2018年03月20日

梨木香歩、師岡カリーマ・エルサムニー『私たちの星で』 岩波書店 一四〇〇円+税

 この星は地球だ。銀河系全体から見れば、たいしたものではありません。しかし、その上には、人類などというめんどくさい生き物が、めんどくさい関係をもちつつ、啀(いが)み合ったり殺し合ったりしています。私たちは、同じ地球という星の上に暮らしながら、なんでこんなに理不尽で悲しいことばかりしているのでしょうか。
 日本という国に住んでいると、世界はどのくらい見えているのでしょうか。インターネットの時代です。世界の情報は、何でも手に入るさ。そうは言っても、所詮は、小さな島国に日本語だけで暮らしていて、日本人しか友だちのいないさびしい私たちが、ちまちましたナショナリズムをかざして、隣国を非難したり、遠いムスリム世界を誹謗したり、大きな資本主義国に媚びを売ったりしているに過ぎない、と思えてしまうのです。
 幸いなことに私たちは、極東の小さな島国で細々と、とりあえずは七〇年余、人殺しをしないでやってきましたが、世界にどれくらい向き合ってきたのでしょう。世界と向き合わないと、未熟なままに孤立した偏狭な人間になってしまうのではないかな、という不安感をもってしまう今日この頃なのです。
 世界のものすごく多くの部分を占めているイスラム教についていえば、実のところ、私たちはまったくわかっていません。東アジアの住人でありながら、アジアのこともよく理解しないまま、アメリカの言う「世界」がすべてであるかのようにしか世界を見ることのできないのが、今の日本人なのかもしれません。
梨木香歩 一九五九年生まれの小説家。女性。
師岡カリーマ・エルサムニー 一九七〇年生まれで、文筆家。日本人の母とエジプト人の父をもつ。女性。 本書は、この二人のすてきな女性が岩波書店のPR誌『図書』に交互に掲載した、いわば書簡集なのです。まずは、梨木香歩から師岡カリーマ・エルサムニーに宛てた「共感の水脈へ」と題した文章から始まります。
 文化の垣根、まずはここからです。梨木香歩は、外国暮らしの長い友人が最近「日本はすごい」っていう本がたくさん出ていることに違和感を感じているという話や、錦織圭選手がある異国の強豪選手に勝ったときに「やっぱり日本人はすばらしいんだ」と讃美するキャスターの叫びに怖ろしさを感じたことなどをさらさらと書きつつ、ナショナリズムに触れていきます。
 それに対して師岡カリーマ・エルサムニーは、エジプトから同じような歪みつつあるナショナリズムに触れます。そして、梨木の感じた「怖ろしさ」に同調しない立ち位置が語られます。なぜかって? カリーマはエジプト人でもあるからなのです。そう、このことはとても大事なことだと思います。日本人だと自分で言い切れる人は、どんどん偏狭な世界観の中にとじこもりつつあるのではないでしょうか。カリーマのように異文化と触れ合う中に生を受け、新しい文化を生み、歴史を作る人間が、この島国には必要なのでしょうね。
 こうやって二人は、二〇編の書簡を交わす形式で、ナショナリズム、異文化、宗教・・・・日本人が、いや、この星に生まれた人間がこの星の住民になるために必要なさまざまな事柄について、考えを交換していくのです。
 二人の書簡のやりとりに首を突っ込むみたいな感じで、戦争と平和とか、キリスト教とイスラム教、日本とアラブ、そういう問題を考えていく。そして、私たちが広い心で世界に向き合っていく、そんな本です。それからこのお二人、文章がとても美しい。書評を書くために読み返していたら、私の文章もだんだん磨かれてきたみたいです。
★★★★
 たまたま日本という小さな島国で、偏狭な世界観と歪んだナショナリズムに困り始めたと感じたら、この本を手に取ってみるといいでしょう。きっと、小難しい国際政治の理論や情勢分析よりも、ずっとクリアな世界が見えてくるでしょう。そして、他国や他民族を憎んだり、嫌悪したりすることの悲しさを、また、異文化を理解し合うことの素晴らしさについて考えてみませんか。

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作/武田一義、原案協力/平塚柾緒『ペリリュー/楽園のゲルニカ』1~今のところ3  白泉社 各六〇〇円+税

