2017年05月10日

田中辰雄・山口真一『ネット炎上の研究』勁草書房 二二〇〇円+税



 SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が急速に普及して、今やFacebookだとか、mixiだとか、Twitterなどに参加してネット・コミュニケーションを楽しんでいる人は半端なく多いはずだ。あのトランプ大統領も記者会見よりもTwitterで発言することを重視しているみたいだし、もはやSNSなしの生活は考えられなくなっているのかもしれない。意外と学校の教員はやっていないのかな。確かに教員が何か書こうとすれば、子どもたちや学校の愚痴になりかねないので、手を出しにくいのかもしれない。
 一方で、ホームページやブログを通じて自分の意見を世間に公表したり、そうした発信メディアを持たない企業、団体は信用を獲得できない時代になったと言える。
 そうしたインターネットを通じて意見を表明するわけだから、異論をもった人たちから批判的な書き込みも多々あるのは当然のことだろう。さまざまな意見のやりとりは民主主義の基本かもしれないから、SNSの普及は民主主義の発展に貢献するものかもしれない。SNSを通じて大きな政治的変革が起きた例もずいぶんとあったのを思い出すだろう。
 一方で特定の対象に対して誹謗中傷が殺到する「ネット炎上」という現象もしばしば起きている。いや、しばしばではなく、社会現象というくらいに発生していると言えるのかもしれない。それらは個人攻撃の形を取ることも多いわけで、新たな人権問題を生み出していると言えよう。
 本書はそうした「ネット炎上」を採り上げたマジメな研究書である。
 「炎上」が誹謗中傷の束であるということじたい、この現象は人権問題であることを認識しておかなくてはならないだろう。自分はSNSをやらないから、と問題を避けていたならば、重大なことを見過ごすことになるだろう。
 で、本書は「炎上」を類型化し、分類することから始めている。そして炎上の社会的コスト、炎上の参加者に分析をすすめ、実際にはどういう構造になっているのかが解き明かされていくのだ。
 じっさい、ある大学のセンセが講義中の発言を学生にSNSに流されることから炎上を引き起こしたことがあったのを見たことがある。まあ、それは一過性のものであったのだけれど、関係のよくなかった大学当局に利用されて不遇を託つようになったとも聞いている。また、同様に、別の大学の講義の内容について炎上が発生し、講義内容に変更を強いられるという問題になったこともある。ある意味では炎上を理由に物事におかしなものが介入することが起きかねないのであるが、そこは本書をよく読み、学術的な解明をすることで道が開けると言うことができる。要は炎上如きに振り回されてはならないという教訓を学術的裏付けで説明してくれているのだ。
 研究書とは言え、本書はそう堅苦しいものではなく、フツーに読みやすいし、ネットにびびっている人間にもわかりやすく説明してくれる。インターネットはもはや空気のようなものになりつつある。その空気の中にはウィルスも雑菌も含まれており、ときに感染をして病床に伏すこともあるだろう。しかし、空気なしに生きてはいけないのであり、その意味で本書は情報教育の基礎でもあり、人権教育のマニュアルでもある。

☆☆☆☆ 子どもたちの中でネットトラブルはますます増えている。その対応策のヒントが本書には散りばめられている。教師だけが取り残されないように。
posted by ウィンズ at 15:39| 福岡 ☁| Comment(0) | 人権問題 | 更新情報をチェックする

