2017年09月06日

高橋史朗監修 明生社編『物語で伝える教育勅語―親子で学ぶ12の大切なこと』明生社 1,200円+税



 森友学園問題で一躍浮上した教育勅語。いまだに
「教育勅語にはいいことが書いてある」
と言う人がけっこういる。一方で、教育勅語の教育現場での使用については「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」という閣議決定をしたそうな。これに対して「日本教育学会(会長=広田照幸・日本大教授)など17学会の会長や代表理事が16日、声明を発表した。政府に対し、「問題点を批判的に考えるための歴史的資料として用いる場合を除き、使用禁止を改めて確認する」ことを求めた。」(朝日新聞 二〇一七・六・一七)というような反発する動きを示している。
 「教育勅語にはいいことが書いてある」などと申したおえらいさんもいっぱいいる。たとえば、稲田防衛大臣は野党の質問に対して「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」と述べたのだそうだ。ところで稲田大臣の答弁にある「道議国家」なるものは教育勅語には一言も出てこない。
 おかしいな、思ったのでちょいと調べてみると稲田大臣は国民道徳協会とやらいう怪しげな団体の現代語訳を読んでいたふしがある。その団体が何者であるかはよくわからないのだが、教育勅語冒頭の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」というくだりを「私は,私達の祖先が,遠い昔遠大な理想のもとに,道義国家の実をめざして,日本の国をおはじめになり,」と訳しているからだ。本文がいくら難解に見えたとしても「道義国家」なる言葉のかけらもそこにはない。また、「朕」というのは天皇しか使えない一人称であり、単に「私」とか「私達」と訳してはいけないのだ。それは天皇を崇拝している人たちからすればとんでもない不敬な表現になる。まして「私達」とは誰ですか。
「国民でぇす、国民は天皇と一緒にこの国を作りました」
なんて言ったらそれこそ天皇を冒涜するも甚だしいというところである。
 そこは「天皇である私が思うに私の祖先が・・・」としなくてはならない。それは神武天皇以来の天皇家の歴史のことになるだろうからである。井上哲次郎の『釋明 教育勅語衍義』の解釈に杉浦重剛の『倫理御進講草案』の説明を斟酌して読み解くならば、「神武天皇の即位をもって国の紀元とする。以後二千五百五十余年の長い間続いてきた。そして天皇家の威信はますますさかんになっている。こういうことは世界に類例がない。これは我が国が何と言おうと世界での中で秀でている理由だ。これも天皇家の御先祖が深く厚く人民に徳を植え付けてきたからだ」ということになる。このように正しく読むことで
〈日本だけがすばらしい国〉
という独善的な国家観が成り立つ。それを井上哲次郎は「我邦ノ超然萬国ノ間ニ秀ヅル所以」(日本だけが特別どの国よりも秀でているわけ)と解釈したのだ。それは「道義国家」なんちゅうものではない。「道義国家」と訳したのでは天皇の意思に反する不敬的な国家観になってしまうのだ。
