子どもの名前が出てくればただではすまないかもしれない。もしかすると骨肉の争いに発展するかもしれないからだ。
 一方、あったことをなかったことにしたがるのは、過去に起きたことが不都合だと思って変えたがる人たちのことだ。誰でも自分のまちがいは隠そうという意識はあるだろう。先ほどの例で言えば、過去は清算しておきたいものだからだ。一九三七年当時、日本はなぜか中国にいた。中国のおかれた国際的な立場はあった。なぜか日本も便乗してそこにいたのだ。そして盧溝橋事件みたいなものが起きる。誰が原因か、というのは歴史的には問題のすり替えだ。なぜそこにいたのかというほうが問題だからだ。自宅でだれそれに殴られたというときに、どちらが先に手を出したかということより、その誰それがなぜそこにいたのかというほうが問題であるにちがいない。
 多くの兵士たちが南京に行って、いいお兄さんのままで帰ってきたわけではないだろう。辺見庸は主語を明確にしてこの年のことを問う。
「父祖たちはおびただしい数のひとびとを、じつにさまざまなやりかたで殺し、強姦し、略奪し、てっていてきに侮辱した」(16頁)と。
 えっ!そんなことはなかった、って? そんな虐殺はしてない、って?
 それでは、あの「百人斬り競争」の記事が「皇軍」兵士の誇るべき武勇談として、写真入りででかでかと載っていたではないか(18頁)。と言うと、「あれは捏造だった」とか「あれは誇張だった」とか言う声が上がる。そうしてコトをなかったことにしたい人々の不都合が問題なのだ。「日本国の名誉を守りたい」①と言う人もあるだろう。しかし、このことが武勇談として新聞記事となり、国民はそれに何の異論も唱えずに喝采を送り、本人たちも戦後になるまでは否定しなかったことは何を意味するのだろうか。
 辺見庸は言う

自らの父親について問う。
「こいつは人を殺したのか」と。
 父親は何も語ることはなかった。辺見庸はそこに人間の闇を見る。その闇を描いたのは描くことでしか、生きることが出来なかった小説家であったのかもしれぬ。辺見庸は本書を書いた理由を次のように述べる。
・・・わたしじしんを「1★9★3★7」という状況に(ないしはそれと相似的な風景)に立たせ、おまえならどのようにふるまった(ふるまうことができた)のか、おまえなら果たして殺さなかったのか、一九三七年の中国で、「皇軍」兵士であるおまえは、軍刀をギラリとぬいてひとを斬り殺してみたくなるいっしゅんの衝動を、われにかえって狂気として対象化し、自己を抑止できただろうか―と問いつめるためであった。おまえは上官の命令にひとりそむくことができたか、多数者が(まるで旅行中のレクリエーションのように、お気楽に)やっていた婦女子の強姦やあちこちでの略奪を、おい、えまえ、じぶんならばぜったいにやらなかったと言いきれるか、そうしている同輩を集団のなかでやめさせることができたか―と責問するためであった。(19頁)
 こういう辺見庸の問題意識をまずは共有しようではないか。辺見庸は多くの、いや殆どの当事者が語らない事実に迫っていく。辺見庸はそこに人間の闇を見る。闇は闇のままにしておきたいものだろう。辺見庸はその闇をひるむことなく読み解いていく。そして自身の父親をうたぐり、ついに父親の体験にまで迫るのだ。父親もまた黙して語らずに戦後を生きて来たのだが、その言葉の端に体験したものでしか口にできないことを辺見庸は見出す。
 思えば、僕の友人が言ってた。自分の父親となにかのはずみで戦争体験の話になったときに見た父親の目の昏さに、「ああこいつは人を殺したことがあるな」と感じたそうだ。どういうかたちで感じたのかはわからないが、辺見庸の場合は具体的な言葉を引き出してしまった。
 そう、言葉なのだ。事実を歴史の闇の中に隠蔽したとしても、体験者の言葉のはしはしに事実の記憶がついてくるのだ。それを辺見庸は戦争文学の中から拾い出し、体験者の発言から引き出してくる。「生肉の徴発」「シトツ」「ツンコピン」「スリッパで殴る」というような言葉が実際に現実を記憶する言葉としてあらわれてくるのだ。なかったことならばありえない言葉として。
 本書はわれわれ自身に強く問いかける。じぶんだったら、そこで何をするだろうか。戦場に行ったら何をするだろうか、と。そこには自分の自由選択の場はない。そこには「敵」なる人間と親しく交際する場はない。殺しあう場であり、自軍が優位になれば殺す一方の場になる。それはその場にいる人間一人の責任ではないのだが、行為に対する報いは個人に返ってくる。「皇軍」兵士として敵兵を殺したとしても、一人の人間を殺したことは個人のしたこととして。「皇軍」兵士として強姦や略奪に荷担したとしても、やった自分というのは消えることはない。みな自分のしたことを自分で引き受けなければならないのだ。だから人間はそうした記憶を闇の中に葬ることにする。いつか若き愛国者たちが、「父祖たちは悪い人たちではない。此の国は良い国だから、そんな非道いことをするはずがない」と自分のしたことをなかったことにしてくれる日が来るときを待って。
 そしてこの状況は今もあちこちで続いているのだし、わたしたちが再び体験しかねないことでもあるのだ。
 
