2017年12月18日

平岡禎之『うちの火星人』光文社 一五〇〇円+税

 この本の凄さは、火星人との交流の方法をていねいに事例に即して解説したところにある。かつて火星人は、姿を隠して地球のあちこちに潜伏し、しばしばその能力をいかんなく発揮して地球のために多大な貢献をし、時に地球人の迫害に遭って密かに涙したこともある。この地球が火星人にとって住みにくくなってきたせいか、はたまた火星人がその特性を地球人に見破られはじめたせいかはわからないが、このところ火星人が理不尽な扱いを受けるようになった気がする。
 地球人である著者は、沖縄在住のごくふつうの―といえば失礼か―多くの賞を取った名のあるコピーライターであり、作家でもある。そして本書は、副題にも書いてあるように、彼の家に同居する火星人たちを地球人の理不尽な迫害から守るための“取扱説明書”なのだそうな。
 もちろん平岡さんは、これまで自宅に火星人を匿(かくま)っていたわけではない。ある時まで、ちょっと変わった個性的な人たちだと思っていたと言う。平岡さんの家は、夫婦と二男二女の六人家族。多少扱いにくいところのある子どもたちだな、と思いつつ暮らしてきたのだが、末っ子の次男が中学生の時に学校から呼び出され、もはや学校では手に負えないと通告されたことで事態が発覚したのである。
 そして、調べはじめたところ、子どもたちはみな発達障がいであることが判明したのである。あまつさえ、長年連れ添った妻までが発達障がいだったのだ。苦闘はそこから始まるのだろうが、平岡さんたちの克服法は、平岡さんを除く発達障がいの家族たちが自ら地球人とはちがう感覚を持つ〈火星人〉と自称することにしたことだった。
 火星人は地球人と感覚が違うのだと考えれば、要は異文化理解として、異星人理解として日々の行動を解釈し、つきあっていくことができるというのだ。平岡さんは、この〈火星人〉の家族をマンガに描いてみた。平岡さんはその際に、地球人の姿形をして潜伏していた火星人である家族を、それぞれの特性をあらわした動物のキャラクターにしてしまったのである。
 妻はワッシーナ(50)、長女ニャーイ(30)、長男ウルフー(23)、次女リスミー(21)、次男ウッシーヤ(17)といった具合にだ。次男は高校生だが、妻は幼稚園職員、長女は翻訳・通訳、長男は広告代理店勤務、次女は国際線CAと、それぞれ職業生活も送っている。そして、うちの火星人たちは外出時、敏感な感性ゆえに受けるストレスから身を守るために、透明なヘルメットを着用して登場する。 
 このようなキャラクターデザインに発達障がいという存在のしかたが描かれているのだという。そして実に個性的な感覚の特性を持っている家族の一人ひとりについて、マンガと文章で取扱説明書が綴られているのだ。地球人と異なる感覚も、ヘルメット越しにその感覚の特性を取扱説明書に従って把握すれば、お互いにストレスも少なくなるであろうし、理解も深まるし、なにより火星人たちが安心して地球で暮らしていけるというものだ。
 そして、長女ニャーイは結婚することになった。で、平岡さんは新郎新婦にニャーイの『火星人解説書』を手渡したという。
 実は、本書には副題として「5人全員発達障がいの家族を守るための“取扱説明書”」と書いてある。発達障がいの人間は、地球人のように扱われればそれは迫害のようになってしまい、とても生きにくい。だから、発達障がいの家族を守るには、このような取扱説明書が待ち望まれていたのだろう。頁を繰るたびに、眼から鱗がバンバン剥がれ落ちていく。つまり、火星人理解という新しい人間理解によって、人間観、世界観が広がっていくのだ。

☆☆☆☆ 発達障がいに限らず、人間理解のための“取扱説明書”は必要なのだろう。自分だけがふつうの地球人だとは思わないことだ。人間理解の苦手なあなたに是非一冊。ただし、この取扱説明書、ついてくるのではない。本屋で買っておくれ。
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吉野源三郎原作 羽賀翔一漫画『漫画 君たちはどう生きるか』マガジンハウス 一三〇〇円+税

 吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』は岩波文庫(九七〇円+税)の一冊であり、一度は手に取ったことのある人もいるのではないだろうか。まあ、岩波文庫なので遠慮していた人もいるだろうし、岩波文庫の威圧感で読み切ることのできなかった人もいるかもしれない。
 なんと、その名著が漫画になったのだ。
 吉野源三郎(一八九九~一九八一)は編集者であり、雑誌『世界』の初代編集長として知られる人物である。本書の原作を書いたのは一九三七年、昭和十二年のことであるから、ちょうど八〇年前のことになる。最初は自身が編集にかかわった『日本少国民文庫』全十六巻中の一冊として、新潮社から刊行されたものだという。
 もとより、少年向けなので平易な文章なのだが、それでも岩波文庫本だと、そこそこに厚いし、字も小さい。読むには体力と気力が要りそうである。内容も旧制中学の生徒が主役であるから、ちょっとかまえてしまいそうだった。なにしろ、子どもたちのほとんどが高等小学校に進む時代に中学校に行くというのはよほどの勉強家か恵まれた人間であったはずだ。そして、その頃の中学生はずいぶんと大人だったのではないか、というのはわたくしめの勝手な思い込みであったが、漫画の中に出てくる中学生は今の中学生と変わらないかわいい少年だ。
 羽賀翔一の絵は、やさしいタッチで昭和の青春を上手に描いている。原作が書かれた一九三七年は、日中戦争が始まり、南京事件のあった年だ。世間がどんどんきな臭くなっている時代なのだが、少年の悩みは学校と友人関係の中にある。叔父さんは、その少年コペルくんが悩みを「自分で考える」なかで、社会問題とも関連づけながら導いていく。この展開は、羽賀の漫画の力による。そして、考えるべき問題が抽出されていくのは漫画の力だろう。
 漫画によって問題が提示されてゆき、叔父さんの意見になるとそれは原作通りに〈文章〉で書かれている。漫画で状況が展開されているせいで、叔父さんの意見が文章で長々と記述されていても、意外にスムーズに頭に入ってくる。もちろん、叔父さんのご意見はそれなりに小難しくはあるんだが、これならば中学生でも読めるだろう。
 コペル君が向き合わなくてはならないのはけっこう現代の中学生がぶつかっている悩みと変わらないと思う。基本的には友だちとの関係だ。
 例えば、学校の中でのいじめ。いじめは最近増えた問題ではなく、この頃もあたりまえにあったことだ。その中で中学生が悩むのも、現在と同じである。現在のようにいじめが深刻な社会問題ではなかった時代なのだが、そこにかかわる生徒たちそれぞれの立ち位置と役割は変わらない。そして、コペル君はいじめの傍観者として、まずは悩みを抱えることになる。さらに貧困の問題であるとか、仲間への裏切り、まさに青春ならではの精神的な課題をコペル君は抱え込み、時には引きこもってもしまうのだ。そのあたりの叙述も、羽賀の漫画の力がいい説得力を与えている。
 昔、中学生だった読者諸氏も、今、中学生とかかわっている読者諸氏も、そして活字離れになっている老青年諸氏も、漫画ならいけるから目を通してほしい。
 

☆☆☆☆ 漫画って力があるんだと、つくづく知らされた。漫画しか読まないアソウ君にはぜひとも読ませたい。きっと、人権軽視の暴言を吐かなくなるだろうから。悪いことをしても逃げ切ろうとしているアベ君にも読ませたい。人間として、してはいけないことに気づいてくれないかなあ。
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2017年09月06日