 ならば、だ。
〈教育勅語にはいいことが書いてある。〉
と言う人がその〈いいこと〉を生き方として学ぶには具体的な例を示すのがわかりやすいだろうし、そういうテキストがあれば便利と思うだろう。それで探してみたら『物語で伝える教育勅語』というそのものズバリの本が見つかった。
 で、「本書は、教育勅語の十二の徳を現した人物や歴史を通して教育勅語に説かれた精神をより具体的に理解できるように編集されました」(まえがき)と編集の趣旨が書いてあるので、胸をわくわくさせて頁を繰ってみた。
まずは「父母に孝に」である。題材はあの有名な二宮金次郎の話だ。金治郎は貧しい家に生まれ育ったのだが、親戚に預けた弟を取り戻し、父母亡き後は叔父の家に世話になり、よく働き、よく学んだので、成功して家の資産を取り戻し、さらには村の立て直しに貢献したという話が描かれている。そして最後は
「両親に孝行を尽くす」とは、両親に恩返しするだけではなく、自分の身体を大切にし、自分自身を大好きになることでもあると金次郎は言っているのです。
と結んでいる。
 あれ?おかしい。
 井上哲次郎は「天皇と臣民の関係は父母と子や孫との関係と似ている。」そして「天皇陛下はすべての国民に対して〈汝臣民〉と呼びかけたのだから、臣民たるもの子や孫が父母に対する心をもって謹聴感佩(謹んで聞き、ありがたいと感じて感謝する)しなくてはならない」と解説している。「自分自身を大好きになること」ではない。「天皇を親のように慕うこと」が「父母に孝に」の意味なのである。
 なのにそのようなことは一言も出てこない。これでは教育勅語を理解したことにはならないのではないか。
 「兄弟に友に」も「夫婦相和し」も「一家ハ細胞ノ有機体ニ於ケルガ如ク、実ニ一国ノ本ニシテ、家々和睦スルトキハ、一国モ亦安寧ナルヲ得(一家は有機体の細胞のようなもので、国家の基本になる。それぞれの家がうまくいっているときに国家も安泰なのだ)」という井上哲次郎の解説に見られるように、これらは家庭や家族の内に閉じる問題ではなく、天皇との関係、国家とのつながりで説明しなくてはならないのだが、そうしたことは紹介される物語には出てこない。
 最後の徳目「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」だけは「もし一たび国家に一大事が起こったならば、正しい勇気をもって、お国のために真心をつくしましょう」と但書が着いているので、国家との関係に言及しているかと思えば、なんと元寇の話。しかも、「みんな心を一つにあわせ、国を守ろうとまとまったため、みごと敵軍を追い払うことができたのでした」と結んでいる。思わず、
「守れなかった戦争のことは書かんのかい!」
と叫んでしまった。
 せっかく期待して読んだのだが、天皇に対する敬愛も、国家に対する忠誠も育まれそうにないスカスカの物語集になっている。これでは教育勅語について何ら学ぶことはないだろう。あの国民道徳協会とやらの不謹慎な現代語訳と同様に教育勅語の趣旨をねじ曲げたものになっている。これではまっとうな臣民は育てられないだろう。