自衛隊を活かす会編『南スーダン、南シナ海、北朝鮮 新安保法制発動の焦点』かもがわ出版  二〇〇〇円+税


 
 新安保法制が成立して一年半以上が過ぎ、昨年は南スーダンに駆けつけ警護だなんだで自衛隊が派遣されたのは記憶に新しい。印象としては新安保法制が本格的に動き出したな、という実感がある。
 今さら言うのもなんだが、日本国憲法第九条というのがあって、この解釈をめぐって戦後の日本はいろんな議論をしてきた。そしてそれを横目でにらみながら自衛隊は大きくなってきたし、解釈の枠も徐々に広げられ、今や九条を変えなくてもじゅうぶんなところに来ているんじゃなかろうか。で、「もっと積極的に」というのが新安保法制だったんじゃないかな、というのがあっしの素人理解なのだが、どんなもんだろう。
 問題はここまで来てしまった日本の防衛の既成事実から何ができるか、ということだ。「何ができるか」って言ったからといって、「戦争ができる」という答えを求めているわけではないし、そんなことを期待している人間はごくごくわずかだと信じたい。
 新安保法制に
 「よくわからないが賛成だ」とほざいていたネトウヨにせよ、
 軍歌を高らかに鳴らして街宣をしていた右翼団体の方々にせよ、
 とりあえず安倍首相の言うことに賛成しておけという無条件保守派にしても、
 「尖閣諸島、竹島は日本の固有の領土だ、力尽くで死守せよ」と叫んでいた武闘派にせよ、
 中国と一戦交えたいとか、南スーダンで自衛隊の諸君に人を殺させたいとか、北朝鮮と日本海上で空中戦をしたいとか考えている人はどのくらいいるだろうか。よほど戦争で利権を得られる人(もちろん日本国内に生活拠点は持ってないだろう)か、人を殺したい人なんてそうそういるものではないだろう。今日も恙なく仕事を終えて、仲間と一杯やって、ラーメンの一杯でも啜るような生活が、空襲に怯える生活よりはずっといいと思うのだが。
 そうなるとわれわれの政治家の胸に期したところも国民の平和な生活であると思う。そのために自衛隊はいらないという人もいれば、だからこそ自衛隊が必要だという人もいる。新安保法制にしたって、そのほうがこの国の安全にとっていい選択だと考えた政治家が多かったということだろう。そんなことは考えず、自分の選挙だとか、なんらかの利権だとか、軍事産業との癒着だとか、アメリカにはものが言えないからとかという気持ちで選択した人はほとんどいなかったと思いたい。
 しかし、現実に日本の防衛をめぐる状況は新安保体制下で来るところまで来ている。私たちが現在直面しているのはしばしばミサイルを打ち上げては威嚇している北朝鮮であったり、尖閣諸島はもちろん東南アジア方面のちいさな島に手を伸ばしている中国との関係であったり、はたまたこの国の防衛範囲をめっちゃ超えていると思われる南スーダンとかにおける自衛隊がどう動けば〈国益〉に合致するのかということはリアリティのある問題となっている。