 だいたい三頭身で人物が描かれていれば、ギャグ漫画の類いだろう。つまりこれは漫画本だ。どう読んでも漫画本だし、登場人物も三頭身のかわいい男子だ。そう、男子だ。男子しか出てこない。
 第一巻の冒頭は、美しい海の写真、そして洞窟、朽ちかけた銃器の写真が出てくる。ページをめくると、海を見つめる三頭身の後ろ姿が呟(つぶや)く。
「ここに祖父がいた」
そして、美しい島の遠景写真。
〈ペリリュー島 昭和十九年 夏――〉
 三頭身の兵士が登場し、島の遠景写真が白黒の絵に変化する。現在から過去へ。島は、今も昔も同じ形をしていて美しい。その美しい景観は「まるで物語で描かれる楽園のようですよ」と、三頭身の兵士は故郷の母に語りかける。
「日本に帰ったらここでの見聞を元に冒険漫画を描きたい」
 まだ、彼は地獄を知らない。このようにして、この漫画は始まる。そう、これは、あの太平洋戦争を舞台にした漫画なのだ。主人公の田丸一等兵は、将来漫画で身を立てたいと思っている普通の若者だ。そして、ここまでの展開のように、ややのんびりした雰囲気の描写から始まる。しかし、その呑気な気分は、小山一等兵の言葉で否定される。
「田丸君は…俺らがこの島から生きて帰れると思ってるのかい?」
 南方では多くの島で日本軍が玉砕していることをこの小山は知っていたし、次は自分たちの番だということを理解していた。日本はそういう戦争をしていたし、その論理は沖縄戦や、八・一五以後の千島や樺太での民間人を巻き込んだ無謀な戦闘にも引き継がれていた。戦争が始まると、何のために戦争をしているのかがわからなくなり、戦争そのものが目的と化していく。それが、あの戦争だったのだろう。玉砕だの、本土決戦だの、まさに国を滅ぼしてもかまわないという〈誰か〉の声が、数多の兵士の、数えきれぬ国民のいのちを奪っていったのだ。
 丸山真男(政治思想史学者、一九一四~一九九六)だったと思うが、当時の国の指導者たちはみな「自分はそうは言っていないと責任を回避し、そういう雰囲気だった」とのたもうていた、と説明していたのを思い出した。そして、そうした雰囲気をトップの方針だと勝手に忖度して、将校たちの率いる戦場は存在した。
 この漫画も、米軍の空襲で地獄が始まる。空襲が去った後に、誰かが靴をひろった。なんと、靴には足が詰まっているではないか。当然のことだが、この兵士は靴の中に足だけを遺して、なすすべもなくこの世から消えた。そのように意味のない死に意味を付けるように報告がなされていくし、田丸もその仕事を命ぜられる。
「同じ死ぬなら勇敢に戦って立派に死にたいんだ」
と、戦死を覚悟していた小山も、敵の気配に驚いて足を滑らせ命を落とす。そんなふうに意味のない死が、次々と繰り返されるのだ。
 それは、アメリカ兵も同じだ。圧倒的に強大な戦力でペリリュー島に臨んだ米軍だが、白兵戦では兵士同士は時として遭遇する。戦死していく米兵にも母親がいて、「ママー!」と叫びつつ、日本兵の憎しみを全身に受けて死んでいく。しかし、なぜ日本兵の誰それが米兵の誰それを憎まなくてはならないのか。戦友の仇と一言で言ってしまうが、個人的には何の恨みもなく、それぞれ不運にも戦場で出会っただけのことである。
 そんな絶望的な状況でのペリリューの戦いに、三頭身で描かれた漫画的な兵士たちが邁進していく。漫画的に描かれていることで、リアリズムは抑えられているような気がするが、それゆえに、いやそれだからこそ、心の中に戦争の残虐さがカタチをなしてくる。
 戦争を漫画で描く。それは、実にカッコの悪い姿となって描かれる。笑うか、いや、笑えない。カッコの悪いことしかないのが戦争だったことがよくわかる。そして、あの連中はすべてを隠して国民に嘘をついてきたのだ。いや、彼ら自身も目に見えない雰囲気に呑まれて、妄想の中で戦争を起こしたし、止めなかった。
 第四巻は、二月末の発売だ。絶望的な戦いは早く終わって欲しいと思いながら(きっと田丸一等兵は思っているにちがいない)、わたしは発売日を待っている。
★★★★
 敢えてリアリズムを避けて、漫画としたところがすごい。教室の隅に置いておくだけでいいのかもしれない。マジで、戦争はやめようと思うだろう。昔話を又聞きで説明するような平和教育をしようとする前に、読んでおこう。