☆☆
 なので、このような天皇不在の教育勅語物語は民主主義の倫理を伝えるにはいいかもしれないが、それならわざわざ教育勅語を持ち出す必要はない。読んでも大して毒はないが、あの防衛大臣やなんたら学園の理事長や名誉園長だのといった誤読した人たちによって天皇や国家をないがしろにした歪んだ教育勅語観が広められるのは許しがたい。本書もその片棒を担ぐようなものだな。ふふふ
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宋美玄他『各分野の専門家が語る 子どもを守るために知っておきたいこと』メタモル出版 一三八〇円+税

 去年のこの欄に原田実『江戸しぐさの正体』という本を紹介した。何しろ〈江戸しぐさ〉という偽史が文部科学省の『私たちの道徳』やら、とこぞの教科書なんかに載っているという現実があり、その問題性を歴史考証の専門家が批判した本だった。
 教育の世界というのは実に広い世界だ。教師はその広い世界の知識を子どもたちに伝え、子どもたちの育ちを支援しなくてはならない。ところが〈江戸しぐさ〉がそうであったように、子どもを取りまく知識や、諸問題については教師は専門家ではない。子どもたちを教える専門家ではあるが、知識の中身については残念ながら専門家ではない。子どもの心や生活環境についても実は不確かな情報で動いているのかもしれない。だからいつのまにか〈江戸しぐさ〉が教育の場にこっそり登場しても、多くの教師はそのまちがいに気づくこともできないのである。
 最近ではチーム学校とやらを文科省は提案しているが、あれは教師が子どものすべてについての専門家ではないことを暗に認めているのだろう。われわれ教師が専門家であるのはどの場面か、となるとはたまた心許ない。自信をもって、
「この子にはこういう対応をするとこう伸びる」
という正解を導き出せない。もしかすると一つの指導が親の批判を浴びるかもしれないし、ちがう立場の教員から罵倒されるかもしれないし、教育委員会から叱られるかもしれない。というより、教育については誰もがそれなりに一家言持っているので、それらのご意見と教師某の見解とどちらが正しいか、などという争いになったときに教師の立場は実に弱いものだ。
 じゃあ、教師が教育の専門家であるとはどういうことを言うのか。教師は授業をするということにおいては専門家である。これはまちがいない。何を教えるかではなく、どう教えるかについては専門家であろう。
「あの先生は教え方が下手だ」
などという非難があったとしても、だいじょうぶだ。それは「あの医者は藪医者だ」という以上の批判にはならないからだ。
 そして医者は患者の治療以外は素人だが、教師は子どもと向き合う専門家である。但し、向き合うだけで、授業以外の向き合い方に関しては他の専門家の知見をお借りしているに過ぎないので、そこはお借りする先の専門家の知見を信用するしかない。その意味では教師は他人のふんどしで相撲を取る専門家なのかもしれない。
 その他人のふんどしを選ぶときに文科省の素人は『私たちの道徳』に〈江戸しぐさ〉を載っけてしまうという愚を犯した。彼らに専門家の意見を参照する業がなかったからだ。
 で、だ。われわれ教師は、他人のいろいろなふんどしを選んで活用する眼を養わなくてはならない。つまりは、誰の何が専門で、その専門性の何が信用できて何が信用できないのかを、私たちはよく考えなくてはならないのである。
 本書が「各分野の専門家が伝える」と書名に冠を載せているのはそういう意味である。教育現場には医学の問題、栄養学の問題などが存在しているし、それらの専門家の知見を超える見解をわれわれは持たない。教科にかかわってはそれぞれの背景の科学的知見がある。それらについてわれわれは最も的確な専門家の知見を選び、活用する力を持っている。そこが教育の専門家としての教師の力量というものだろう。
 先に挙げた原田実氏も本書の中では「江戸しぐさ」と「親学」について知見を示している。「親学」は高橋史朗氏が提唱して始めたものらしいが、「江戸しぐさ」を引用し、いくつかの怪しげな俗説を引っ張りだし、「高橋氏自身の好き嫌いの感情によって、形作られた概念です。結局、高橋氏は自分の偏見を強化したうえに、人にまで押し付けているだけです」(一五七頁)と断罪している。
 また、「誕生学」 なるものについても、産婦人科医の宋美玄氏は「誕生学」が提唱する自然分娩(医学用語ではないらしい)が科学的にも倫理的にも問題があることを指摘している。また、精神科医の松本俊彦氏は、誕生の素晴らしさを伝える「誕生学」プログラムが自傷経験のある子どもたちを追い詰め、時に死に追いやっていることを告発しています。まあ、このあたり「いのちの大切さ」を訴える人権教育なんかでも落とし穴になっているんではないだろうか。
 「親学」にしても「誕生学」にしても、「学」と名づけ、学者や専門家らしき人が名を連ねて発言しているので、私たちはつい迷い込んでしまう。そこで、われわれ教師には、専門家の知見を選ぶ専門家としての判断力が必要なのだ。赤ちゃんの時のことを想い出させて「いのちの大切さ」を説くとき、専門家としての教師の知見は、クラスの不遇な子どものことを最も大切にすることではないか。子どもと向き合う専門家であれば、親に虐待された子、愛情を注がれていない子、そうした子どもたちの前で「愛されて育ってきた」自慢話を読み聞かせて「いのちの大切さ」を伝えようとすることの、危険を察知するだろう。
 本書は、子どもをめぐるまちがいやすい知識・情報について、特定の領域の専門家の知見をまとめてある。本書を通して、専門家を選ぶ眼を鍛えようではないか。