北朝鮮や中国、もしくは韓国なんぞと戦争状態に入っていいことがあるかを考えたらいい。北朝鮮のミサイルが日本のどこかに落ちて戦争状態になったら北朝鮮はマジでその戦争に勝てると思っているだろうか。それこそ国家の壊滅を免れないことは承知しているはずだ。中国は経済的にも軍事的にも日本をはるかに凌ぐ国家となっている。ここでアメリカと中国が手を組んだら(「浅(あさ)海(かい)の悪夢」というらしい。これは一九七一年のニクソン訪中で現実となり、当時の佐藤内閣を震撼させたという。本書一〇八頁)、いわゆる第二の「浅海の悪夢」が現実のものとなったら、日本はどうしたらいいのか。いや、これは経済的な領域では現実化しているとも聞くし。
 物理的には遠方だけれど、南スーダンは内戦状態にあり、全く事態は沈静化していないという。その南スーダンで自衛隊が戦闘状態に巻き込まれ、「戦死者」が出たらいったいどうするのか。その時国民を護ることを誇りにしている自衛隊員諸君の大義はどう見つければいいのか。
 そういうふうに現在進行形で、南スーダン、南シナ海、北朝鮮という三つの戦争の可能性の中にこの国はあるのだ。それは現在の日本の状態から考えなければ現実的ではない。現在の自衛隊の置かれている位置、条件、そうしたものを前提に問題を考えなければ、明日の平和は危ういとは言えないだろうか。この本をまとめたのは自衛隊を活かす会は正式名称を「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会」という。単なる軍事推進派でもなく、自衛隊の後援会でもない。基本は憲法九条を護るところに原点を置いているが、そうではない人もメンバーには入っている。それだけ現実的な状況認識の中でこの三つの戦争に直面した場面をどう見たらいいのか、そしてこの国とこの国の自衛隊はなにをすべきかについて本書の中で議論されている。
 ただ、頭の中で観念的な防衛論争をする時代は終わったと言える。この国は少なくともここに掲げた三つの戦争に直面しているということをまずは自覚しようではないか。そしてこの三つの戦争が今、どういう状況にあるのか。まさに戦争に直面しているのだから、そのための戦略、いや、どうやって戦争をしないで済ますかという戦略を立てなくてはならないだろう。それは政治家に付託した問題ではなく、われわれ国民が持たなければならない意思なのである。
 ・・・国民が考えなければならないことは、戦争がなければいいのか、戦争しても勝てばいい(その場合多少の犠牲はやむを得ない)と考えるのか、あるいは、戦争のもととなる対立そのものが解決した安心状態が欲しいのかです。これは主権者としての選択です。(本書二一三頁)
 そう、選択肢がそんなにたくさんあるわけではない。本書を手がかりに考えてみよう。

