2012年04月07日

架神恭介+辰巳一世『よいこの君主論』ちくま文庫 七八〇円+税

 困ったことなのですが、実は私のクラスがまとまっていなかったのです。受け持って二年目のクラスなんですが、最初から落ち着きのないクラスでした。子どもたちがバラバラで、いじめなんかもあるみたいなんです。人権・同和教育では学級集団づくりがたいせつだと言われるので、集団づくりとか仲間づくりとかで実績のある先輩たちの意見を聞いたり、時には指導してもらったりしてやってみたのですが、どうにも自分の思ったように子どもたちはいい集団になってくれないのです。
 そんな私の息抜きが時々応援に行くプロ野球なのです。今年は無事クライマックスシリーズも制して、さあ日本シリーズ!というときに読売球団の代表があの渡邉恒雄氏を告発するという事態が起きて、大騒ぎになりましたね。あのとき職員室でその渡邉恒雄という人物についていろいろ話題になったのです。というより、自分のクラス一つまとめきれない私ですから、あの読売新聞とか読売ジャイアンツとかを支配している権力者っていうのが少々うらやましかったわけです。それで隣の2組のY先生に話しかけてみたのです。
「Y先生、この清武代表ですか、あのナベツネに刃向かったっていうのが凄いですね。私なんか校長の悪口なんて、これっぽっちも言いきらんですもん。」
 そしたらY先生は、
「まあ、蟷螂の斧、とかいうんじゃないの。勝てる喧嘩じゃないだろうに。ささやかな抵抗ということにおさまるんだろうね。」
 とクールなことを言った。それを聞いていた3組のS先生が口を挟んできた。
「世論が味方すれば勝てると思ったんじゃないのかなあ。実際僕なんかも快哉を叫んだとこもあるよ。」
「あたしもちょっと溜飲を下げたわ。だけど、結局喧嘩には負けちゃったんでしょ。下げた溜飲が逆流してきたわ。うっぷ。所詮権力者には勝てないのかしら。」
 と、私はうまく両方に話を合わせてみた。
「そんなにナベツネの権力って凄いのかなあ。」
 S先生の疑問にT先生がしたり顔で言う。
「なんかね、官房長官が毎月だったか、毎週だったかナベツネのところに政情の報告に行くことになっているらしいよ」
「そんなバカな。権力者とはいえ、ナベツネは読売内部の人間だろう。民間人じゃないか、官房長官は国家を担っているんだぜ。ホントだとしたらどんな権力なんだい?」
「いや、そうだって。」
「ホントかなあ。誰が言ったのさ。ガセネタじゃないのかい?もしそうだとしたらこの国はおしまいだぜ。民主主義もへったくれもないし、メディアの横暴じゃないか。」
「確かにそうよね。新聞も読売だけじゃないわけだし、朝日もNHKもあるでしょうに。」
 私もS先生と一緒にT先生に反発してみた。
「い、いや、まちがいない。確かテレビで言ってた。」
 テレビか。テレビが言うにしても、根拠はあるんだろうし、そんな噂話をばらまかれても困る。それはみんなの疑問だった。
「でもさ、ほんとだとしたらさ、何でそんなふうになれるんだと思う?」
「興味あるわね。」
「僕も知りたいな。将来権力者になってみたいし。」
 あら、T先生の野望がちょっと見えたところで、チャイムが鳴った。実は私もあの統制の取れていないわがクラスの子どもどもを〈女王様〉として支配してみたかったのね。
 まずは渡邉恒雄がどんなに権力者なのかを確かめたくって、魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社文庫 七六二円+税)をひもといてみた。おもしろい。これは十年以上前に書かれた本だけど、まさに今の彼のことがよくわかる。と言うより、この本が書かれてからの十数年間も、渡邉恒雄はさらに権力者としての地位を確かにものにしつづけているのですから。私だって、学級の女王から、学校の女王ぐらいにはなってみたいしね。
 渡邉恒雄は、学生時代は共産党で組織体験をしていたんですね。そして、共産党を離れてから、読売新聞社に入ってのし上がっていく過程が実に見事に史実に基づいて描かれています。これは渡邉恒雄という一人の人間の出世物語としてもおもしろいのですが、処世術の本として読むとまたちがう味わい方ができます。なんせ、名もない学生が新聞社もしくは日本社会という世界でのし上がって行き、人心を掌握し、大組織を経営している話ですから、『三国志』とか、戦国大名の話などがお好きなビジネスマンにとっても興味深いところで、あっ、T先生もそういう管理職にでもなろうという気持を持っているわけか。ふふ、私は女王様よ。