☆☆☆☆  歴史というのはかくかくしかじかの出来事がありましたよ、と並べてみせるものではない。歴史を作り、歴史の中で生きて来た人間の記憶の中に染み込んでいるものなのだ。その記憶が消えて行くにしたがって、なかったことにしたい事情を抱えた人々があらわれる。此の国を愛するのならなかったことにするのではなく、起こらないようにすることがたいせつなのだから。そしていったん犯してしまった罪はひとりひとりの兵士の中で消えることはないのだから。
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加藤陽一『キーワードで考える 部落問題はじめの一歩』公益社団法人福岡県番犬研究所 一〇〇〇円+税



「もしもし、あ、おかあさん、今度学校で部落史の授業やるって言ってたでしょう。でも部落史って難しいよね。そこでね、授業の準備にとっても便利な本が出たんだ。『キーワードで考える 部落問題はじめの一歩』っていうの。近世政治起源説とか、賤民廃止令とか、水平運動とかね。そういうよく知らなかった言葉を目次から探すと部落史の基礎知識がわかるようにできているんだ。そうそう部落史だけではなくてね、同和対策事業とか、地名総鑑とか、全国統一応募用紙みたいな戦後の部落問題や同和教育にかかわる言葉や現代の人権問題でよく使われる言葉もキーワードとして載っているから人権の授業や研修にはすごく役に立つ参考書だと思うんだ。ほら、知っているようでいて、きちんとは説明できないみたいな、そういう言葉があるでしょう。C・S・Rみたいな。そういうのも載っているんだから、親切でしょう。そうしたキーワードから部落問題の知識がていねいに説明されているから、まったくの初心者でもすぐにわかるし、おかあさんみたいなベテランの教師でも便利に使えるんだ。それにね、これはブックレット菜の花シリーズのいちばん新しいものだからわかると思うけど、邪魔にならない大きさなので持ち運びにもいいと思うの。だから授業の準備じゃなくても、いつでも読める読み物としてパラパラっと目次を開いて気になるキーワードからそこを見れば簡潔にわかりやすく、それでいてけっこう詳しく書いているので読むのにかまえる必要はないの。読みたいときに読みたい箇所を拾い読みしていけばいいから、おかあさんみたいに時間のない人にもいいみたい。そしてそれぞれの項目の中を読んでいくとまたまた要注意のキーワードが太字になっていて、次の学びがしやすくできているのね。そうそうこの本を書いた加藤陽一って人は北九州市で中学校の先生をしてきた人で北九州市の同和教育を引っ張ってきた人みたいよ。そうそう加藤さんが部落問題と向き合ってきた歴史も第二部で『識字学級三十年』としてまとめられているのね。もちろんこちらは六十頁くらい通して読まなくてはいけないから、ほら通勤のバスの中で読むといいかもしれないよ。えっ、車酔いするんだっけ?それなら寝る前にベッドで読むのがいいかな。加藤さんが歩んできた道っておかあさんの教師歴と重なるんじゃないかな。でも加藤さんの部落と向き合ってきた生き方ってすごいよ。ついつい引き込まれて読んでしまった。そうそう注文はお近くの書店に申し込むのもいいし、福岡県人権研究所に直接注文するといいよ。電話番号を言うからメモしてね。〇九二ー六四五ー〇三八八。〇九二ー六四五ー〇三八八だよ。パソコンが使えるならネットで注文するのが便利だからこのアドレスを検索するといいから書き留めておいてね。福岡県人権研究所の注文フォームだけど頁のずっと下の方だから探してみることね。
http://www.f-jinken.com/books.html