☆☆☆☆ この本を読んで『かがやき』やら『あおぞら』やら『ぬくもり』を見直してみようか。自分たちの人権教育に対する思い込みも、時には省みることが必要だ。

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2017年05月10日

田中辰雄・山口真一『ネット炎上の研究』勁草書房 二二〇〇円+税



 SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が急速に普及して、今やFacebookだとか、mixiだとか、Twitterなどに参加してネット・コミュニケーションを楽しんでいる人は半端なく多いはずだ。あのトランプ大統領も記者会見よりもTwitterで発言することを重視しているみたいだし、もはやSNSなしの生活は考えられなくなっているのかもしれない。意外と学校の教員はやっていないのかな。確かに教員が何か書こうとすれば、子どもたちや学校の愚痴になりかねないので、手を出しにくいのかもしれない。
 一方で、ホームページやブログを通じて自分の意見を世間に公表したり、そうした発信メディアを持たない企業、団体は信用を獲得できない時代になったと言える。
 そうしたインターネットを通じて意見を表明するわけだから、異論をもった人たちから批判的な書き込みも多々あるのは当然のことだろう。さまざまな意見のやりとりは民主主義の基本かもしれないから、SNSの普及は民主主義の発展に貢献するものかもしれない。SNSを通じて大きな政治的変革が起きた例もずいぶんとあったのを思い出すだろう。
 一方で特定の対象に対して誹謗中傷が殺到する「ネット炎上」という現象もしばしば起きている。いや、しばしばではなく、社会現象というくらいに発生していると言えるのかもしれない。それらは個人攻撃の形を取ることも多いわけで、新たな人権問題を生み出していると言えよう。
 本書はそうした「ネット炎上」を採り上げたマジメな研究書である。
 「炎上」が誹謗中傷の束であるということじたい、この現象は人権問題であることを認識しておかなくてはならないだろう。自分はSNSをやらないから、と問題を避けていたならば、重大なことを見過ごすことになるだろう。
 で、本書は「炎上」を類型化し、分類することから始めている。そして炎上の社会的コスト、炎上の参加者に分析をすすめ、実際にはどういう構造になっているのかが解き明かされていくのだ。
 じっさい、ある大学のセンセが講義中の発言を学生にSNSに流されることから炎上を引き起こしたことがあったのを見たことがある。まあ、それは一過性のものであったのだけれど、関係のよくなかった大学当局に利用されて不遇を託つようになったとも聞いている。また、同様に、別の大学の講義の内容について炎上が発生し、講義内容に変更を強いられるという問題になったこともある。ある意味では炎上を理由に物事におかしなものが介入することが起きかねないのであるが、そこは本書をよく読み、学術的な解明をすることで道が開けると言うことができる。要は炎上如きに振り回されてはならないという教訓を学術的裏付けで説明してくれているのだ。
 研究書とは言え、本書はそう堅苦しいものではなく、フツーに読みやすいし、ネットにびびっている人間にもわかりやすく説明してくれる。インターネットはもはや空気のようなものになりつつある。その空気の中にはウィルスも雑菌も含まれており、ときに感染をして病床に伏すこともあるだろう。しかし、空気なしに生きてはいけないのであり、その意味で本書は情報教育の基礎でもあり、人権教育のマニュアルでもある。

☆☆☆☆ 子どもたちの中でネットトラブルはますます増えている。その対応策のヒントが本書には散りばめられている。教師だけが取り残されないように。
posted by ウィンズ at 15:39| 福岡 ☁| Comment(0) | 人権問題 | 更新情報をチェックする