 で、まあ、『メディアと権力』のなかで書いてあるのが、渡邉恒雄は哲学科の卒業で、そのことが彼にとって自信の源だったらしく、特にマキャベリの『君主論』が愛読書だと書いてあった。マキャベリズムってよく聞くのだけれど、実はあまり意味がわからないのね。なにしろ、哲学とは遠いところにいたから、ですね。それで『大辞林』をひいたら「@どんな手段でも,また,たとえ非道徳的行為であっても,結果として国家の利益を増進させるなら許されるとする考え方。イタリアの政治思想家マキャベリの思想から。 A目的のためには手段を選ばないやり方。権謀術数主義。」とある。うーん、しかし、それはどんな哲学なんだろう?それに学級経営に使えるかなあ?少なくともあの子どもどもを支配するのには役に立つのかもしれない。
 ということで、ちょっとだけ知的好奇心がわいてきた私は本屋さんに行ってみました。『君主論』はいくつも翻訳があって、私は池田康訳『新訳 君主論』(中公文庫 七八一円+税)を選びました。新訳だから訳もわかりやすいんじゃないか、と思ったのです。そしたら、『よいこの君主論』(ちくま文庫)が目に入りました。なんと表紙に漫画っぽいのが描いてあります。パラパラ開くとゲーム本の解説みたいな漫画での人物紹介が出ているんですね。「ひろしくん(10さい)」とかあって、「勉強 C+、運動 B−、用兵 S……」とかなってて、人物評が載っている。思わず、これも買い求めてしまいました。文庫本だから安いものです。で、帰りにコンビニに立ち寄ったら、許成準『超訳 君主論』(彩図社 一二〇〇円+税)というのがあったので、これもゲット。何だか、もう君主になったみたい。
 そして、まずは正統派『新訳 君主論』から目を通してみました。そしたら、意外と読みやすいではありませんか。たとえば「一 君主国にはどんな種類があり、その国々はどのような手段で征服されたのか」「二 世襲の君主国」「三 混成型の君主国」「四 アレクサンドロス大王が征服したダレイオス王国は、大王の死後も、後継者への謀反が起きなかった。その理由はどこにあるのか」……という具体的な項目が二十六続くんですね。でも、そのアレサンクロドス、いやアレクサンドロスか。そんな舌を噛みそうな名前の王様なんて知らないし、どうしようかと巻末の解説をめくったら、マキャベリが『君主論』を書いた頃のイタリアは「北にミラノ公国とヴェネツィア共和国、中部にフィレンツェ共和国、南にローマ教皇領とナポリ王国という五大強国が並び立っていた」そうで、「それぞれの国はいずれも近隣の小国へ領土的野心をもち、外国の絶対王制の国々も虎視眈々とイタリア半島をねらっていた」とあるから、司馬遼太郎じゃないけど国盗り物語の真っ最中だったようなんですね。そして、マキャベリはそうした国々の興亡を分析して「国の分類」「軍事」「君主の資質」なんかについて解説しているのです。しかし、イタリアの歴史を知らないとよくわからないところがあるわけでひいちゃうところがあったのです。ところが、いわゆる「マキャベリ語録として知られる名言が随所に散りばめられ」ているそうで、なるほどそれなら現代の支配者希望の人たちの役に立ちそうな感じがしますね。
 それならと『超訳 君主論』を開くと、こちらはその名言らしきものを小見出しに持ってきて解説を加えている。副題に「マキャベリに学ぶ帝王学」とあり、「最強のリーダー論」と銘打たれているから、ぐっと現代に引き寄せてあるんですね。
 そして教師として気になるのは、やはり『よいこの君主論』ですねぇ。これはマキャベリの『君主論』を子どもたちが学べるように書いたものとなっています。前書きがすごいんです。「よいこのみんなへ」として「この本(ほん)ではクラスを制圧(せいあつ)するために役立つ(やくだつ)知識(ちしき)や、下々(しもじも)の者(もの)どもの心理(しんり)などをわかりやすく解説(かいせつ)しているよ。」と書き始められているのです。その次には「保護者の方へ」があって、「確かにマキャベリをビジネスに応用すれば、社長業の参考にはなるでしょう。ですが、社長になってから君主論を学ぶのでは遅すぎるのです」と、教育ママを刺激する言葉が書かれているではありませんか。教師としてはそそられるものを感じるではありませんか。そうだ『超訳』も『新訳』もとりあえず置いといて、まずは『よいこの君主論』から読もうと思ったのです。