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文/そのだひさこ、絵/丸木俊(とし)、訳/Ian Neary『いのちの花』英語版 三〇〇〇円

 江戸時代の身分というのは、理不尽なものであった。近代になり、人権という言葉が生まれて、「それは人権侵害だ、差別だ」といって人は闘うことができるようになった。「人権」とか「差別」という拠り所となる言葉を持たない時代に生きていた人々にとって、身分制度はあまりに理不尽なものであった。
 ということで福岡の被差別部落に伝わる理不尽な一件。ムラを守るためにその理不尽さを引き受けた、寛政五人衆の伝承がある。この伝承を一人の女性がみんなの宝物にしようとして、物語を書き始めた。なんども推敲を重ね、言葉を磨いた。よけいな言葉は悲しみを風化させる。多すぎる言葉は怒りを磨耗させる。言葉を研ぐ。研ぎ澄まされた言葉は美しい。彼女の名は、そのだひさこ。当時は中学校の教員であったと聞いた。学生時代から被差別部落に入り、福岡の同和教育を牽引してきたひとだ。
 そのだには、心に決めた画家がいた。
 丸木俊(とし)(一九一二~二〇〇〇)という画家をご存じだろうか。そう、夫である位里(いり)とともに描いた『原爆の図』があまりに有名だが、絵本作家としても著名な人物だ。そのだは、偶然に手に取った石垣島空港反対の絵はがきによって、丸木俊の絵に魅せられたのだった。そのだが惚れ込んだのは、そこに描かれた「女」だったという。そのだの言葉に従えば、「その匂やかさ、切なさ」だ。
 丸木俊は、原爆や沖縄戦といった理不尽な人間の業を描いてきた。人間の業と理不尽なものに対する、怒りと悲しみを描くことのできる画家だ。そのだは、原爆展の講演のために博多の美術館に来ていた丸木俊に、突然声をかけた。それまでまったく面識はなかったという。
 絵本ができあがるまでの道は、平坦ではなかった。八年という時間が費やされたという。絵本ができあがった二〇〇一年には、丸木夫妻はすでに鬼籍に入っていた。こうして世に出たのが、本書『いのちの花』である。題字は、丸木俊の夫である位里がしたためた。なんとも贅沢な絵本である。
 物語は理不尽である。ある暴行沙汰の犯人がムラの人間にちがいないと決めつけた奉行所は、犯人を差し出せ、とムラに命じてきた。差し出さねばムラを焼き払う、というのである。そうして、五人の若者がムラを救うために名乗り出て処刑される、というストーリーである。
 丸木俊の絵はすばらしい。そのだひさこの訥々(とつとつ)とした語りに込められた悲しさ、切なさ、そして怒りを、丸木俊の絵は謳いあげていた。そのだひさこのことばと丸木俊の絵が見事な相乗効果をなし、心が震えてくるのを止めることはできない。描かれた絶望、悲しさ、理不尽さは、後の世には差別への怒りとなってあらわれる。たとえば、「博多毎日新聞差別記事事件」となって再現するのだが、ここでは部落解放史の講釈をするつもりはない。そちらは、『リベラシオン』一六五号の「博多毎日新聞差別記事事件から一〇〇年」を読んでもらいたい。
 で、だ。それから十六年。絵本は今回、そのだひさこ自身の手で新たに増刷され、さらになんと英語版が刊行されたのである。
 英訳をしたのは、イアン・ニアリー(Ian Neary)。オックスフォード大学教授で、『部落問題と近現代日本~松本治一郎の生涯』(明石書店/二〇一六)の著作がある。九州大学に留学していたことがあり、そのだひさこをはじめ、福岡の部落問題研究者との交流も深い人物である。
 イアン・ニアリーは、福岡の部落史の事情に通暁(つうぎょう)した研究者である。もちろん、この伝承についても熟知しているわけだが、英語の詩としても美しい。文学的な才能もあり、もし教材として活用されるのならば、英語の教材としても、人権教育の教材としても、すばらしい教材となるだろう。カリキュラム・マネジメント、教科等横断的教育課程の編成が求められているらしいから、これはいいと思う。
★★★★
 丸木俊の絵画は、新たに見ることは出来ない。おそらくは、二〇〇一年に絵本になったこの作品が事実上の絶筆だったのだろう(※絶筆は1999「洋梨」とあるが、推測だからママでいいのかとも※)。そのだひさこさんに頼めば、なんと〈原画〉の展示会もできると聞いた。地域や学校での展示会もお薦めだ。原画は感動するよ。
 そうそう、日本語版、英語版のほかに、オカリナの名手 山口裕之さんの演奏とコラボしたCDもあるんだなあ。これもいいですねぇ。ということで、詳しくはそのだひさこさんか、福岡県人権研究所へ問い合わせてください。
 ちなみに、英語版は三〇〇〇円、日本語版は三五〇〇円。CDは英語版とセットで三五〇〇円、日本語版とセットだと七〇〇〇円だそうです。