自衛隊を活かす会編『南スーダン、南シナ海、北朝鮮 新安保法制発動の焦点』かもがわ出版  二〇〇〇円+税


 
 新安保法制が成立して一年半以上が過ぎ、昨年は南スーダンに駆けつけ警護だなんだで自衛隊が派遣されたのは記憶に新しい。印象としては新安保法制が本格的に動き出したな、という実感がある。
 今さら言うのもなんだが、日本国憲法第九条というのがあって、この解釈をめぐって戦後の日本はいろんな議論をしてきた。そしてそれを横目でにらみながら自衛隊は大きくなってきたし、解釈の枠も徐々に広げられ、今や九条を変えなくてもじゅうぶんなところに来ているんじゃなかろうか。で、「もっと積極的に」というのが新安保法制だったんじゃないかな、というのがあっしの素人理解なのだが、どんなもんだろう。
 問題はここまで来てしまった日本の防衛の既成事実から何ができるか、ということだ。「何ができるか」って言ったからといって、「戦争ができる」という答えを求めているわけではないし、そんなことを期待している人間はごくごくわずかだと信じたい。
 新安保法制に
 「よくわからないが賛成だ」とほざいていたネトウヨにせよ、
 軍歌を高らかに鳴らして街宣をしていた右翼団体の方々にせよ、
 とりあえず安倍首相の言うことに賛成しておけという無条件保守派にしても、
 「尖閣諸島、竹島は日本の固有の領土だ、力尽くで死守せよ」と叫んでいた武闘派にせよ、
 中国と一戦交えたいとか、南スーダンで自衛隊の諸君に人を殺させたいとか、北朝鮮と日本海上で空中戦をしたいとか考えている人はどのくらいいるだろうか。よほど戦争で利権を得られる人(もちろん日本国内に生活拠点は持ってないだろう)か、人を殺したい人なんてそうそういるものではないだろう。今日も恙なく仕事を終えて、仲間と一杯やって、ラーメンの一杯でも啜るような生活が、空襲に怯える生活よりはずっといいと思うのだが。
 そうなるとわれわれの政治家の胸に期したところも国民の平和な生活であると思う。そのために自衛隊はいらないという人もいれば、だからこそ自衛隊が必要だという人もいる。新安保法制にしたって、そのほうがこの国の安全にとっていい選択だと考えた政治家が多かったということだろう。そんなことは考えず、自分の選挙だとか、なんらかの利権だとか、軍事産業との癒着だとか、アメリカにはものが言えないからとかという気持ちで選択した人はほとんどいなかったと思いたい。
 しかし、現実に日本の防衛をめぐる状況は新安保体制下で来るところまで来ている。私たちが現在直面しているのはしばしばミサイルを打ち上げては威嚇している北朝鮮であったり、尖閣諸島はもちろん東南アジア方面のちいさな島に手を伸ばしている中国との関係であったり、はたまたこの国の防衛範囲をめっちゃ超えていると思われる南スーダンとかにおける自衛隊がどう動けば〈国益〉に合致するのかということはリアリティのある問題となっている。北朝鮮や中国、もしくは韓国なんぞと戦争状態に入っていいことがあるかを考えたらいい。北朝鮮のミサイルが日本のどこかに落ちて戦争状態になったら北朝鮮はマジでその戦争に勝てると思っているだろうか。それこそ国家の壊滅を免れないことは承知しているはずだ。中国は経済的にも軍事的にも日本をはるかに凌ぐ国家となっている。ここでアメリカと中国が手を組んだら(「浅(あさ)海(かい)の悪夢」というらしい。これは一九七一年のニクソン訪中で現実となり、当時の佐藤内閣を震撼させたという。本書一〇八頁)、いわゆる第二の「浅海の悪夢」が現実のものとなったら、日本はどうしたらいいのか。いや、これは経済的な領域では現実化しているとも聞くし。
 物理的には遠方だけれど、南スーダンは内戦状態にあり、全く事態は沈静化していないという。その南スーダンで自衛隊が戦闘状態に巻き込まれ、「戦死者」が出たらいったいどうするのか。その時国民を護ることを誇りにしている自衛隊員諸君の大義はどう見つければいいのか。
 そういうふうに現在進行形で、南スーダン、南シナ海、北朝鮮という三つの戦争の可能性の中にこの国はあるのだ。それは現在の日本の状態から考えなければ現実的ではない。現在の自衛隊の置かれている位置、条件、そうしたものを前提に問題を考えなければ、明日の平和は危ういとは言えないだろうか。この本をまとめたのは自衛隊を活かす会は正式名称を「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会」という。単なる軍事推進派でもなく、自衛隊の後援会でもない。基本は憲法九条を護るところに原点を置いているが、そうではない人もメンバーには入っている。それだけ現実的な状況認識の中でこの三つの戦争に直面した場面をどう見たらいいのか、そしてこの国とこの国の自衛隊はなにをすべきかについて本書の中で議論されている。
 ただ、頭の中で観念的な防衛論争をする時代は終わったと言える。この国は少なくともここに掲げた三つの戦争に直面しているということをまずは自覚しようではないか。そしてこの三つの戦争が今、どういう状況にあるのか。まさに戦争に直面しているのだから、そのための戦略、いや、どうやって戦争をしないで済ますかという戦略を立てなくてはならないだろう。それは政治家に付託した問題ではなく、われわれ国民が持たなければならない意思なのである。
 ・・・国民が考えなければならないことは、戦争がなければいいのか、戦争しても勝てばいい(その場合多少の犠牲はやむを得ない)と考えるのか、あるいは、戦争のもととなる対立そのものが解決した安心状態が欲しいのかです。これは主権者としての選択です。(本書二一三頁)
 そう、選択肢がそんなにたくさんあるわけではない。本書を手がかりに考えてみよう。