 この本はマキャベリの『君主論』を下敷きにとある5年3組を舞台にして主人公「ひろしくん」がクラスを制圧していく過程を描いています。つまり、『君主論』で分析されているイタリアが5年3組で、ひろしくんやりょうこちゃんといったリーダーっぽい子どもは強国の君主。「うぞうむぞう」のクラスメイトたちは近隣の小国にあてはめて、子どもたちの権力闘争のポイントが『君主論』に則って描かれていると言ったらいいのでしょうか。そしてわかりました。私のまとまりのつかないクラスを最高の学級集団にする秘訣が、ですよ。ここで教えろ、ですって。ダメ。ふふふ、女王の座は譲れないから。ということではなくて、私は女王様にならなくたっていいことがわかったわけよ。
 ともかく、いわば権力志向の本を人権・同和教育の『ウィンズ』で紹介するなんてなんてことだ、とお叱りを受けるかもしれませんが、それはとんでもない見当ちがいというものです。確かに私は自分のクラスの集団づくりに悩んでいました。でも、この本を読んで上手くまとまっているクラスっていうのは、実は教師という絶対的な君主がいるということを意味しているのじゃないか、と思ったのですよ。マキャベリは多くの「君主」のあり方を研究して、それを主君メディチ家に献上したのですけれど、よく「目的のためには手段を選ばない権謀術数の書とも曲解」(新訳『君主論』解説)されているのは女王様のマニュアルみたいな評価のされ方をなされてきたということなんでしょうね。
 しかし、目的のために選んだ手段を記述したのが『君主論』で、君主と君主、君主と人民の関係のあり方を描いたものだと考えていいみたいなのです。そしてそうした人間関係を5年3組に置き換えてみれば、ひろしくんはじめ5年3組のお友だちはそれぞれが君主にたとえられるわけね。そして他のグループを制圧したりするんだけど、それは子どもだちの人間関係を意味していると考えたらいいのですね。君主とはリーダーであり、制圧というのは集団のリーダーとなること、と読み替えれば、ごくふつうのクラスの中の人間関係がそこにはあるわけです。そして子どもたちっていうのは自然にそういう集団活動をしているわけなのですね。そういう活動って教師の指導とは全く別個の動きなんです。
 そうそう、この5年3組にも担任はいるのですね。十文字先生というのだけど、この先生はまったく姿が見えないのです。遠足やらドッジボール大会や騎馬戦まで教師が出てきてグループ分けをしそうなところまで子どもたちが勝手にやっていて、それが学級の中の勢力図を形づくっているんですね。ありえないといえばありえない設定なんですが、それは子どもたちの自然な集団形成を観察する設定としてはこれでいいのです。で、この十文字先生は三学期になると突然産休でいなくなってしまうのですね。そして登場したのが厳格な指導力を発揮する産休代理の先生なのです。ここで、教師の指導力が学級をたばねるかというと、意外な展開となります。教師は(自分はそう思っているかもしれないけれど)子どもたちのリーダーじゃないのですよ。君主である子どもたちにとっては教師は不慮の災害みたいなものでしかないのです。それに上手く対応できた君主とその存在によってつぶされていく君主とが出てきます。そうなんです。子どもたちは教師の動きを見て政治的に対応しているわけなのです。だから私は女王様として子どもたちに君臨する選択肢は捨てました。それから、教師の意図で思うような集団づくりを試みるのもやめたのです。そうしたら、ええ、ばっちりでした。
 最後に5年3組を制圧したひろしくん、制圧された5年3組はどういう状態になったと思いますか。ひろしくんはみんなに慕われ、戻ってきた十文字先生の見た6年3組は子どもたちの表情がおだやかになり、いさかいもなく、よく学び、よく遊び、クラスは一丸となっていろんな行事に取り組み、「最高の一年間」になったということです。これは架空のお話だけども、きっと私のクラスもそうなるにちがいない。だって私には『よいこの君主論』があるから。