高橋史朗監修 明生社編『物語で伝える教育勅語―親子で学ぶ12の大切なこと』明生社 1,200円+税



 森友学園問題で一躍浮上した教育勅語。いまだに
「教育勅語にはいいことが書いてある」
と言う人がけっこういる。一方で、教育勅語の教育現場での使用については「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」という閣議決定をしたそうな。これに対して「日本教育学会(会長=広田照幸・日本大教授)など17学会の会長や代表理事が16日、声明を発表した。政府に対し、「問題点を批判的に考えるための歴史的資料として用いる場合を除き、使用禁止を改めて確認する」ことを求めた。」(朝日新聞 二〇一七・六・一七)というような反発する動きを示している。
 「教育勅語にはいいことが書いてある」などと申したおえらいさんもいっぱいいる。たとえば、稲田防衛大臣は野党の質問に対して「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」と述べたのだそうだ。ところで稲田大臣の答弁にある「道議国家」なるものは教育勅語には一言も出てこない。
 おかしいな、思ったのでちょいと調べてみると稲田大臣は国民道徳協会とやらいう怪しげな団体の現代語訳を読んでいたふしがある。その団体が何者であるかはよくわからないのだが、教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」というくだりを「私は,私達の祖先が,遠い昔遠大な理想のもとに,道義国家の実をめざして,日本の国をおはじめになり,」と訳しているからだ。本文がいくら難解に見えたとしても「道義国家」なる言葉のかけらもそこにはない。また、「朕」というのは天皇しか使えない一人称であり、単に「私」とか「私達」と訳してはいけないのだ。それは天皇を崇拝している人たちからすればとんでもない不敬な表現になる。まして「私達」とは誰ですか。
「国民でぇす、国民は天皇と一緒にこの国を作りました」
なんて言ったらそれこそ天皇を冒涜するも甚だしいというところである。
 そこは「天皇である私が思うに私の祖先が・・・」としなくてはならない。それは神武天皇以来の天皇家の歴史のことになるだろうからである。井上哲次郎の『釋明 教育勅語衍義』の解釈に杉浦重剛の『倫理御進講草案』の説明を斟酌して読み解くならば、「神武天皇の即位をもって国の紀元とする。以後二千五百五十余年の長い間続いてきた。そして天皇家の威信はますますさかんになっている。こういうことは世界に類例がない。これは我が国が何と言おうと世界での中で秀でている理由だ。これも天皇家の御先祖が深く厚く人民に徳を植え付けてきたからだ」ということになる。このように正しく読むことで
〈日本だけがすばらしい国〉
という独善的な国家観が成り立つ。それを井上哲次郎は「我邦ノ超然萬国ノ間ニ秀ヅル所以」(日本だけが特別どの国よりも秀でているわけ)と解釈したのだ。それは「道義国家」なんちゅうものではない。「道義国家」と訳したのでは天皇の意思に反する不敬的な国家観になってしまうのだ。
 ならば、だ。
〈教育勅語にはいいことが書いてある。〉
と言う人がその〈いいこと〉を生き方として学ぶには具体的な例を示すのがわかりやすいだろうし、そういうテキストがあれば便利と思うだろう。それで探してみたら『物語で伝える教育勅語』というそのものズバリの本が見つかった。
 で、「本書は、教育勅語の十二の徳を現した人物や歴史を通して教育勅語に説かれた精神をより具体的に理解できるように編集されました」(まえがき)と編集の趣旨が書いてあるので、胸をわくわくさせて頁を繰ってみた。
まずは「父母に孝に」である。題材はあの有名な二宮金次郎の話だ。金治郎は貧しい家に生まれ育ったのだが、親戚に預けた弟を取り戻し、父母亡き後は叔父の家に世話になり、よく働き、よく学んだので、成功して家の資産を取り戻し、さらには村の立て直しに貢献したという話が描かれている。そして最後は
「両親に孝行を尽くす」とは、両親に恩返しするだけではなく、自分の身体を大切にし、自分自身を大好きになることでもあると金次郎は言っているのです。
と結んでいる。
 あれ?おかしい。
 井上哲次郎は「天皇と臣民の関係は父母と子や孫との関係と似ている。」そして「天皇陛下はすべての国民に対して〈汝臣民〉と呼びかけたのだから、臣民たるもの子や孫が父母に対する心をもって謹聴感佩(謹んで聞き、ありがたいと感じて感謝する)しなくてはならない」と解説している。「自分自身を大好きになること」ではない。「天皇を親のように慕うこと」が「父母に孝に」の意味なのである。
 なのにそのようなことは一言も出てこない。これでは教育勅語を理解したことにはならないのではないか。
 「兄弟に友に」も「夫婦相和し」も「一家ハ細胞ノ有機体ニ於ケルガ如ク、実ニ一国ノ本ニシテ、家々和睦スルトキハ、一国モ亦安寧ナルヲ得(一家は有機体の細胞のようなもので、国家の基本になる。それぞれの家がうまくいっているときに国家も安泰なのだ)」という井上哲次郎の解説に見られるように、これらは家庭や家族の内に閉じる問題ではなく、天皇との関係、国家とのつながりで説明しなくてはならないのだが、そうしたことは紹介される物語には出てこない。
 最後の徳目「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」だけは「もし一たび国家に一大事が起こったならば、正しい勇気をもって、お国のために真心をつくしましょう」と但書が着いているので、国家との関係に言及しているかと思えば、なんと元寇の話。しかも、「みんな心を一つにあわせ、国を守ろうとまとまったため、みごと敵軍を追い払うことができたのでした」と結んでいる。思わず、
「守れなかった戦争のことは書かんのかい!」
と叫んでしまった。
 せっかく期待して読んだのだが、天皇に対する敬愛も、国家に対する忠誠も育まれそうにないスカスカの物語集になっている。これでは教育勅語について何ら学ぶことはないだろう。あの国民道徳協会とやらの不謹慎な現代語訳と同様に教育勅語の趣旨をねじ曲げたものになっている。これではまっとうな臣民は育てられないだろう。