☆☆☆☆ 選挙権が十八歳に引き下げられて主権者教育が着目されるようにはなった。今度改定される学習指導要領では「主体的に、対話的に、深く学んでいくことによって、学習内容を人生や社会の在り方と結びつけて深く理解したり」(『幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)』二〇一六・十二・二十一)という学びの転換が求められるようだ。この程度には生徒たちの議論の質を深められるようにしておこうではないか。 
posted by ウィンズ at 15:37| 福岡 ☁| Comment(0) | 戦争と平和 | 更新情報をチェックする

『低きに立つ神』(大蔵一郎解説)コイノニア社 二二〇〇円+税

『低きに立つ神』(大蔵一郎解説)コイノニア社 二二〇〇円+税

 「ルカによる福音書」の中に「善いサマリア人」の話が載っている。
 こういう話だ。
 一人の律法の専門家という人物がイエスに質問をした。
「『隣人を自分のように愛しなさい』と律法には書いてあるが、わたしの隣人とは誰ですか。」と。
 それに応えてイエスは一つのたとえ話をはじめた。
「ある人が追いはぎに襲われて、身ぐるみを剥がされ、半殺しにして立ち去ったのだな。そこを神に仕える祭司やらレビ人やらが通りかかったんだが、その人を見ると二人とも通り過ぎてしまった。しかし、一人のサマリア人が彼を介抱し、宿屋に連れて行き、宿代まで支払ったんだと。」
 イエスはここまで語ると、律法の専門家に問うた。
「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うかな。」
 律法の専門家は答える。
「その人を助けた人です。」
 そこでイエスは言った。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 これは聖書の中では非常に有名な話なのだ。よく「汝の隣人を愛せよ」というフレーズが使われるが、出所はここだ。問題は誰が「汝の隣人」かということである。それは思いつきで慈善を行うことではない。先日、この本の著者の一人である犬養光博氏のお話を聞いたが、彼はカメラマンの岡村昭彦がよく使っていた「同情は連帯を拒否した時に生まれる」という言葉から「汝の隣人」を説明してくれた。同情ではなく連帯なのだと。そしてこのサマリア人にとって追いはぎにあった人が隣人なのではなくて追いはぎにあった人の隣人がサマリア人なのだと。
 つまりは「わたしの隣人は誰か」という連帯を拒否した問いではなく、「わたしは誰の隣人となるのか」と問うべきなのだ、と。
 本書は六人のキリスト者が日本社会の辺境と向き合い、辺境の民と連帯して生きてきた歴史を書き綴ったものである。その辺境には同和教育や、解放運動が露わにしてきた「差別の現実」が横たわっている。辺境という言葉が適切かどうかはわからない。しかし、そこがキリスト者にとって隣人となることができる境界であり、敢えて辺境という言葉で本書を紹介したい。