☆☆☆☆ 「そうそう忘れてた。福岡県人権研究所のブックレットはこれで十九冊目。本書を買うのを機会にいろいろ合わせて買ってみるのもいいと思うよ。ネット注文は簡単だよ。」
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原田実『江戸しぐさの正体―教育をむしばむ偽りの伝統』星海社新書 八二〇円+税



 道徳が教科化されるっていうし、『心のノート』はそのための教科書の準備みたいなかたちで『私たちの道徳』というガッツリした本となって手元にあるはずだ。その文部科学省著作の『私たちの道徳 小学校五・六年』を開いてみよう。その58頁に「江戸しぐさに学ぼう」という教材が載っている。
〈江戸しぐさ〉
 聞いたことあるだろうか。当然、聞いたことのある人は知っているし、聞いたことのない人は知らないだろう。だけど着実にあちこちで企業の研修なんかでもてはやされているらしい。
 『私たちの道徳』ではまず、「三百年もの長い間、平和が続いた江戸時代に、江戸しぐさは生まれました。江戸しぐさには、人々がたがいに気持ちよく暮らしていくための知恵がこめられています。」と紹介されている。なんとなくひかれるではないか。そして「かた引き」、「こぶしうかせ」、「かさかしげ」、「おつとめしぐさ」という四つの〈江戸しぐさ〉が枠囲みで紹介されている。どういうことかというと、たとえば「かた引き」というのはせまい道で人とすれちがうときに互いに右の肩を後ろに引いて相手にぶつからないようにすることであり、「こぶしうかせ」というのは複数の人が一緒にすわるとき、一人でも多くすわれるようにみんなが少しずつ腰を上げて場所を作ること、なのだそうだ。
 大都市であった江戸でお互い仲良く暮らしていくためのちょっとした心遣いなのだそうだが、どこかで聞いたことのあるような表現だなと思ったのですな。
 そう言えばわが愛読書の池波正太郎の『鬼平犯科帳』(文春文庫 全二十四巻 時価)に似たようなのが出てくる。「お勤め」、「急ぎ働き」、「嘗め役」、「引き込み」、「盗人宿」といった用語だ。これらを『江戸時代語辞典』(角川学芸出版 二二、〇〇〇円+税)で引いても全く出てこない。主人公の鬼平こと火附盗賊改長谷川平蔵は実在の人物であるが、小説はもちろん池波正太郎の創作であり、ここに出てくるもっともらしい用語はすべて池波正太郎が小説にリアリティを持たせて作った造語であるからだ。
 ほら、なんとなくひびきが似ているだろう。「江戸しぐさ」もまた学術的著作のどこにも出てこない。ふつうこの段階で怪しいと気づいてもよさそうなものだが、この表現のもっともらしさが落とし穴なのだ。そういえば、この池波鬼平用語を実際に江戸時代に使われていた言葉だと信じ込んでいたのが友人にいる。笑ってしまうが、そこに池波正太郎の凄さを見てしまう。