☆☆
 なので、このような天皇不在の教育勅語物語は民主主義の倫理を伝えるにはいいかもしれないが、それならわざわざ教育勅語を持ち出す必要はない。読んでも大して毒はないが、あの防衛大臣やなんたら学園の理事長や名誉園長だのといった誤読した人たちによって天皇や国家をないがしろにした歪んだ教育勅語観が広められるのは許しがたい。本書もその片棒を担ぐようなものだな。ふふふ
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宋美玄他『各分野の専門家が語る 子どもを守るために知っておきたいこと』メタモル出版 一三八〇円+税

 去年のこの欄に原田実『江戸しぐさの正体』という本を紹介した。何しろ〈江戸しぐさ〉という偽史が文部科学省の『私たちの道徳』やら、とこぞの教科書なんかに載っているという現実があり、その問題性を歴史考証の専門家が批判した本だった。
 教育の世界というのは実に広い世界だ。教師はその広い世界の知識を子どもたちに伝え、子どもたちの育ちを支援しなくてはならない。ところが〈江戸しぐさ〉がそうであったように、子どもを取りまく知識や、諸問題については教師は専門家ではない。子どもたちを教える専門家ではあるが、知識の中身については残念ながら専門家ではない。子どもの心や生活環境についても実は不確かな情報で動いているのかもしれない。だからいつのまにか〈江戸しぐさ〉が教育の場にこっそり登場しても、多くの教師はそのまちがいに気づくこともできないのである。
 最近ではチーム学校とやらを文科省は提案しているが、あれは教師が子どものすべてについての専門家ではないことを暗に認めているのだろう。われわれ教師が専門家であるのはどの場面か、となるとはたまた心許ない。自信をもって、
「この子にはこういう対応をするとこう伸びる」
という正解を導き出せない。もしかすると一つの指導が親の批判を浴びるかもしれないし、ちがう立場の教員から罵倒されるかもしれないし、教育委員会から叱られるかもしれない。というより、教育については誰もがそれなりに一家言持っているので、それらのご意見と教師某の見解とどちらが正しいか、などという争いになったときに教師の立場は実に弱いものだ。
 じゃあ、教師が教育の専門家であるとはどういうことを言うのか。教師は授業をするということにおいては専門家である。これはまちがいない。何を教えるかではなく、どう教えるかについては専門家であろう。
「あの先生は教え方が下手だ」
などという非難があったとしても、だいじょうぶだ。それは「あの医者は藪医者だ」という以上の批判にはならないからだ。
 そして医者は患者の治療以外は素人だが、教師は子どもと向き合う専門家である。但し、向き合うだけで、授業以外の向き合い方に関しては他の専門家の知見をお借りしているに過ぎないので、そこはお借りする先の専門家の知見を信用するしかない。その意味では教師は他人のふんどしで相撲を取る専門家なのかもしれない。
 その他人のふんどしを選ぶときに文科省の素人は『私たちの道徳』に〈江戸しぐさ〉を載っけてしまうという愚を犯した。彼らに専門家の意見を参照する業がなかったからだ。
 で、だ。われわれ教師は、他人のいろいろなふんどしを選んで活用する眼を養わなくてはならない。つまりは、誰の何が専門で、その専門性の何が信用できて何が信用できないのかを、私たちはよく考えなくてはならないのである。
 本書が「各分野の専門家が伝える」と書名に冠を載せているのはそういう意味である。教育現場には医学の問題、栄養学の問題などが存在しているし、それらの専門家の知見を超える見解をわれわれは持たない。教科にかかわってはそれぞれの背景の科学的知見がある。それらについてわれわれは最も的確な専門家の知見を選び、活用する力を持っている。そこが教育の専門家としての教師の力量というものだろう。
 先に挙げた原田実氏も本書の中では「江戸しぐさ」と「親学」について知見を示している。「親学」は高橋史朗氏が提唱して始めたものらしいが、「江戸しぐさ」を引用し、いくつかの怪しげな俗説を引っ張りだし、「高橋氏自身の好き嫌いの感情によって、形作られた概念です。結局、高橋氏は自分の偏見を強化したうえに、人にまで押し付けているだけです」(一五七頁)と断罪している。
 また、「誕生学」 なるものについても、産婦人科医の宋美玄氏は「誕生学」が提唱する自然分娩(医学用語ではないらしい)が科学的にも倫理的にも問題があることを指摘している。また、精神科医の松本俊彦氏は、誕生の素晴らしさを伝える「誕生学」プログラムが自傷経験のある子どもたちを追い詰め、時に死に追いやっていることを告発しています。まあ、このあたり「いのちの大切さ」を訴える人権教育なんかでも落とし穴になっているんではないだろうか。
 「親学」にしても「誕生学」にしても、「学」と名づけ、学者や専門家らしき人が名を連ねて発言しているので、私たちはつい迷い込んでしまう。そこで、われわれ教師には、専門家の知見を選ぶ専門家としての判断力が必要なのだ。赤ちゃんの時のことを想い出させて「いのちの大切さ」を説くとき、専門家としての教師の知見は、クラスの不遇な子どものことを最も大切にすることではないか。子どもと向き合う専門家であれば、親に虐待された子、愛情を注がれていない子、そうした子どもたちの前で「愛されて育ってきた」自慢話を読み聞かせて「いのちの大切さ」を伝えようとすることの、危険を察知するだろう。
 本書は、子どもをめぐるまちがいやすい知識・情報について、特定の領域の専門家の知見をまとめてある。本書を通して、専門家を選ぶ眼を鍛えようではないか。