☆☆☆☆ 誤解と偏見で語られる『君主論』だけど、実は集団づくりのテキストなんです。そして職員室をまとめるにも、組合をまとめるにも、校長会を仕切るにも必読の書ですね。『よいこの君主論』を『超訳』や『新訳』とつきあわせながら読んでいくと人間関係を読み解いて、集団づくりに役立つこと請け合い。もちろんご自身の立身出世の野望にも役に立ちますよ。人望のない校長先生にも教えてあげてね。

※本文中二箇所「子どもども」となっているが、「子ども」の次の「ども」には傍点を付してある。
※「よいこのみんなへ」の引用に( )で括ったのはルビであります。
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2012年01月21日

団鬼六/黒岩由紀子『手術は、しません−父と娘の「ガン闘病」450日』新潮社

しばらく前になるが、母が長い闘病生活の末に亡くなりました。ちょうど年の瀬も迫った十二月のことだったと思います。田舎の妹から連絡があり、嚥下障害がきびしくなったので、胃に穴を空けて直接流動食を流し込むことにしたと言うのです。少しずつ弱っていく母ではありましたが、苺が好きなので、「春になったら福岡の苺を持って行ってあげるね」と言うとうれしそうな顔をして、「ああ、楽しみにしているよ。それまでは死ぬわけにはいかないね。」と笑っていたのはほんの一ヶ月前くらいのことでした。だから、その連絡は私にとってはかなりショックだったのです。医師の話ですと、「再び口から食べられるようになる人もいます。」ということでした。そのニュアンスの微妙なこと。医師は決して嘘はつかない。そしてその言葉に嘘はない。確かに嘘ではないのです。そして母が再び食べられるようになるとはひとことも言いませんでした。これも医師としては正しい判断なのでしょう。そしてその時の妹にはなにかを判断することはできなかったのです。

生き方を選べぬ老母の生き方は医師のルールで決められていく   休呆

 年が明けて田舎に帰り、病院に母を見舞いました。母はベッドの上に寝たきりになり、時間になると流動食の入った袋を看護師さんが点滴の器具にぶら下げ、胃に繋がったチューブとドッキングさせてくれる。それが母の食事でした。
 私が来たことを知ると母はまなざしで顔を寄せるようにと合図を送ってきました。母の口元に耳を近づけるとかすかな声で母が言ったのです。
「苺が食べたい。春にあんたが持ってきてくれた苺がおいしかった。あれをまた食べたいよ。あの苺を食べられたらきっと元気になるような気がするよ。」
 母がもう口から食物を摂取できないことはわかっていましたけど、私は嘘をつくしかありませんでした。
「もうすぐ春になるから、そうしたら苺を持ってくるね。それまでに苺を食べられるように元気になろうね。」
 しかし、春が来ても母は回復せず、流動食にしてから半年後母は亡くなりました。半年の間、苺を口にする夢だけを見続けて。叶うはずのない夢を追わせることってすごく残酷なことなのではないでしょうか。食べたいものが食べられず、ベッドの上から降りられず、命が消えるその日まで生き続けなくてはならない。「生きる」っていったい何なんでしょう。おそらく時が来れば私もそんな場面に向き合わざるを得なくなるのかもしれません。その時、自分で自分の生き方(=死に方)を選べるだろうとしたら、どうするだろうか。もしそれすら選べないときには・・・
 と言うことで、この本の著者である団鬼六は知る人ぞ知る大作家。知らない人には一生知らなくてよい大作家。あなたは知っているかなあ。その出世作は『花と蛇』。斯界では名作中の名作とも言われ、『花と蛇』に始まり、『花と蛇』に尽きるとも評価されているらしい。よくわからないけど。たぶん、このコーナーで紹介されるべき本ではないでしょうね、きっと(『花と蛇』〈1〜10〉幻冬舎アウトロー文庫 各六八〇円)。
 団鬼六は七十八歳にして食道癌と診断されました。そして、その日からおかしな闘病生活が始まるのです。この本は団鬼六が「残日録」と題して『小説新潮』に二〇一〇年五月号、八月号、十二月号に掲載した文章と、その最後の四五〇日間をつきあった娘の黒岩由紀子さんの文章とが掛け合い漫才風に編成されています。そして娘さんの父親と父親の死に対する向き合い方がすごい。
 なにしろ「残日録」と名づけるくらいですから団鬼六は死を意識してこの文章を書いていたことが想像できます。団鬼六は慢性腎不全を抱えていてそれまで三年ほど透析を続けていました。透析を受けながらも彼は銀座や新宿で夜遊びをし、何かあればパーティを開き、酒は呑み、煙草は吸い、という生活を続けていたのです。
 その団鬼六が癌宣告の後どうしたと思いますか。まず手術を拒否したのです。彼は子供たちに言います。
〈親を無理矢理長生きさせることを、親孝行だと思うな〉
 うーん、食べたいものも食べさせず、半年ものあいだ母親をベッドの上で生かし続けた私にはずしーんと来るひとことです。そして団鬼六はそれまでと変わらず、夜遊びをし、透析と癌の治療のための通院と執筆活動を続けるのです。そして亡くなる直前にはなんとうな重まで食べてしまうというすごい生き方=死に方を見せてくれたのです。
 生きるとはどういうことなのでしょうか。それは誰にもきっとわからないだろうと思います。わからないからそれぞれの思いで生と死とに向き合います。身内の者は愛する人に一日でも長く生きていてもらいたいと願い、医師はあらゆる技術をもって患者を一日でも長く生かそうとし、その願いに応えようとします。当の本人はその時どう考えたらいいのでしょうか。もし、考えを述べるチャンスがあったら私はどういう死に方を選んだらいいのでしょうか。この本を読んで少し前へ進んだような気がします。