 〈江戸しぐさ〉も似たような江戸っぽい表現なのだが、鬼平が小説として書かれ、時代劇として上映されていたのとは異なり、こちらは事実として語り、広められていることだ。それで、研修などという名目で一儲けしているのだろう。もとい江戸商人の行動哲学だという触れ込みだから、企業なんかじゃニーズがあるんだろう。
 ところで、だ。私たちはいろんなガセネタにだまされたことがある。霊感商法、血液型と性格、体型と民族の優秀性、野菜スープで癌が治るなど、どこかで聞いたことがあるだろう。まことしやかに人の心の隙間に入ってくるこうした嘘も罪のないものならば問題はない。有名な血液型と性格についても、それで楽しんでいるうちはいいが、ブラッドタイプハラスメントのようなものになってしまえば、問題だろう。例えば、「AB型の性格は嫌いなのでつきあわない」などというふうに使われれば、血液型と性格というガセネタは放っておけるものではなくなる。つまり、笑ってすませられる話と笑えない話とがあると言うことだ。
 で、この〈江戸しぐさ〉だが、江戸時代の史料や文献など、どこを探してもそういう言葉は出てこない。不思議だろう。で、著者の原田氏はそこを徹底的に調べ上げてこれが〈偽史〉だと断定する。〈偽史〉であるということは何らかの作為があって歴史が捏造されたということだ。それは池波正太郎が長谷川平蔵という実在の人物をおもしろおかしく脚色して小説にしたのとはわけがちがう。『鬼平犯科帳』を読んで、「これは嘘だ!」と怒る人はいない。池波正太郎も「これは史実だ」とは書いていないし、あくまでエンターテイメントとして書いた小説だ。しかし、〈江戸しぐさ〉は・・・・
 〈江戸しぐさ〉は芝三光という人物によってつくられた偽史であると本書は解明している。偽史であるということは霊感商法のように特定の価値観に人を騙して導く、それは知的犯罪だと言っていい。その特定の価値観とは、本書によれば芝氏の育った昭和戦前期の生活感に基づいたもののようだ。ということは教科化を迎えようとしている道徳はそのような価値観を子どもたちに刷り込もうと考えているように思われる。
 実際、〈江戸しぐさ〉は『私たちの道徳』だけではなく、何種類もの道徳の副読本に載り、なんと検定済みの『中学社会 新しいみんなの公民』(育鵬社)という教科書にまで載っているのだ。しかもこの教科書は採択をめぐって大騒ぎになったことで記憶に新しい。そして、子どもたちの道徳をむしばんでいくことになる。この背景には「自民党=安倍晋三ラインの支援を受ける形で教育現場に広まっている」という動きがあることも本書は指摘しているのは興味深い。
 偽史に対して正史という歴史がある。これは正しい歴史という意味ではない。正史とは「国家が編纂した正式の歴史書」(『広辞苑』)である。つまりは国家を正当化する歴史であって、戦前の正史というのはもちろん皇国史観に基づいた歴史観である。それがどういうものであったかおわかりであろう。そのためには〈江戸しぐさ〉が偽史であることを見破るわざを本書から学ぼうではないか。