☆☆☆☆ 選挙権が十八歳に引き下げられて主権者教育が着目されるようにはなった。今度改定される学習指導要領では「主体的に、対話的に、深く学んでいくことによって、学習内容を人生や社会の在り方と結びつけて深く理解したり」(『幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)』二〇一六・十二・二十一)という学びの転換が求められるようだ。この程度には生徒たちの議論の質を深められるようにしておこうではないか。 
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『低きに立つ神』(大蔵一郎解説)コイノニア社 二二〇〇円+税

『低きに立つ神』(大蔵一郎解説)コイノニア社 二二〇〇円+税

 「ルカによる福音書」の中に「善いサマリア人」の話が載っている。
 こういう話だ。
 一人の律法の専門家という人物がイエスに質問をした。
「『隣人を自分のように愛しなさい』と律法には書いてあるが、わたしの隣人とは誰ですか。」と。
 それに応えてイエスは一つのたとえ話をはじめた。
「ある人が追いはぎに襲われて、身ぐるみを剥がされ、半殺しにして立ち去ったのだな。そこを神に仕える祭司やらレビ人やらが通りかかったんだが、その人を見ると二人とも通り過ぎてしまった。しかし、一人のサマリア人が彼を介抱し、宿屋に連れて行き、宿代まで支払ったんだと。」
 イエスはここまで語ると、律法の専門家に問うた。
「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うかな。」
 律法の専門家は答える。
「その人を助けた人です。」
 そこでイエスは言った。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 これは聖書の中では非常に有名な話なのだ。よく「汝の隣人を愛せよ」というフレーズが使われるが、出所はここだ。問題は誰が「汝の隣人」かということである。それは思いつきで慈善を行うことではない。先日、この本の著者の一人である犬養光博氏のお話を聞いたが、彼はカメラマンの岡村昭彦がよく使っていた「同情は連帯を拒否した時に生まれる」という言葉から「汝の隣人」を説明してくれた。同情ではなく連帯なのだと。そしてこのサマリア人にとって追いはぎにあった人が隣人なのではなくて追いはぎにあった人の隣人がサマリア人なのだと。
 つまりは「わたしの隣人は誰か」という連帯を拒否した問いではなく、「わたしは誰の隣人となるのか」と問うべきなのだ、と。
 本書は六人のキリスト者が日本社会の辺境と向き合い、辺境の民と連帯して生きてきた歴史を書き綴ったものである。その辺境には同和教育や、解放運動が露わにしてきた「差別の現実」が横たわっている。辺境という言葉が適切かどうかはわからない。しかし、そこがキリスト者にとって隣人となることができる境界であり、敢えて辺境という言葉で本書を紹介したい。
 本書はまず伊藤之雄の「問いかける神」という章から始まる。伊藤は教会のもつ知的・プチブル的な教養主義に疑問を懐き、「裸の人間とふれ、自分も裸の人間になり、生きたキリストを信じるには、この家族と階級のなかにいてはだめだ」と思い、山谷に入って労働者となるところから「隣人」をはじめたのだ。伊藤は山谷に隅田川伝道所を開いて活動をはじめた翌年の一九六七年にこの文章を書いた。そして伊藤は本書が編纂されるずっと前の一九八〇年に亡くなっている。だから本章は「山谷1967」という位置を与えられている。
 この伊藤の文章に倣い、五人のキリスト者が己と己のかかわってきた辺境について語るという構成になっている。
 その五人とは岡田仁「苦界に座す神」(水俣)、犬養光博「おらぶ神、黙す神」(筑豊)、菊池譲「痛む神」(山谷)、小柳伸顕「共なる神」(釜ヶ崎)、渡辺英俊「地べたに在す神」(寿町)である。それぞれが伊藤の遺産を引き継ぐかのようにそれぞれの辺境とそれぞれの生きてきた道を語る。一つ一つの「隣人」としての歴史は重たい。それを要約することはおそらくは何の意味もあるまい。重要なことは彼らはみな伊藤が直面した教養主義的なキリスト教に対する批判のまなざしを受け止めることになった者たちだということだ。
 それぞれの章の名に記された神の名はそれぞれの辺境に住む個性豊かな神たちである。一神教であるキリスト教に「神たち」もないものだが、まぎれもなく辺境の人たちの「隣人」となろうとしたキリスト者たちはそこに神の言葉を見出したのである。
 水俣、筑豊、山谷、釜ヶ崎、寿町。これらの辺境でキリスト者は磨かれ、キリスト教は救いを必要とする人間のものとして再生されることになったのだと思う。キリスト教徒であるならばおのれ自身のキリスト教を問い直すには格好の本だろう。他の宗教を以て信仰とする者も同様であろう。いや神を必要としない唯物論者であれ、ヒューマニストであれ、何らかの信条を以て生きる者は本書を通しておのれの信条と生き方を問い直してみることができるだろう。なぜならば、この国には追いはぎに襲われた人、つまり社会の矛盾の中で呻吟する人間がいて、一方で「知的・プチブル的な教養主義的」な自分がいることを知らされるからであり、その自分自身が試されることになるからだ。おまえはその人たちの隣人たり得るのかと。
 おっ、ちょっと熱くなってしまったか。
 まあ、いい。たまにはおのれの生き方を深く掘り下げてみよう。私たちは日々それぞれの職場で働きつつ生きている。何もここに登場したキリスト者たちのようにわざわざ辺境の地に赴く必要はない。しかし、私たちの仕事は日々子どもたちと出会い、つながりを持って行くことではないか。差別と被差別の現実はそこにあるのだ。そして、あなたのかかわりが被差別者への同情なのか連帯なのか。果たして自分は子どもたちの「隣人」として存在しているのか。人権・同和教育にかかわるあなた自身に問いかける一冊だ。