 そのだひさこ 電 話 090-1871-9994
FAX 092-672-1598
メール hisako.8.1@jcom.home.ne.jp
 公益社団法人 福岡県人権研究所
電 話 092-645-0388
FAX 092-645-0387
メール info@f-jinken.com








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2017年12月18日

平岡禎之『うちの火星人』光文社 一五〇〇円+税

 この本の凄さは、火星人との交流の方法をていねいに事例に即して解説したところにある。かつて火星人は、姿を隠して地球のあちこちに潜伏し、しばしばその能力をいかんなく発揮して地球のために多大な貢献をし、時に地球人の迫害に遭って密かに涙したこともある。この地球が火星人にとって住みにくくなってきたせいか、はたまた火星人がその特性を地球人に見破られはじめたせいかはわからないが、このところ火星人が理不尽な扱いを受けるようになった気がする。
 地球人である著者は、沖縄在住のごくふつうの―といえば失礼か―多くの賞を取った名のあるコピーライターであり、作家でもある。そして本書は、副題にも書いてあるように、彼の家に同居する火星人たちを地球人の理不尽な迫害から守るための“取扱説明書”なのだそうな。
 もちろん平岡さんは、これまで自宅に火星人を匿(かくま)っていたわけではない。ある時まで、ちょっと変わった個性的な人たちだと思っていたと言う。平岡さんの家は、夫婦と二男二女の六人家族。多少扱いにくいところのある子どもたちだな、と思いつつ暮らしてきたのだが、末っ子の次男が中学生の時に学校から呼び出され、もはや学校では手に負えないと通告されたことで事態が発覚したのである。
 そして、調べはじめたところ、子どもたちはみな発達障がいであることが判明したのである。あまつさえ、長年連れ添った妻までが発達障がいだったのだ。苦闘はそこから始まるのだろうが、平岡さんたちの克服法は、平岡さんを除く発達障がいの家族たちが自ら地球人とはちがう感覚を持つ〈火星人〉と自称することにしたことだった。
 火星人は地球人と感覚が違うのだと考えれば、要は異文化理解として、異星人理解として日々の行動を解釈し、つきあっていくことができるというのだ。平岡さんは、この〈火星人〉の家族をマンガに描いてみた。平岡さんはその際に、地球人の姿形をして潜伏していた火星人である家族を、それぞれの特性をあらわした動物のキャラクターにしてしまったのである。
 妻はワッシーナ(50)、長女ニャーイ(30)、長男ウルフー(23)、次女リスミー(21)、次男ウッシーヤ(17)といった具合にだ。次男は高校生だが、妻は幼稚園職員、長女は翻訳・通訳、長男は広告代理店勤務、次女は国際線CAと、それぞれ職業生活も送っている。そして、うちの火星人たちは外出時、敏感な感性ゆえに受けるストレスから身を守るために、透明なヘルメットを着用して登場する。 
 このようなキャラクターデザインに発達障がいという存在のしかたが描かれているのだという。そして実に個性的な感覚の特性を持っている家族の一人ひとりについて、マンガと文章で取扱説明書が綴られているのだ。地球人と異なる感覚も、ヘルメット越しにその感覚の特性を取扱説明書に従って把握すれば、お互いにストレスも少なくなるであろうし、理解も深まるし、なにより火星人たちが安心して地球で暮らしていけるというものだ。
 そして、長女ニャーイは結婚することになった。で、平岡さんは新郎新婦にニャーイの『火星人解説書』を手渡したという。
 実は、本書には副題として「5人全員発達障がいの家族を守るための“取扱説明書”」と書いてある。発達障がいの人間は、地球人のように扱われればそれは迫害のようになってしまい、とても生きにくい。だから、発達障がいの家族を守るには、このような取扱説明書が待ち望まれていたのだろう。頁を繰るたびに、眼から鱗がバンバン剥がれ落ちていく。つまり、火星人理解という新しい人間理解によって、人間観、世界観が広がっていくのだ。