☆☆☆☆ まあ、文科省や育鵬社が勇み足をしちゃったけれど、検定はそれを認めてしまったことは恐ろしいことだ。監視の目をゆるめないことだな。
 
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伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう-世界の「対立」を仕切る』朝日出版社一七〇〇円+税


 これを書いている今、集団的自衛権が憲法違反だけど、そんなこと関係ねぇ、などと豪語する政権にいる方々が話題になっているけれど、この『ウィンズ』が読者諸氏の目に触れる頃はどうなっているのだろう。もし戦争が始まっていたら(笑)、まさにタイムリーなんだけどね。よく言われるのは戦後生まれが首相になるようになったことは大きな変化だってこと。つまりは戦争の体感が戦後生まれの人間にはないということで、まだ、いくぶんか「戦後」の空気を嗅いだことのある人も老人になりつつあっておおかたの日本国民は戦争を体感したことのない人々ばかりになってしまった。だから、「戦争しようよ」と言われても,ピンと来ないのはしかたがない。そんないささか、きなくさい昨今であるが、本当の戦争が近づいている気がする時には本当の戦争について知る必要があると思うのだ。
 しかし、「防衛省は27日の衆院平和安全法制特別委員会で、特別措置法に基づきインド洋やイラクに派遣された自衛官のうち54人が自殺していたことを明らかにした。内訳はインド洋で海自25人、イラクでは陸自21人、空自8人の計29人。」*1と、本当の戦争を見てしまった人の心は相当のダメージを受けてしまうことは確かなようだ。そうした方々の話を聞きたいとは思うけれど、自衛官が本当の戦争の話をぺらぺら語るのは職務上無理があるだろうし、僕もそれほど野暮じゃない。ということで又別の立場で本当の戦争を見てきた人の話を聞いてみようではないか。
 本書の著者伊勢佐木賢治氏は東京外国語大学教授と肩書きがついているが、元は建築家を志していた人だ。それがインドでスラム住民の居住権獲得運動にかかわってしまったところから国際的な仕事に携わるようになり、国連PKOの仕事として東ティモール暫定政府の知事とか、シエラレオネやアフガニスタンで武装解除の指揮を執るというような場面で本当の戦争と向き合ってきた人なのだ。
 その伊勢崎氏が二〇一二年一月に五日間にわたって福島県立福島高等学校の二年生に語った「授業」がもとになっている。五日間の授業が1章から5章までの章立てになっているらしい。
 1章は「もしもビンラディンが新宿歌舞伎町で殺害されたとしたら」という刺激的なタイトルがついている。ご存じのようにビンラディンはパキスタンで米軍に殺害された。パキスタンはアメリカの戦場ではない。独立した一個の国家だ。だからパキスタンを歌舞伎町と置き換えても天神と置き換えても同じことなんだということをまずは知るべきだね。その上でアメリカに論理は「テロリスト」の人権は考慮しないということなんだと。そしてすごいのはこれを言い換えると〈人間を,その人権を考えずに殺すには「テロリスト」と呼べばいいのです。(92頁)〉ということなんだって。こういう乱暴な論理が本当の戦争なんだな。
 2章は「戦争はすべてセキュリタリゼーションで起きる」という題だ。セキュリタリゼーションというのは「このままじゃたいへんなことになるぞ」という危機感を煽ります。その危機によって失われるかもしれない、だから護らなければならないと思われる者を「推定犠牲」と言い、それを宣伝する仕掛け人がいて、それに煽られた、つまりセキュリタイズされた聴衆が戦争をやっちゃうという理論だ。それに対して「まあまあ、」と冷静になって戦争をしなくても解決できる道を探るのが脱セキュリタリゼーションで、そのことによって戦争は回避できるし、そういう力をつけないかんのだという。まさに平和教育というのはかくあるべきだね。
 3章は「もしも自衛隊が海外で民間人を殺してしまったら」と,これまた危なっかしいタイトルだ。月村了衛『土漠の花』(幻冬舎 一六〇〇円+税)という小説を読んだだろうか。ソマリアあたりに加勢に行っている陸上自衛隊がちょっとした手違いで現地で戦闘に巻き込まれてしまうというストーリーの小説だ。まさに今の問題を描いていて面白いし、現在はそういうリアリティが満ちあふれている。まだ読んでない方にはお薦めだね。エンターテイメントとして面白いぜ。
 話はそれたが、それは絵空事ではなくて現実の問題になりつつある。そのことが・・・あれれ、内容を書いちゃったら、読んではくれないからこの辺で留め置くとして、本当の戦争はどっちが正義ということではない。戦争はしない方がいいに決まっているのだ。そして戦争に対するブレーキは「人権」という原則論なんだと伊勢崎氏は言う。そう、そしてこの「原則論」を言う勢力が弱すぎると伊勢崎氏は警鐘を鳴らしているのだ。
 机上の戦争の銀ではなく、そろそろ本当の戦争の話をする時代になってきた。そして戦争を回避する知恵を僕たちは持たなくちゃいけないんだ。

 

☆☆☆☆ もうすぐ戦争の準備が整いそうだ。本当の戦争についてきちんと知ること、そしてどうやって本当の戦争を避けることができるか。それがこれからの平和教育でなければならない。だけど実は政治家に読んでもらいたいね。
 そうそう、伊勢崎さんはかつて東ティモールの知事時代に小泉首相(当時)と離したことがあるそうだ。後方支援で自衛隊を送ろうか、という小泉さんに,彼は言ったそうだ。自衛隊の軍事的ニーズはない。でも来たら自衛隊に犠牲者は必ず出るので、遺体を大切につれて帰れるような配慮をしてくれって。これって第二次世界大戦でも反省しなくてはいけない問題だったよね。何しろ遺骨を置いて来ちゃったんだから。 
posted by ウィンズ at 15:13| 福岡 ☁| Comment(0) | 戦争と平和 | 更新情報をチェックする