☆☆☆☆ この本は団鬼六という異色の人物の闘病記なのではありません。また、団鬼六がSだとかMだとかいうこととも関係ありません。人権の基本にある〈命〉〈生〉というものを建前でなく,本音で考えるために読んでみませんか。
 
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新谷恭明『なぜ中学生は煙草を吸ってはいけないの』福岡県人権研究所

 十一月三〇日は書評の締切なんだけれど、なかなかいい本が見つからない。ていうか、このところこの欄にふさわしい本を読むのをサボっていたということもあり、ぐずぐずしているうちに締切が来ちゃった。なので、県同教への道が遠い。実に遠い。足取りも重い。なもんで、途中で寄り道してコーヒーの一杯でもいただこうかと福岡県人権研究所に立ち寄った。お、そしたら、なんか新しい本がどっと積み上げられているではないか。
「何か新刊でたの?」
「あら、新谷センセイのブックレットよ」
「え?そんなの企画してたんだ」
 これは天恵だ。締切ギリギリになってようやくネタと出会えたか。
「ちょっと見ていい?」
 と言いながら僕はすでに一冊手に取っていた。
「なになに、『なぜ、中学生は煙草を吸ってはいけないの』というのか。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』(光文社新書 七三五円)のパクリみたいだな」
 とつぶやくときつい言葉が返ってきた。
「パクリじゃないわよ。中にそういう章があるんだから」
「へぇ、そうかい」
 表紙は教室の写真に縦書きのラフな字体。なかなかいい感じだ。表紙を開いてみる。
「おや?」
 中表紙にはタイトルが書かれた黒板の写真。あれ、この字は見たことがあるぞ。まあいい。目次を開けてみる。おお、確かに「三 なぜ、中学生は煙草を吸ってはいけないの」とある。あとの章もどこかで見たことがあるなあ。おっ、最後の頁に「初出一覧」があって、なるほど、「羅針盤」に載ってた文章が多い。「羅針盤」ってほら、県同教の機関紙『かいほう』の最後の頁に載っているやつ。あとは『ウィンズ』に載っけてた文章か。あ、書き下ろしもあるんだ。まあ、一口で言うと新谷センセイのあの名著『学校は軍隊に似ている』(海鳥社 一二〇〇円+税)の続編なんだ。これはいい。
 もう一度最初に戻る。目次の次に、あ、やはり短歌があった。
 『学校は軍隊に似ている』では〈学校といふ旧き檻あり囚はれの子らは十二年の刑期に耐へて 休呆〉という短歌が載っていた。今度はどんなのかな,というと、こんなのであった。

日の暮れた街に子どもの居ることの罪なりし日を懐かしみをり 休呆

 ほほう、確かに昔は日が暮れたら子どもは家に帰らなくちゃいかんやった。夜に子どもだけで出歩くのは学校で禁じられていたのに、今では塾やらがあるせいか、ガキどもが盛り場をうろついちょる。あれは何とかならんのか、と思ってからずいぶんたつし。今じゃあたりまえの光景だもんなあ。
 ぱらぱらと中身をめくってみる。おや、写真があった。あれれ、「羅針盤」とはちょっとちがうかもしれない。なるほどだいぶ書き加えたところもあるんだ。この本、「わがまま書評」で紹介してしまおう。
 まずは「はじめに」を見てみる。これはたぶん「羅針盤」には書いてないはずだ。へぇぇ、スカンジナビア航空のことから書いてあるぞ。なるほど常識と偏見か。そして、うむ、最近の差別発言事件のことも書いてあるな。「はじめに」がおもしろいや。
 で、本文。最初は「一 通信簿の愉しみ」か。この「愉」という字がいいやね。教師のサディスティックな喜びが滲み出てくる。で「二 通信簿は怪しい」が書き下ろしか。ふむふむ、『学校は軍隊に似ている』もそうだったけど、「羅針盤」の連載もこうやってまとめてみるとおもしろいもんだ。
 あれ?北原白秋の短歌が載っている。「八 あゝ日本の児童は入学の当初から呪われている」だ。確か「羅針盤」の時にはなかったよな。