☆☆☆☆ 発達障がいに限らず、人間理解のための“取扱説明書”は必要なのだろう。自分だけがふつうの地球人だとは思わないことだ。人間理解の苦手なあなたに是非一冊。ただし、この取扱説明書、ついてくるのではない。本屋で買っておくれ。
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吉野源三郎原作 羽賀翔一漫画『漫画 君たちはどう生きるか』マガジンハウス 一三〇〇円+税

 吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』は岩波文庫(九七〇円+税)の一冊であり、一度は手に取ったことのある人もいるのではないだろうか。まあ、岩波文庫なので遠慮していた人もいるだろうし、岩波文庫の威圧感で読み切ることのできなかった人もいるかもしれない。
 なんと、その名著が漫画になったのだ。
 吉野源三郎(一八九九~一九八一)は編集者であり、雑誌『世界』の初代編集長として知られる人物である。本書の原作を書いたのは一九三七年、昭和十二年のことであるから、ちょうど八〇年前のことになる。最初は自身が編集にかかわった『日本少国民文庫』全十六巻中の一冊として、新潮社から刊行されたものだという。
 もとより、少年向けなので平易な文章なのだが、それでも岩波文庫本だと、そこそこに厚いし、字も小さい。読むには体力と気力が要りそうである。内容も旧制中学の生徒が主役であるから、ちょっとかまえてしまいそうだった。なにしろ、子どもたちのほとんどが高等小学校に進む時代に中学校に行くというのはよほどの勉強家か恵まれた人間であったはずだ。そして、その頃の中学生はずいぶんと大人だったのではないか、というのはわたくしめの勝手な思い込みであったが、漫画の中に出てくる中学生は今の中学生と変わらないかわいい少年だ。
 羽賀翔一の絵は、やさしいタッチで昭和の青春を上手に描いている。原作が書かれた一九三七年は、日中戦争が始まり、南京事件のあった年だ。世間がどんどんきな臭くなっている時代なのだが、少年の悩みは学校と友人関係の中にある。叔父さんは、その少年コペルくんが悩みを「自分で考える」なかで、社会問題とも関連づけながら導いていく。この展開は、羽賀の漫画の力による。そして、考えるべき問題が抽出されていくのは漫画の力だろう。
 漫画によって問題が提示されてゆき、叔父さんの意見になるとそれは原作通りに〈文章〉で書かれている。漫画で状況が展開されているせいで、叔父さんの意見が文章で長々と記述されていても、意外にスムーズに頭に入ってくる。もちろん、叔父さんのご意見はそれなりに小難しくはあるんだが、これならば中学生でも読めるだろう。
 コペル君が向き合わなくてはならないのはけっこう現代の中学生がぶつかっている悩みと変わらないと思う。基本的には友だちとの関係だ。
 例えば、学校の中でのいじめ。いじめは最近増えた問題ではなく、この頃もあたりまえにあったことだ。その中で中学生が悩むのも、現在と同じである。現在のようにいじめが深刻な社会問題ではなかった時代なのだが、そこにかかわる生徒たちそれぞれの立ち位置と役割は変わらない。そして、コペル君はいじめの傍観者として、まずは悩みを抱えることになる。さらに貧困の問題であるとか、仲間への裏切り、まさに青春ならではの精神的な課題をコペル君は抱え込み、時には引きこもってもしまうのだ。そのあたりの叙述も、羽賀の漫画の力がいい説得力を与えている。
 昔、中学生だった読者諸氏も、今、中学生とかかわっている読者諸氏も、そして活字離れになっている老青年諸氏も、漫画ならいけるから目を通してほしい。
 

☆☆☆☆ 漫画って力があるんだと、つくづく知らされた。漫画しか読まないアソウ君にはぜひとも読ませたい。きっと、人権軽視の暴言を吐かなくなるだろうから。悪いことをしても逃げ切ろうとしているアベ君にも読ませたい。人間として、してはいけないことに気づいてくれないかなあ。
posted by ウィンズ at 10:54| 福岡 ☁| Comment(0) | 教育及び教育問題 | 更新情報をチェックする