 本書はまず伊藤之雄の「問いかける神」という章から始まる。伊藤は教会のもつ知的・プチブル的な教養主義に疑問を懐き、「裸の人間とふれ、自分も裸の人間になり、生きたキリストを信じるには、この家族と階級のなかにいてはだめだ」と思い、山谷に入って労働者となるところから「隣人」をはじめたのだ。伊藤は山谷に隅田川伝道所を開いて活動をはじめた翌年の一九六七年にこの文章を書いた。そして伊藤は本書が編纂されるずっと前の一九八〇年に亡くなっている。だから本章は「山谷1967」という位置を与えられている。
 この伊藤の文章に倣い、五人のキリスト者が己と己のかかわってきた辺境について語るという構成になっている。
 その五人とは岡田仁「苦界に座す神」(水俣)、犬養光博「おらぶ神、黙す神」(筑豊)、菊池譲「痛む神」(山谷)、小柳伸顕「共なる神」(釜ヶ崎)、渡辺英俊「地べたに在す神」(寿町)である。それぞれが伊藤の遺産を引き継ぐかのようにそれぞれの辺境とそれぞれの生きてきた道を語る。一つ一つの「隣人」としての歴史は重たい。それを要約することはおそらくは何の意味もあるまい。重要なことは彼らはみな伊藤が直面した教養主義的なキリスト教に対する批判のまなざしを受け止めることになった者たちだということだ。
 それぞれの章の名に記された神の名はそれぞれの辺境に住む個性豊かな神たちである。一神教であるキリスト教に「神たち」もないものだが、まぎれもなく辺境の人たちの「隣人」となろうとしたキリスト者たちはそこに神の言葉を見出したのである。
 水俣、筑豊、山谷、釜ヶ崎、寿町。これらの辺境でキリスト者は磨かれ、キリスト教は救いを必要とする人間のものとして再生されることになったのだと思う。キリスト教徒であるならばおのれ自身のキリスト教を問い直すには格好の本だろう。他の宗教を以て信仰とする者も同様であろう。いや神を必要としない唯物論者であれ、ヒューマニストであれ、何らかの信条を以て生きる者は本書を通しておのれの信条と生き方を問い直してみることができるだろう。なぜならば、この国には追いはぎに襲われた人、つまり社会の矛盾の中で呻吟する人間がいて、一方で「知的・プチブル的な教養主義的」な自分がいることを知らされるからであり、その自分自身が試されることになるからだ。おまえはその人たちの隣人たり得るのかと。
 おっ、ちょっと熱くなってしまったか。
 まあ、いい。たまにはおのれの生き方を深く掘り下げてみよう。私たちは日々それぞれの職場で働きつつ生きている。何もここに登場したキリスト者たちのようにわざわざ辺境の地に赴く必要はない。しかし、私たちの仕事は日々子どもたちと出会い、つながりを持って行くことではないか。差別と被差別の現実はそこにあるのだ。そして、あなたのかかわりが被差別者への同情なのか連帯なのか。果たして自分は子どもたちの「隣人」として存在しているのか。人権・同和教育にかかわるあなた自身に問いかける一冊だ。



☆☆☆☆☆ 福岡の教師なら、まずは犬養光博の「おらぶ神、黙す神」を読んでみようか。さて、何を見つけられるか。
posted by ウィンズ at 15:35| 福岡 ☁| Comment(0) | 人権問題 | 更新情報をチェックする