☆☆☆☆ この本を読んで『かがやき』やら『あおぞら』やら『ぬくもり』を見直してみようか。自分たちの人権教育に対する思い込みも、時には省みることが必要だ。

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2017年05月10日

田中辰雄・山口真一『ネット炎上の研究』勁草書房 二二〇〇円+税



 SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が急速に普及して、今やFacebookだとか、mixiだとか、Twitterなどに参加してネット・コミュニケーションを楽しんでいる人は半端なく多いはずだ。あのトランプ大統領も記者会見よりもTwitterで発言することを重視しているみたいだし、もはやSNSなしの生活は考えられなくなっているのかもしれない。意外と学校の教員はやっていないのかな。確かに教員が何か書こうとすれば、子どもたちや学校の愚痴になりかねないので、手を出しにくいのかもしれない。
 一方で、ホームページやブログを通じて自分の意見を世間に公表したり、そうした発信メディアを持たない企業、団体は信用を獲得できない時代になったと言える。
 そうしたインターネットを通じて意見を表明するわけだから、異論をもった人たちから批判的な書き込みも多々あるのは当然のことだろう。さまざまな意見のやりとりは民主主義の基本かもしれないから、SNSの普及は民主主義の発展に貢献するものかもしれない。SNSを通じて大きな政治的変革が起きた例もずいぶんとあったのを思い出すだろう。
 一方で特定の対象に対して誹謗中傷が殺到する「ネット炎上」という現象もしばしば起きている。いや、しばしばではなく、社会現象というくらいに発生していると言えるのかもしれない。それらは個人攻撃の形を取ることも多いわけで、新たな人権問題を生み出していると言えよう。
 本書はそうした「ネット炎上」を採り上げたマジメな研究書である。
 「炎上」が誹謗中傷の束であるということじたい、この現象は人権問題であることを認識しておかなくてはならないだろう。自分はSNSをやらないから、と問題を避けていたならば、重大なことを見過ごすことになるだろう。
 で、本書は「炎上」を類型化し、分類することから始めている。そして炎上の社会的コスト、炎上の参加者に分析をすすめ、実際にはどういう構造になっているのかが解き明かされていくのだ。
 じっさい、ある大学のセンセが講義中の発言を学生にSNSに流されることから炎上を引き起こしたことがあったのを見たことがある。まあ、それは一過性のものであったのだけれど、関係のよくなかった大学当局に利用されて不遇を託つようになったとも聞いている。また、同様に、別の大学の講義の内容について炎上が発生し、講義内容に変更を強いられるという問題になったこともある。ある意味では炎上を理由に物事におかしなものが介入することが起きかねないのであるが、そこは本書をよく読み、学術的な解明をすることで道が開けると言うことができる。要は炎上如きに振り回されてはならないという教訓を学術的裏付けで説明してくれているのだ。
 研究書とは言え、本書はそう堅苦しいものではなく、フツーに読みやすいし、ネットにびびっている人間にもわかりやすく説明してくれる。インターネットはもはや空気のようなものになりつつある。その空気の中にはウィルスも雑菌も含まれており、ときに感染をして病床に伏すこともあるだろう。しかし、空気なしに生きてはいけないのであり、その意味で本書は情報教育の基礎でもあり、人権教育のマニュアルでもある。

☆☆☆☆ 子どもたちの中でネットトラブルはますます増えている。その対応策のヒントが本書には散りばめられている。教師だけが取り残されないように。
posted by ウィンズ at 15:39| 福岡 ☁| Comment(0) | 人権問題 | 更新情報をチェックする