☆☆☆☆☆ 福岡の教師なら、まずは犬養光博の「おらぶ神、黙す神」を読んでみようか。さて、何を見つけられるか。
posted by ウィンズ at 15:35| 福岡 ☁| Comment(0) | 人権問題 | 更新情報をチェックする

菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書 八〇〇円+税

菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書 八〇〇円+税


 この本が出たとき、あたしはいつものようにネットの量販店で買おうとしたのね。そうしたらなんと二九九九円とかいうお値段がついてたのね。定価八〇〇円の新書ですよぉ~。ありえないお値段でしょ。それというのも、この本が売れている、品切れだ、印刷が追いつかない、みたいなことが新聞だったか、テレビだったかで騒いでいたから、ほれ、この書評欄のこともあるでしょ。すぐに注文しようとしたらまさに品薄状態だったのね。二九九九円といえばほぼ三〇〇〇円よ、足下を見られたってこういう感じね。にしてもよ、新書本でこの値段、それはないでしょ。
 でもね、SNSのお友だちでマジでその値段で買った人がいたわ。
「その値段でお買いになったの?」ってお聞きしたら、
「情報はスピードが命です。値段には代えられません」
ですって。
 あたしは、一呼吸おいて別のネット通販で見つけた。二週間くらいかかったけれど、定価で買えたわ。
 こんな前置き長々と書いたのはそれだけ社会現象だったからよ。社会現象になったのはそれだけ多くの人がこの組織について知りたかったからなのね。この組織、そう日本会議よ。
 この本が出てから選挙があって安倍内閣が再び再編成して発足したけど、また日本会議のメンバーが増えたっていうことじゃない。安倍首相はじめ、閣僚の大半と言ってもいいくらいの人が日本会議国会議員懇談会のメンバーなのね。それだけじゃない。民進党、維新なんたらの野党にもメンバーがいるというすごい組織ね。
 ということはこの日本会議が事実上日本の政治、というより、このところ右傾化していると言われる日本の社会を動かしていると言ってもいいわけよ。そのわりにこの日本会議を誰が作ったどういう組織なのか、誰も知らないのよね。
「気づかなかった」
「怪しい」
「名前からして公的な組織かなあ」
「右翼団体かも」
「政党ではないだろうし」とかなんとか…
 邪推と憶測だけは広まっていたようなんだけど、実体はよくわからない。ただ、保守派というより安倍政権に浸食している右寄りの組織だということだけは想像がつくでしょ。
 で、この本が出たとたん、日本会議は発行元の扶桑社に出版停止の要求を申し入れたのね。国家権力に近い組織が民間企業に恫喝まがい(出版停止ってそういうことよね)の申し入れをするって、最近多いような気がするのはあたしだけかしら。で、おもしろいことにこの扶桑社はご存知のようにフジ・産経グループの「右」系の出版社で例の「つくる会」の教科書なんかも出していた会社なのね。それもあって世間の卑俗な興味を煽って市場価格が暴騰したということかな。
 ねっ、それだけで読んでみたくなるよね。腰巻き(本に巻いてある帯のことをそう呼ぶ)の表には
 「右傾化」の
     淵源は
  どこなのか?
 「日本会議」
    とは
  何なのか?
 と大文字のコピーが目を引く
 裏側には
  市民運動が嘲笑の対象にさえなった
  80年代以降の日本で、
  めげずに、愚直に、地道に、
  そして極めて民主的な、
  市民運動の王道を歩んできた
  「一群の人々」によって
  日本の民主主義は
  殺されるだろう―
と、挑発的で謎めいたキャッチコピーに惹かれないわけがない。
 で、読んでみるとこれが面白い。まるで推理小説を読んでいくような
 ネタバレになるから慎重に書くよ。なんせ推理小説みたいなんだから。
 まずは日本会議とは何かを概述したあと、歴史をざざっと遡る。遡っていくとあの一九六〇年代後半の学生運動に行き着くのよ。しかも、その種子は九州で芽を吹いているんだから、驚きでしょ。そして「元号法制化運動」を始めたのが日本会議の原点らしいのね。それ以上は教えない。だってとてもスリリングな謎解きなんだから。
 それから日本会議の戦略が語られる。それもさっきのキャッチコピーにあったように、愚直で地道で、極めて民主的で、まさしく市民運動の王道を歩むやり方で憲法改正が可能なところまで世の中を動かし、ケント・ギルバートや百田尚樹といったタレントを動かして運動を盛り上げていく段取りが描かれていく。まさに市民運動の王道であり、言い換えれば草の根のファシズムそのものだと言えるのかもね。この手法は、反対の立場の人たちも学ぶべきよ。その意味では社会運動の教科書みたいに読んでもいいのかもしれないわね。
 そして腰巻きの裏に書いてあった「一群の人々」について語られる。これは最終的な謎、つまりこの日本会議の運動を生み出した「淵源」は誰かという謎を解き明かしていくの。
 ここは日本会議が潰したかった部分なのね、きっと。ここには五〇年の現代史の底に流れていた人間の怨念というか、情念というか、まあ、読んでみて。下手な小説以上に面白いし、日本会議が出版停止を申し入れたのもさもありなん、ね。

☆☆☆☆ 今、この国がどこに向かっているのか。そしてそれを動かしている「一群の人々」とは何者であり、何が狙いか。安倍晋三はただのあやつり人形にすぎない、のよ。
posted by ウィンズ at 15:33| 福岡 ☁| Comment(0) | 戦争と平和 | 更新情報をチェックする