君かへす朝の舖石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

 名作だよな。おや、それに並べて〈駅までの君を見送る暗き道しんみり泣かす冬の雨かな〉というのが載っている。(新谷休呆『林檎の感触』)とある。これは新谷センセイと関係あるのかな。そう言えば巻頭の歌も「休呆」とあったし。
 とりあえず、こいつを一冊いただくことにした。何しろできたてのほやほやだ。今回の書評はこれにしよう。副題に「学校文化史の言い分」とあるから、学校を文化史的に見ていくと学校の持っている本質的な問題が見えるということなんだろうな。しかも、「羅針盤」からさらに内容は充実して深められている。こいつで理論武装すればこわいものなし。これを一冊読めば、酒場で知ったかぶりができる。この本を一冊教室に置いておけば子どもたちの学習意欲は急上昇するね、たぶん。いや、もしかすると。
「税込みで一〇五〇円ね」
 僕はポケットから小銭を出して代金を支払った。その時机の上にかわいい新書版の本を見つけた。めくると中身は歌集であった。新谷休呆『林檎の感触』櫂歌書房 一二〇〇円、とある。
「これだ!ついに見つけたぞ」
 そしたら「相聞歌ばかりの歌集よ」と教えてくれた。そうかい、けど相聞歌って何だっけ。まあいい、著者の写真があった。知らない顔だ。そしてカバーの裏に見つけた。なんと「写真 新谷恭明」とあるではないか。新谷センセイはカメラマンだったのか。確かにすてきな写真が短歌の間を埋めている。
「こいつも買いだな」
 だけどここでは買えない。ネットで注文しよう。



☆☆☆☆ 待望の「羅針盤」発『学校は軍隊に似ている』の続編。今や福岡の学校で最も危険と言われている「羅針盤」シリーズ第二弾だ。言うまでもなく「買い」だ。今回は福岡県人権研究所「ブックレット菜の花O」として刊行されている。
posted by ウィンズ at 18:19| 福岡 曇り| Comment(0) | 教育史及び教育学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上原善広『私家版差別語辞典』新潮社 一二〇〇円+税

 だいぶ前のことだけど、「バカチョンカメラ」って言ったら、「それは差別語だよ」って丁寧に忠告されたことがあるんだわ。どうしてかって言うと「チョン」というのは朝鮮の「朝」のことで、在日韓国・朝鮮人を差別的に言う使い方なんだと諭されたのね。そして「バカもいけない。知的障害に対する差別的な表現だ」とも言われたわ。
「えーっ!」
 そんなこと考えたこともなかったあたしはずいぶんと困ったのよね。全自動式の操作簡便なカメラを「バカチョンカメラ」ではない言葉で言わなくてはならない。ずいぶん苦慮したんだけど、ちがう言葉で言い換えようとするたびに知的障害者や在日韓国・朝鮮人の人たちに対するこだわりのような意識だけが増幅していって、なんか以前より差別意識みたいな感覚が強くなっていったのね。
 で、さ。そういう言い換えって、自分が差別そのものと向き合ってないで言葉をごまかして逃げようとしているだけじゃないのかな、って思うようになった。関東育ちのあたしには「バカ」なんて言葉は喧嘩の時に使うフツーの罵倒語だったし、男にふられたときなんかに「バカだなあ」って呟く自嘲的な表現だったのに(あっ、藤圭子の『新宿の女』だ。あれは名曲でした。藤圭子が「バカだなあ、バカだなあ、だまされちゃあああって♪」って呟くように歌うたびに切ない女心が震えたものよ)、そんな的確な言葉を失ってしまっちゃうじゃないのさ。
 それでさ、もしかしたら、って思って調べてみると、ちがうんだよね。「バカ」は元は梵語で「愚」の意味。僧侶の隠語として使われていたものだという。だから「莫迦」が正しい。意味はまず「知能の働きがにぶいこと。また、そのさま。そのような人をもいう」であり、もうひとつの意味は「道理・常識からはずれていること」となる。かなり幅の広い語だから、単純に障害者差別の言葉だとは言えないわね。
 「チョン」はね、それこそ元の意味は朝鮮とは全く関係なく、朝鮮に対する蔑視の始まる近代以前からあった俗語で、「一人前以下であること」を指すのよ。『西洋道中膝栗毛』に「ばかだの、ちょんだの、野呂間だのと」と書かれているそうで、もとより他人を貶める言葉ではあるけれど誹謗中傷の言葉をなくすわけにはいかないよね。だってそしたら日本語で喧嘩ひとつできなくなってしまうものね。(以上、『大辞林』を参照)
 いずれにしても差別より先に存在した言葉であって、あとから登場した特定の差別行為とくっつく言葉だと勝手に誰かが言い出して流布したもののようなのね。それって逆に差別の拡散じゃないのかなあ。
 そんなところに小林健治『差別語不快語』(にんげん出版 一六〇〇円+税)を見つけた。小林氏は解放同盟中央本部で差別表現事件に取り組んできた人で、にんげん出版の代表なのね。で、これはウェブ連動式管理職検定02と位置づけられ、その企画・制作は人材育成技術研究所(代表辛淑玉)なのね。ちなみに01は香山リカの「メンタルヘルス」、03が「パワハラ・セクハラ」、04が「職場復帰支援」、05が「クレームコミュニケーション」、06が「人事とコンプライアンス」、07が「企業とCSR」というラインアップになっている。まあ、これからの管理職は人権問題に精通していなければならないということなんだろうかな。
 にしても、対策としての差別語みたいなのって、抵抗があるなあ、と思わないわけでもない。
 そんなふうに考えていたところでこの本みっけ。上原善広『私家版 差別語辞典』だ。こちらの問題意識は対策じゃあなくって、差別の本質に迫ろうというところにある。差別行為はどこかに人間の業(ごう)のようなところがあるんじゃないかな。だって、容姿で差別的な意識を持っていたからあたしはあのイケメンと一緒になったんだしね。だからさ、厳密に言えばあらゆる差別をなくしちゃったら人生はおもしろくないっしょ。
 とは言え、色恋は差別だ、って言えば異論はあるでしょうね。でも美人は得だしぃ。得だってことは差別があるってことじゃないのかな、なんてひがんだ言い方をしちゃえば、差別とは何かについても考え直さなくちゃならないときなのかもしれない。差別用語だってはじめから差別のためにあったわけじゃない。その差別用語の歴史みたいなものにまで迫ることができれば、差別語や差別表現という意味も変わってくるんじゃないかな。
 差別表現に対する糾弾がある種の差別語についての警告を広めたのだけれども、それが機械的な言葉狩りに堕してしまったわけでしょ。それをこの上原さん、正面からぶつかろうとしているのね。と言うより、上原さん自身、被差別部落の出身で、それを中上健次の言った「路地」という表現から語りはじめる。「路地」が正解なのではない。それは彼の好む表現であって、向き合うべきは……そ、あたしなのだ。
 で、さ。上原さんをめっちゃ気に入ったのでこそこそ探していたらね、上原善広『被差別の食卓』(新潮新書 六八〇円+税)をみっけ。「はじめに」にはさ、「『これが日本のソウルフードだ』という口上が店内に掲げられているモツ鍋屋が福岡にあることを知った。その口上の横には『解放の父』と呼ばれた福岡出身の活動家松本治一郎の写真が額に入れて並んでいた」ってあるのを見て、思わず叫んじゃった。あたいらがよく行くあの店じゃないのさ。あああ、モツ鍋が食べたくなったなあ……
 それで上原さんの取材の姿勢がすごい。世界中の被差別民のソウルフードを求めて体当たりで喰いまくるんだね。旨そうなものから、遠慮しときたいものまでいろいろあるけど、食を通じて差別というものとガッツリ向き合う意味で、これはお買い得の一冊だね。

☆☆☆☆ これが差別であれは差別じゃないなんてものはたぶんない。敢えて差別と向き合い、ナマの人間関係を作り上げていくことがだいじなんだと思う。その意味で上原善広に注目!ってとこかな。

春吉のふか川旨しもつ鍋のたましい煮込み自由を語る  休呆
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2011年10月21日

三山喬『ホームレス歌人のいた冬』東海大学出版会 一八〇〇円+税

 二〇〇八年の暮れの月曜日のことだった。朝日新聞の短歌投稿欄である朝日歌壇を愛読している僕はいつもの「えっ?」という声をあげた。朝日歌壇を見るときいつも敬愛している永田和宏氏の選から見ている。そこに選ばれた一首に僕の目は釘付けになった。