木村玲欧『戦争に隠された「震度7」』吉川弘文館 二〇〇〇円+税


 四月十四日の夜ね。ちょうど職場の飲み会の帰りに小倉発九時二十七分発の電車に乗って発車を待っていたときに
「地震です、地震です」
という声が車内のどこかで鳴っていた。声が鳴るというのもおかしな話なんだけど、わかりますよね。たぶんどなたかの携帯の緊急災害情報が反応したのね。車内はそんなに混んでなかったのだけど、乗客のみなさまがたはそんな声は気にしないでキャーキャーおしゃべりに興じているご婦人たちの集団の他は静かに押し黙ったままなのね。わたしは携帯電話を職場に忘れてきてね、ちっとも状況がわからなかいのが不安だった。
 で、「さあ、来るよ!」と待ちかまえていたら、ぐらぐらっときた。でも、それ以上ではないという感じだったし、あの賑やかな集団は地震のことなんてひと言も話題にせずに賑やかなおしゃべりを続けていたし、電車は二〇分くらい遅れて発車したので、
「たいしたことはなかったのかな」
と思ったんだけど、帰ってニュースを見てそれはそれは驚いたわ。小倉で感じる地震と熊本で起きた地震の差というのはこういうことなのね。
 地震に限らず災害というのは特定の地域にダメージを与えるけどちょっと離れればどうということのない問題なのね。でも、熊本といえばいっぱい知り合いもいるし、心配になるじゃない。それで、余震の速報が入るたびにテレビを見るでしょ。そしたら変なことに気づいたの。鹿児島に知人がいるので、鹿児島の揺れも気になってたんだけどテレビに映るのは鹿児島以北の九州の地図なのね。
 で、鹿児島の知人に電話したら、
「こっちもかなり揺れてるわよ」
ということだった。
 その時、思い浮かんだことがある。原発よ、川内原発。あれがだいじょうぶかどうか気になってテレビの画面を見直すとちょうど南側の隠れたギリギリのところなのね。メディアは川内原発が存在しないとは言ってないけど、熊本の地震を報道するときに川内原発は見せたくないのね。そうかどうかはわかりませんが、そう思われても仕方ないわよね。
 どっかの放送局の籾井会長が局内の災害対策本部会議で、
「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」などと発言したんだそうな。このことを参院総務委員会で質問されて、
「川内原発の問題については、いたずらに不安をかきたてることがあってはならない」
と改めて主張したんだって(『朝日新聞デジタル』2016.5.11 5:00)。
 それって、国家権力にとって都合の悪いことは知らせないということよね。
 で、この国には以前も似たようなことがあったんだ。平和教育やなんかで、戦争で日本は空襲やらなんやら被害を受けたことは教わってきたし、教えられてきた。でも、それらは戦後そんなことがあったんだって事実がわかってきてから共有化されたことなのよ。原爆だって最初は小さな記事だったみたいだし、その実体が明らかに報道されたのは戦後何年か経ってからだって、このあいだある人から聞いて驚いた。
 そしてさ、この本を読んでびっくり。あの戦争の終盤の昭和十九年十二月七日に東南海地震、さして年の明けた昭和二十年一月十三日に三河地震という大地震があったことをみんな知っているかしら。
 東南海地震はマグニチュード七・九の海溝型地震で、震度は七、死者・行方不明者は一二二三人だというし、三河地震はマグニチュード六・八の直下型地震で、死者は何と二三〇四人にのぼる。こんな大地震なのにみんな知ってた?
 本書は二〇一四年の発行です。本書を書いた木村さんは阪神・淡路大震災の研究をしていた人で、名古屋大学に勤めていた頃に愛知県内で阪神・淡路大震災の講演をしたんだそうです。その時に聴いていた人から、
「阪神・淡路大震災は自分たちとは関係ない」
「愛知県ではそんな大きな地震は起きたことがないし、これからも起きることはないだろう」
というような反応を得て驚いたのだそうな。なんと地元ですらその史実は忘れられていたということなのね。
 著者の木村玲欧さんは「情報学」が専門なのでそういう観点からこの本を書いている。地震がどのように隠され、また報道されてきたのかということを歴史的に振り返り、過去の記憶(体験談)を掘り起こし、そうした過去から何を教訓とすべきかということが書かれているし、すごい刺激的ね。情報を伝えていくことの大切さと、伝えないことの怖さを痛感しましたよ。
 でね、山下文男『隠された大震災―太平洋戦争史秘録』(東北大学出版会)も同じ地震について書かれた本で、合わせて読んだけど、これもおもしろかった。歴史の本として国家の隠蔽を告発しているのでぐいぐい引き込まれましたね。大学の出版会の発行だからお堅い本かと思ったらとんでもなく読みやすい本でした。こっちも紹介したかったけれど、実は二〇〇九年刊行でちょっと時間が経っている。でも、東北大学・・・でしょ。東日本大震災の直前だったのね。ちょっと哀しすぎるな。でも読んでください。


☆☆☆☆ 日本の報道の自由度ランキングは今年は七二位まで下がったそうな。二〇一〇年に一〇位だったのに、昨年は六一位、そして七二位。そういう時代だからこそ読んでおくべき本ね。 
posted by ウィンズ at 15:30| 福岡 ☁| Comment(0) | 戦争と平和 | 更新情報をチェックする