(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ

 この歌に詠まれた光景の異様さに僕は息を呑んだ。炊き出しのカレーならものに並ぶという世界はどこにあるというのだ。そして投稿者の名を見て再び驚いた。そこには「(ホームレス)公田耕一」とあったからだ。ふつう( )の中には居住する都道府県名が書かれている。なのにそこには「ホームレス」という朝日歌壇には見慣れない文字か書き込まれていたからだ。これはホームレスを自称する人物が炊き出しに並んだ体験を読んだものであろう。
 ホームレスが短歌を投稿してなにが悪い、と言えばそれまでだが、僕の頭の中にはなにがしかのホームレスに対する偏見があったのかもしれない。それが一気に崩れ落ちた。(柔らかい時計)は明らかにあのダリの名作を引っ張ってきている。シュールレアリスムの思想の一端を少なくともホームレス公田耕一氏は血肉化している。それだけで公田氏の教養の深さに驚きを禁じ得なかった。思わず、家人に声をかけたが、まだ寝室で眠りをむさぼっている彼女にその声は届かなかった。歌壇欄を見わたすと、他の選者もこの公田氏の作品を選んでいる。なのでこの作品の上には☆が付いているのだ。
 そしてこの冬、毎回のように朝日歌壇には(ホームレス)公田耕一の作品が採られていた。いささか短歌や俳句を嗜む僕は月曜の朝の新聞を開くのが楽しみになった。そしてその期待に違わず公田耕一氏は投稿を続け、知る人の中ではその存在はけっこう話題になっていた。選者の永田和宏氏もかなり注目していたし、朝日新聞でも公田耕一が何者かを探し始めていた。決して名乗りを上げるわけではなく、どこに住んでいるのかもわからない謎の歌人であった。しかし、いつだったけか、「しばらく見ていないな」と思っていたが、そのまま作品が掲載されなくなり、消えてしまったのである。そして僕もその存在を気にしなくなっていた。つまり、公田耕一は世間から忘れられつつあったのである。
「あの冬、そんな投稿があったよね」という記憶だけを残して。
 そうしたら、この謎の歌人を追いかけていた人がいた。そして公田耕一を捜し求めてあちこちを動き回ったのである。そうしてその調査結果をまとめたのが本書である。
 だから、謎のホームレス歌人公田耕一を見つけ出すサスペンスとしてもこの本はおもしろいし、取材の過程でいろいろな人と出会っていくところはホームレスにまつわる人間ドラマを見ているようでいくつもの驚きがある。三山は短歌を作る教養人を手がかりにしていく。そうした人物はけっこういるもので、ちょっとした人生のずれが運命を分かつものである。中にはいまをときめく(この原稿を書いている現在もだし、これが読者諸姉諸兄の眼に触れる頃にもたぶんときめいているだろう)菅直人(その頃、首相であるかどうかはわからないけど)氏のかつての親友であり、同じ夢を描いた同志という人物もホームレスとして著者三山と出会っている。
 読んでいくと、この国の社会矛盾というのがどんどん露わになってくるのである。そしてそうした社会の裏面で人間の尊厳のために闘っている人々も描かれていく。例えば横浜寿町で識字教室を続けていた大沢敏郎。公田耕一のデビューは大沢の死の直後らしい。
 また本書の中には、似たような人物のことが出てくる。同じ朝日歌壇の常連で、アメリカで終身刑として刑務所から短歌を投稿してくる郷隼人。彼の作品は『LONESOME隼人』(幻冬舎 一五〇〇円+税)としてまとめられている(調べてみたらこの歌集についてはすでにこのコーナーで書評されていた)。また、ホームレス俳人大石太。大石の句集『ホームレス天叫』(創造書房 一二三九円+税)の表紙には

溺れるをなお突き落す天の川

 とある。パラパラとめくるとホームレス生活の中から詠まれた俳句が並んでいる。冒頭の三句。

配られし自決の毒に目が醒める
まぐろ怖じ金目のものは地に埋め
茜空飯場の嗚咽とひびきあう

 大石氏はこのような句集を何冊も出しているホームレス俳人だ。もう一冊手に取る。同じ大石太『ホームレス羽抜鳥』(創造書房 一二三九円+税)だ。こちらは写真がたくさん挿入されている。ベンチで横たわる男の写真の下に

元専務公園デビューの晴姿

 そうなのだ。元専務であろうが、元教師だろうが、ホームレスになる機会はいくらでもある。われわれだって例外ではない。俳人大石太は鹿児島県生まれの男性だということがわかっている。
 しかし、ホームレス歌人公田耕一の正体はわからない。そして三山は横浜のドヤ街をさまよいながら、さまざまな人と出会い、公田耕一を追い詰めていくのだ。
 


☆☆☆☆ いろんな読み方ができる本だ。そして問い詰めている問題は大きく、深い。で、公田耕一とは誰か?ネタバレになるので是非ともお買い求めの程を…。
posted by ウィンズ at 18:26| 福岡 曇り| Comment(0) | 文学・文芸・コミック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする